那古船形駅から崖観音へ向かう道筋に岩船地蔵尊がある。左側の岩船地蔵尊は石でつくった舟に乗っている。はじめは念仏をして疫病除けを祈願する信仰だったが、そのうち大漁祈願や海上安全が祈られ、新造船の安全祈願や船酔い防止の祈願に変わっていった。右側には明治6年(1873年)と大正2年(1913年)の馬頭観音がある。


岩舟地蔵尊
 
大福寺
 
大福寺と崖観音

那古船形の大福寺は崖観音で有名な真言宗のお寺で、船形山大福寺という。本堂は関東大震災で倒壊し、4年後の昭和2年(1927年)に再建した。富浦(南房総市富浦町)の彫工、後藤義房作の向拝彫刻は翌昭和3年のもの。境内に元禄16年(1703年)の大地震の津波で犠牲になった摂津西宮(兵庫県西宮市)の人々の供養塔がある。


崖観音

崖観音

崖観音

崖観音本尊は平安時代末期の作とされる磨崖仏の十一面観音立像で、海上を行き来する人々から見やすい位置にあり、漁民や海運など海上に生活する人々の信仰を集めてきた。崖から張り出すような堂ができたのは、江戸時代の元禄地震後の復興の時で、関東大震災のあとも同じように再建された。船形駅から線路沿いに北に250mほど行き左の道を行く。ここの切り割りは明洽40年に切り下げたもので、記念碑が傍らにある。

先の往還との合流点には義民忍足(おしたり)佐内の碑がある。忍足佐内は金尾谷村の名主で、明冶7年(1770年)に越訴(おっそ:江戸時代、管轄の役所・役人を越えて上級の 官司に提訴したこと。直訴(じきそ)・駆け込み訴えはこの類)を試みて処刑された人物で、この事件は勝山藩西領騒動として知られている。

佐内が処刑された場所白塚河原には石地蔵か祀られている。


往還切通

記念碑

佐内の碑

白塚河原・佐内地蔵


十字路を右折して踏切を渡る。田圃の中の道を250m程行くと十字路にぶつかる。


長勝寺

本殿

笠石

左折すると船形へ向かう房総往還、直進すると長勝寺へ向かう道である。
釜沼山普門院長勝寺は、真言宗の寺で、釜沼山は寺の裏山で野高と呼ばれ、かつて寺領の水田があり、水田の中央には弁天様が祀られていたといわれています。現在は本堂左手の池に移されています。本尊は地蔵菩薩で、南北朝期の木造坐像である。里見氏から1石の寺領を与えられていましたが、徳川氏からは認められませんでした。墓地には中世の五輪塔の笠石が残されています。また、源頼朝が先勝祈願で訪れた時に「いつまでも勝ち続けるように」と「長勝寺」と改名したとも言われている。


現代の道標

田園風景

陣屋跡

陣屋跡・石垣

往還は右に行く。房総往還に入りすぐ左側に船形藩の陣屋が置かれていた。船形藩は元治元年(1864年)に若年寄平岡道弘か立藩したが、明治元年(1868年)に奉還して廃藩となり、陣屋は完成しなかった。現在は石垣が残り、また近年まで近くの民家に陣屋の裏門が残されていた。


302号線脇の里程標

里程標(拡大)

往還はやがて国道につきあたり川名の町並みへと入る。三叉路左脇には里程標が立っている。
ここから西ヘ1Km程のところに船形港があり、船形の中心街になっている。往還は左折して東の那古へ向かい600m程で那古寺の前に出る。
このつきあたりのどんどん橋の三叉路に明治26年の船形村道路元標があった。今は館山市立博物館に保管、展示されている。地元ではここから木の根峠に向う道を「大街道」と呼んでいたといい、船形陣屋のあった辻に大街道という屋号の旅館があったそうである。


