千葉の歴史の道 房総往還を歩く



 保田から岩井まで

 JR保田駅→別願院(菱川師宣の墓)→菱川師宣生誕の地→磯部神社→保田漁港(ばんや)→道の駅きょなん・菱川師宣記念館→
 妙本寺→大六神社→切通し→源頼朝上陸記念碑→八王子神社→極楽寺→加知山神社→勝山漁港→妙典寺→勝山陣屋跡→
 白幡神社→大乗院堤ヶ谷堰→持福寺→内房線市部瀬踏切→飯之坂→二部交差点→JR岩井駅


  保田駅から内房なぎさライン(国道127号線)の直角に曲がる曲尺手の所を横断し海に向かう。

保田駅

保田駅跨線橋から
鋸山・明鐘岬

保田神社

元禄地震津波到達
地点標識

房州海水浴場
発祥の地碑
保田海岸(本郷浜)に出る。保田海岸は「房州海水浴発祥の地」で、明治22年(1889年)に漱石が保田に10日滞在した時に、ここで海水浴を楽しんだ。海岸の遊歩道には元禄海嘯(津波)到達地点の標識がある。右側には別願院(べちがんいん)がある。
 
別願院
 
元禄海嘯菩薩地蔵尊
 
菱川師宣の墓・案内板

菱川師宣の墓・石仏
別願院入口左手に元禄海嘯菩薩地蔵尊がある。元禄16年(1703年)11月に房総半島沖を震源域とする推定M8.2の大地震が発生し、地震による海嘯(津波)で関東一円で死者が8000人以上出たと言う、ここ保田地区でも319人が犠牲となった。
その犠牲者を弔ったものである。
寺の墓地のほぼ中央に菱川師宣の墓所がある。見返り美人で知られる浮世絵師菱川師宣はここ保田に生まれた。左側に昭和2年建立の「菱川吉兵衛師宣入道友竹之墓」と刻まれた墓碑があり、右には平成5年の師宣300回忌に子孫の菱川岩吉氏らによって石仏が建てられた。

房総往還

菱川師宣生誕の地 碑

菱川師宣生誕の地 碑

街道は再び曲尺手にさしかかる。右手空き地に県指定史跡「浮世絵の開祖 菱川師宣誕生地」の石碑がある。
菱川師宣は、安房国保田村で縫箔刺繍を業とする菱川吉左衛門の長男として生まれた。生年は不詳だが寛永中頃(1630年頃)と推定されている。
江戸に出て絵師として大成したが、終生故郷を愛し、落款には「房陽」「房国」と冠称し、晩年には別願院に梵鐘を寄進している。
元禄7年(1694年)江戸で没した。


保田漁港
 菱川師宣記念館  
見返り美人像
 
保田海岸

保田信号を右折し、その先左に短く旧道が残る。どのあたりに江戸時代の本郷宿があったのか、手掛かりになるようなものは残っていない。旧道の区間に郵便局があることからこのあたりが保田集落の中心であったとしか推量出来る。
国道127号に合流してすぐ保田川を渡ると地区名は保田から大帷子(おおかたびら)に変わる。

七面川を渡って大帷子の磯辺神社前で右折して保田漁港前を、すぐ右手に残る短い旧道にはわずかに昔ながらの家並みを見ることができた。旧道をぬけると吉浜地区で、大きな保田漁港の北岸に出る。

漁港の南側には、炭火による焼き貝食べ放題などの人気の漁協直営食事処「ばんや」がある。宿泊施設「ばんやの湯」も併設していてこの一角は大型バスが立ち寄る観光地となっている。漁協による町おこしの成功例であろう。

その先、右手に「道の駅きょなん」と「菱川師宣記念館」がある。前庭に「見返り美人」の銅像が立っているが、肝心の浮世絵「見返り美人図」はここにはなく東京国立博物館にある。


妙本寺への道

山門

本堂
 

往還を200m程進むと左に入る道があり、内房線の踏切を渡った先に、吉浜の日蓮宗の妙本寺がある。建武2年(1335年)に地頭佐々宇左衛門尉重信が開基となり、日郷上人を開山として開創された寺院で、現在日蓮正宗の本山である。中世交書をはじめ多数の宝物を所蔵し、また重要文化財の愛染不動感見記も蔵している。

客殿向拝の・龍の彫刻は元治元年(1864年)後藤義光の作品である。境内には元禄海囁の犠牲者の供養塔がある。この儀性者たちは中央公民館前のカーブ山際の万灯塚に葬られたといい、供養塔も国道拡張前はそこにあった。今もいくつかの石塔が残っているが、もとは門前から海へ突き出た仏崎にあったもので、安永5年(1776年)に万灯塚に移されたものだという。


大六神社山門

拝殿

御神木

ここから1Kmほどすすむと大六の砂田の集落に至るが、右于のパチンコ店の奥のほう浅間山の西麓に、妙本寺の南の守護神として第六天を勧請した大六神社がある。境内には文化元年(1804年)の石鳥居があり、社殿内には舟絵馬がある。

往還は大六川を越えると竜島の集落に入る。ここは「字切割り」といい、昭和26年の国道改修までは20m程の隨道かあって、霜解けに弱い岩部から、通行人を保護するための・石積みがあったという。


神明神社

頼朝上陸の地 碑
 
頼朝上陸の地 碑

八王子宮
 
八王子宮

竜島といえば源頼朝上陸の地として知られるところで、集落へ入ってすぐ右への路次を入ると神明神社があり、その先を浜まででると源頼朝上陸記念の石碑があり、県の指定史跡になっている。そばには頼朝が上陸の際に祈願したという八王子宮もある。
治承4年(1180年)伊豆で挙兵した源頼朝は、平家方の大庭景親勢との石橋山の戦いに敗れ、真鶴より海路小舟で脱出し、安房国へ向かった。「吾妻鏡」によれば頼朝は安房国平北郡猟島に着いたという。猟島が現在の鋸南町竜島とされている。当時房総には、下総の千葉常胤、上総の上総広常、安房の安西景益、丸信俊ら源氏恩顧の豪族が多く、また内房沿岸は対岸三浦半島の三浦氏の勢力範囲でもあり、頼朝は再起を図る土地として房総を選んだ。
頼朝に関する伝説はいくつかある。 

頼朝と角なしサザエ:竜島に上陸する時、頼朝は誤ってサザエをふんでけがをしてしまいました。