埋もれた鳥居
 
金比羅刀神社山門
 
拝殿

那古観音への石段

日枝神社

国道を南へ向かう。金刀比羅神社の鳥居?土に埋もれた鳥居と石仏が見える。その先にある那古観音への石段を登った。

 
閼伽井の井戸

 案内板
 
里見桜の由来

石段の途中には日枝神社・あかい閼伽(あか)井の井戸がある。拝殿まで行くと那古寺側からの参道もあることに気が付く。那古寺からの登り坂の方が楽であった。地図を見て参道は確認していたが、階段を登り参道を下り、再度登った事となる。


那古寺・本堂

宝篋印塔群

大蘇鉄

那古寺は那古山の南に面した坂東三十三観音の納札所で、訪れる人も多く、門前は町場を形成している。客殿の前には大蘇鉄があり、宝暦11年(1761年)の『房総志料』にもすでに紹介されている。


4山門

仁王像
 
多宝塔

滝本堂

那古寺は元禄16年(1703年)の地震で堂宇が倒壊し、その後、宝暦11年(1761年)に再建された多宝塔は県指定、同9年(1707年)再建の観音堂は市指定文化財である。その他重要文化財の銅造千手観音立像や県指定の木造阿弥陀如来坐像など多くの文化財がある。観音堂にかかる円通閣の篇額は文化14年(1817年)、松平定信の筆である。境内には八大龍王の碑があるが、仙台石の碑で安政3年(1856年)に仙台石巻の高橋屋作右衛門らが那古の船仲間とともに廻船の海上安仝を願って建立したものである。


境内の案内板

また観音堂横の日枝神社には江戸の問屋18人が安永4年(1775年)に奉納した灯寵がある。


観音堂
 
銅製千手観音像

案内板

潮音台への道

往還は観音堂の崖下にあるが、ここは元禄地震(元禄16年11月23日《1703年12月31日》)(午前0時頃発生し、千葉県内の被害としては、死者6,534人、9,610棟もの家屋が全壊した)で隆起したところで、それまでは海だったという。那古寺への古い参道は船形のどんどん橋手前で那古山の裏へまわり、古那古というところから山を越えている。往還もおそらくこの参道か、あるいは那古山を回りこんで東から那古の町へ入ったのではないかと思われる。那古の町は天保・嘉永頃で戸数238戸あり、十返舎一九の「房総道中記」には門前に飴屋が多いと紹介されている。
【千葉県教育委員会房総往還資料による】


道標 

潮音台からの展望
館山湾

和泉式部供養碑

和泉式部供養塔


案内板

観音堂脇には那古山に登る式部夢参道ある。道は中腹で山頂と潮音台に分かれている。和泉式部の供養塚のある左側の道を登る。展望が一気に開けた所に館山湾を見渡すように供養塚がある。女流歌人として自由奔放に生きた式部の伝説は日本各地にあると言う。ここもその一つである。


那古観音境内からの
眺め

振り返ると那古山

往還は直進

国道は海岸線と平行に那古寺の前の信号を直進しているが、木の根道はここで二手に分かれる。ひとつは国道の方向へ直進し北条・館山へ向かい、ひとつはこの信号を左折して府中へ向う道である。

那古の町並みはおおむね府中方向へ向う道の両側に並んでいる。海岸側にバイパスが出来ているので交通量は少なく歩きやすい。


八雲神社

拝殿

本殿

祭礼中という事で八雲神社に立寄ったが、町内を回っていたのだろうか、誰もいなかった。
北条への道は海岸に沿って正木の集落を通り、平久里川を越えて安房国総社の鶴谷八幡神社の前にでる。


平久里川(上流方向)

平久里川(上流方向) 
 
デカンショ節発祥
の地碑

平久里川は別名湊川というが、高山彦九郎の『北行日記』には「湊川歩にて渡る川原有り」とあり、寛政2年(1790年)にはまだ橋はなかったようである。

館山八幡郵便局の100mほど先に大幸園茶舗の向い側に[デカンショ節発祥の地」碑が建っている。
♪デカンショデカンショで半年暮らす ヨイヨイ ♪ あとの半年ゃ寝て暮らす ヨーイ ヨーイ  デッカンショ
「デカンショ節」は明治末から 広く全国で歌われ、特に学生の間で愛唱された歌である。兵庫県篠山市周辺では、 今もデカンショ節が盆踊り歌として歌われているという。

“デカンショ"の語源については多くの説があって 定説はないようだが、篠山町七十五年史で学生たちが,有名な三人の哲学者 デカルト・カント・ショウベンハウエル の頭文字をもじったという説を採ったため、 この説を採る人が多いようだ。丹波篠山のローカルな民謡が「デカンショ節」となって全国に普及したきっかけは 次のようないきさつがあったと言われている。
旧篠山藩では 明治維新後に学問を奨励し、東京に寄宿舎を作り優秀な学生を遊学させた。彼等、篠山からの学生達は 夏になると千葉県の八幡の浜で過ごしていた。1898年
(明治31年)年の夏、宿泊先の江戸屋の二階で郷土の盆踊り歌を大声で歌ってていたところ、たまたま階下に宿泊していた旧制一高の水泳部員達がこの歌を聞きつけ,意気投合して歌の指導をうけた。
これが東京に戻ってからも歌われて、多くの学生たちによって愛唱されるようになったという。


一の鳥居

吹き流し

祭礼の幟

二の鳥居

安房の国 館山 は、日本全国でも有数の祭りが盛んな地域です。 この地域の祭りで引き廻される山車・花車(屋台)・御舟は、江戸(天下祭)の影響を受けることなく、独自の技術(意匠や彫刻)により栄えた特殊な地域といえます。安房の名工の一人 彫刻師の初代 後藤利兵衛橘義光 と、その教えを受けた多くの後藤流名工一派を輩出したことに起因しており、歴史的価値の高い彫刻を纏った多くの御神輿・山車・花車(屋台)、御舟が存在します。祭りのお囃子も、安房(平郡地区)から生まれた独特な荒々しいものから、江戸系の踊り囃子まで様々です。
尚、この地域では祭り(まつり)とは言わずに、まっち若しくはまちと言います。この地域のお祭では“八幡の祭(やわたんまち)が有名で、多くの方に知られています。八幡の祭(やわたんまち)当日はちょうど八幡のお祭りの日であった。お祭り好きにとってはワクワクであったが、御神輿山車は町内を回るために出払っていた。
  

鶴谷八幡神社は戦国大名里見氏の崇敬をうけていた神社で、海岸から続く参道は鎌倉の鶴岡八幡宮を思わせる。かつては那古寺が別当を勤めており、9月19、20日の祭礼は安房の古社11社が神輿を出す盛大なものとして知られており、この時に立つ農具市もよく知られていて、宝暦2年(1752年)の小浦村明細帳にも旧暦8月15日の市立ちに農具を買い揃えることを載せている。


水田三喜男像

鶴谷八幡宮・拝殿

扁額と龍の彫刻

若宮八幡神社

鶴谷八幡宮は昔、安房国の総社で、国司自らお祭りを催したことから、「安房国司祭」の名がつけられ、現在、千葉県無形民俗文化財に指定されています。


拝殿内部

富士の岳

本殿
 
遥拝殿

ご神木

初日は、順次10社の神輿が着御し、もみ・さしを繰り返す「神輿振」の勇姿を後仮宮に納めます。
2日目は、4基の山車と1基の御船と出祭10社の神輿が還御する。八幡宮の神輿は昔の名残の放生会を執り行うため八幡の浜に神幸されます。2日間に渡る勇壮な祭りは10万人の人出で賑わいます。

八幡の祭(やわたんまち)と呼ばれているように、千葉では「祭り」の事を「まち」「まっち」と呼ぶ地域が多く存在します。
この地区には屋敷の周りには槇の生垣があり、「まきのつらなり」として「ちば文化的景観」に認定されている。マキの生垣は風よけ、敷地の境界・景観のためにに植えられたが一番の目的は防犯、敵から攻められた時の要害の役目であった。


案内板

マキのつらなり

マキのつらなり

マキのつらなり

鶴谷八幡宮から400m程歩くと八幡の街の中心に入る。ガソリンスタンド脇を左に入ると、安房高校の校舎と校庭にぶつかる。この周辺は長尾藩の藩庁および士族邸があった所である。
安房高校周辺から六軒町の諏訪神社までの地域に、明治3年(1870)、長尾藩4万石の陣屋がおかれ藩士たちの居宅も建設されました。稲荷神社の向かいに藩主邸、その海寄りのほぼ陣屋中央に藩の役所がおかれました。藩庁があった場所は正方形に区画されており、幕末には海岸警備の任にあたった武蔵忍藩や岡山藩が陣屋をおいていた場所でもある。
安房高校周辺は明治3年に士族邸が建設され、区画か整理されたために、現在はルートが変更している。長尾藩の藩庁が築かれる以前にも、ここには天保14年(1843年)から武蔵忍藩の海防のための役所が置かれており、忍藩を引き継いた岡山藩の役所も安政5年(1858年)まで置かれていた。小野止端の『遊房総記』には「表門の構へなど極めて荘重にして、都下拾万石巳上の控邸の如し」とあり、また『近海見分之図』`にはその陣営の様子が描かれている。
この地区に残る共同墓地は長尾藩士の墓地として開発されたところで、長尾藩家老の遠藤俊臣、勘定奉行熊沢菫、藩校日知館の監察雨宮信友などの藩重役はじめ、剣術師範小野成顕・成命父子など50家におよぶ藩士の墓があります。そのほか西南戦争で戦死した八幡の小林真吉の碑もあります。集落内の旧道は槇の垣根が連なる細い道画入り組んでいる。屋敷の周りには槇の生垣があり、「まきのつらなり」として「ちば文化的景観」に認定されている。


共同墓地
長尾藩士の墓

共同墓地
長尾藩士の墓

庚申塔

「まきのつらなり」の景観を見ながら国道127号方面に向かい館山市役所の裏側に出る。館山市役所前の旧道が房総往還・岡往還になる。この岡往還は平久里川を渡った所から館山総合高校入口までの間が道は消滅している。


往還・館山市内

神明神社

拝殿

館山警察署

北条陣屋跡

北条の北町・仲町・南町、新宿のと町並みが続く、現在の安房支行・警察署・北条病院・消防署のあるあたりは北条藩陣屋の跡である。

右手に海雲寺、不動院を見ながら市役所前を通過、左手に千葉県安房合同委庁舎、館山警察署、北条病院、館山消防署がつらなる官庁街に入ってくる。このあたりに江戸時代北条藩の陣屋があった。

寛永15年(1638年)、駿河大納言徳川忠長の家老だった屋代忠正が安房国で一万石を領して北条藩を立てると、北条の仲町に陣屋を築いた。その後享保10年(1725年)には信濃から水野忠定が一万二千石で入封し、文政10年(1827年)に上総国鶴牧藩へ移封するまでのあいだ陣屋とした。


南町交差点
伊南房州通往還

北条郵便局
屋敷門 
 
鈴木屋

房総居往還は南町交差点で外房回りの伊南房州通往還と合流する。南町交差点のひだりに北条郵便局があり道路に面した屋敷門は江戸時代の物である。交差点を渡ると古商家鈴木屋の建物がある。
伊南房州通往還は房総往還と浜野、または八幡宿で分かれ、茂原から太平洋側に出て、外房回りで館山へ至る約120kmの道である。茂原までは県道14号(現茂原街道)が現代版となる。このあたりが北条宿の中心街で問屋や商家が軒を連ねていた。


JR館山駅・南側から

NTT館山

今は館山駅周辺やバイパス沿い、またイオンタウンなどに客を奪われて昔の賑わいは失ってしまった。

交差点角の北条郵便局の敷地に旧家のものと思われる門が残されている。

交差点を渡った右側に古びた造りの鈴木屋和菓店がある。1個100円の草餅や桜餅が並べてあった。


金台寺・山門

本堂と境内

地蔵堂

行貝弥五兵衛
父子の墓

千日念仏供養塔

右手に金台寺(こんたいじ)がある。ここの墓地にはまた、萬石騒動の折百姓方に加担したために藩役人に処刑された代官行貝弥五兵衞國定・弾七郎恒興父子の墓がある。

萬石騒動とは、正徳元年(1711年)北条藩屋代氏の一万石の領地内でおきた農民一揆のこと。首謀者とみなされた湊村、薗村、国分村の3人の名主が国分村菅野で処刑された。処刑跡には「三義民殉難之跡」の石碑が建てられている。訪れた時は法事が営まれており境内には入れず、画像は2回目に訪れた時の物である。
金台寺を出て、JR内房線「館山街道踏切」を渡る。館山街道とは房総往還のこと。

小さな曲尺手を経て来福寺の先で長須賀信号丁字路にさしかかる。この角に宝暦8年(1758年)の道標があった。現在は市立博物館屋外展示場に保管されている。


べにや商店

旧家

旧商家

長須賀信号交差点の左手に明治時代から続く金物商「べにや」商店の店蔵が建っている。「べにや」の店蔵は大正13年(1924年)、主屋は昭和元年(1926年)の建築で共に国登録有形文化財である。空き地になっている南側から見ると店蔵の東側に接続して主屋が建てられているのがよくわかる。建物は古そうにはみえなかった。
T字路から500m程歩くと長須賀の汐留橋の交差点とにぶつかる。長須賀は新宿との境を流れる境川と、館山側の汐入川とにはさまれた地域で、この二つの川と館山湾が形成した砂洲に町場として成立した。


汐留川

汐留橋交差点

長福寺

寄子萬霊塔

街道は長須賀交差点を右折する。古い建物をほとんどみかけない北条あたりに比べてこの長須賀の町場には格子造りなどの懐かしい佇まいをみせる家並みが残っている。

道は汐入川に架かる潮留橋で館山駅東口商店街を通ってきた県道302号・国道410号と合流して橋を渡り、館山城下町に入っていく。県道302号は岩井から木ノ根峠越えの旧道筋である。

橋をわたると地名は長須賀から館山に変わり、館山城下の下町・仲町・上町の町並みが続く。

仲町左手に長福寺がある。墓地の東側に多くの石塔や石仏がならんでいて、寄子萬霊塔、庚申塔と宝篋印塔には解説が添えられていた。


城山・館山城

館山陣屋跡

里見八剣士の墓

城山・館山城

往還を先に進むと城山の天守閣がみえてくる。城山周辺には「里見八剣士の墓」「館山陣屋跡」が残っている。

小山の頂上に建つ犬山城天守閣を真似た建物は市立博物館の分館で里見氏を題材にした南総里見八犬伝に関する資料が展示されている。館山の町の南西に聳える山を城山といい、江戸初期に里見氏が居城としたと所で、館山はその城下町として形成された。

館山城は豊臣秀吉の時代天正15年(1587年)に、安房里見氏第9代義康が築城し、第10代忠義公が伯耆国(鳥取県)の倉吉に移されるまで、27年間里見氏の居城となっていた。

里見氏の故郷は群馬県伊香保温泉の近く榛名地区里見郷である。戦国時代が始まろうとした15世紀の中頃に鎌倉公方足利成氏のの側近、里見義実が安房に移り住んできた。外房白浜周辺の上杉氏を追い払い白浜城・稲村城を拠点に安房国を支配した。房総里見氏の祖である。

9代里見義康(1573〜1603年)のとき、岡本城(南房総市富浦町)から館山城に本拠を移し、港湾・城下町を整備して現在の北条・館山の基礎を築いた。義康の子10代里見忠義の慶長19年(1614年)、姻戚大久保忠隣の政争に連座して改易となり、伯耆国倉吉に流されてしまった。その間170年の房総里見氏は断絶し、館山城は取り壊された。


城山公園・万葉花苑

館山市内と館山湾

現在の館山城天守閣(博物館)に上ってみた。館山市と鏡ヶ浦とよばれる静かな館山湾が一望できる。東京湾の入口にあって対岸の三浦半島がみわたせ、空気が澄んだ日にはその向うに富士山を見ることができる。海洋性気候で冬暖かく夏涼しい。


館山神社・鳥居

拝殿

城山を降りると房総往還の終点は近い。城やも公園お隣には館山神社がひっそりと建っている。城山までは来るがここを訪れる人は少ないようだ。
館山神社の
伝承によれば、神武天皇元年(紀元前660年)に忌部氏が祀ったことに始まるという。天正12年(1584年)には里見義頼の寄進により社殿が改築された。江戸時代までは大井大明神と呼ばれ、里見氏、次いで江戸幕府からも崇敬を受け、社領を安堵されている。

三間社流造。天正12年(1584)の棟札あり。元禄大地震(1703年)で損壊したのを宝永年間(1704年〜1710年)に修築したもの。安土桃山時代の様式が蟇股など随所にみられ、また一部には江戸中期の特徴もあらわれている


総持院冠木門

本堂

石柱(宝篋印塔)群

往還からは少し外れ館山湾を見渡す所にある、叔父の眠る総持院に立寄り線香をあげた。このお寺は石仏石柱に見る物が多い。


案内板
 
厳窟の一部
館山市沼にある総持院の裏山の大寺山中腹には、高さ3m、幅6m、奥行25mの海食洞穴があります。
平成8年(1996年)から3年間の発掘調査により、この海食洞穴が古墳時代に舟葬墳として使われていたことが確認されました。ここには12基を超えるスギの木でつくられた丸木舟を使った舟棺が発掘され、舟葬という葬送儀礼がおこなわれていたことがわかりました。舟棺からは、短甲などの武具をはじめ、大刀・鉄剣などの武器、漆塗りの木製盾など、大型古墳と同じような副葬品が出土したことで、5世紀頃から約250年間にわたって、館山には葬送儀礼に海食洞穴を利用した人びとがいたと思われます。北欧のバイキングのような舟葬墓があったことが初めて確認されました。


鈴木邸跡

仙台藩の
宿泊所であった

赤門と呼ばれた病院

国司神社

拝殿
汐入川の人江や館山沖の高の島・沖の島が天然の良港を造りだており、海運の便もよく上町には仙台藩の廻船役所がおかれていた。
鈴木家住宅は仙台藩の宿泊所と使われていた。
横浜の建築家が設計し、関東大震災直後の大正13年(1924年)に完成した。この時、蔵と表門も同時に完成している。隣の病院は赤い門柱のある医院ということから、現在も「赤門」の名で親しまれている。
門は、目地にモルタルが使われ、石が積み上げられた構造です。建築当初は鉄の扉が付いていましたが、現在、取り付け金具が残るのみである。主屋は和洋折衷様式の木造2階一部平屋建てで、屋根は2階部分がスレート(石盤)葺、平屋部分が鉄板葺です。正面には、ポーチが設けられている。1階中央に中廊下式のホールがあり、和風の客間・居間・仏間、台所、洋風の食堂・居間・寝室などが配置されています。
2階はすべて洋風の仕上げで、応接間・寝室があります。洋風部分の、床のコルクタイルや壁紙などには、建築当時の内装がよく残されています。蔵は、梁など米松材が用いられ、外部はモルタル洗い出しの仕上げになっています。
国司神社は、館山市沼の柏崎区の氏神で平安時代中期頃に安房国の国司(こくし)として京の都から赴任した源親元(みなもとのちかもと)祀った神社である親元は嘉保3年(1096年)から康和2年(1100年)の4年間国司を勤め仏教の徳をもって国を治めた任期を終えて京の都へ帰るとき別れを惜しむ住民が出立を阻んだので親元はやむなく着ていた直衣(のうし)の左袖を解いて与え柏崎から船に乗ったといわれている永久2年(1114年)に親元の死去を伝え聞いた人々はその徳を慕って親元の居宅址に小祠を建て遺品の片袖を祀ってこの神社が創建されたと伝えられており、国司を祀る神社はとても珍しいと言われている。
 
宮城公園
 
赤山地下壕

地下壕内部

宮城三叉路

館山湾

宮城公園の「赤山地下壕」の案内板を見て正面の三叉路(宮城)が房総往還の終点である。
赤山地下壕の
建設時期については、1930年代半ば頃に工事がはじめられたとする説もありますが、この地下壕の建設に携わった旧館山海軍航空隊兵士の複数の証言から、昭和19年(1944年)以降に建設工事が開始されたことや、昭和20年(1945年)8月15日の終戦の日まで工事が行われ、未完成であること等が明らかになってきています。館山海軍航空隊赤山地下壕が防空壕として建設され、かつ一部が使用されていたことは、防衛庁防衛研究所所蔵の「館山航空基地次期戦備施設計画位置図」の赤山地下壕の位置に「館空自力発電所」「工作科格納庫」「館空応急治療所」という記載があることや、内部にある発電施設跡、終戦間際にこの壕の中で実際に館山海軍航空隊の事務を行った、あるいは、病院施設があったなどの証言から、知ることができます。
三叉路の先には自衛隊の建物が見える。その先は館山湾である。



館山掩体壕

館山航空隊

米軍上陸地点

案内板 

宮城地区には掩体壕が残っている。館山海軍航空隊は、海軍5番目の航空隊昭和として昭和5年(1930年)にできた。その後、現在の館山市沼から香にかけての地区には、射撃場や、飛行機の部品や弾薬、食料、燃料などを保管するための倉庫や、この「掩体壕」などさまざまな建物がつくられ、昭和14年(1939年)の記録によると、館山海軍航空隊には、97式艦上攻撃機を中心に124機の飛行機があった。この時の、館山海軍航空隊の役割は、中国で行われていた戦争に飛行機を送ることであった。
しかし、昭和16(1941年)に、日本とアメリカが戦争状態になると、館山海軍航空隊は、東京、東京湾、太平洋岸を守るための基地として使われました。終戦後に、日本軍からアメリカ軍に渡された記録によると、終戦の時には、零戦、紫電など41機の飛行機しか残っていなっかった。
この「掩体壕」は、アメリカ軍の飛行機に爆弾を投下されても飛行機を守ることができるよう、全体が分厚いコンクリートで固められており、館山海軍航空隊と洲ノ埼海軍航空隊の周辺には40以上の掩体壕がつくられましたが、現在残っているのは、この宮城のものと、香(こうやつ)に残っている大型の掩体壕の2ヶ所だけである。


鷹之野弁財天

石造りの拝殿

鷹之島弁財天は館山港の西外れ、海上自衛隊館山航空基地の北東に隣接して鎮座しる。周囲は鷹ノ島公園として整備され、豊かな森が残されています。その一画に真っ白い鳥居が建ち、「鷹之島辨天閣」という社号標が立っています。境内へは石段の参道を上がっていきますが、その途中には昭和11年生まれの江戸流狛犬がいます。上に上がると広場の一画に玉垣が作られその中に社殿が建立されている。瓦屋根の上には珍しい漆喰の龍の細工物があるのですが、半分見られなくて残念でした。手水は境内入口右手直ぐにあり、未だ飛行機の紋がくっきりと浮かび上がって見えます。社殿の扉は自由に開けられ、中に三本殿が祀られてあります。社地の所々には樹齢が古そうな木々が数本勢いの良い姿を見せていました。
平安時代、永長2年(1097年)安房の国司・源親元公が沼の総持院を建立した際、総鎮守として沼の天満神社、他に高ノ島に多賀之嶌弁財天、沖ノ島に宇賀明神を建立したのが始まりだそうです。昭和5年に鷹之島を含む海上部分を埋め立てて海軍館山航空隊が開隊され、以来、鷹之島の住民と基地の守り神のような存在となっています。



                       完


         千葉の歴史の道 房総往還を歩く



 那古船形から館山まで

 JR那古船形駅→正木→館山総合高校→北条→庚申塔→海雲寺、不動院→館山市役所→安房合同委庁舎、館山警察署、北条病院、
 館山消防署→北条藩の陣屋跡→伊南房州通往還→北条郵便局→金台寺→第十館山街道踏切
来福寺→潮留橋→下町・仲町・上町
 →
長福寺→長尾藩藩庁跡→「まきのつらなり」北町・仲町・南町、新宿城山(館山城)→里見八剣士の墓・館山陣屋跡宮城公園
 →赤山地下壕
三叉路(宮城)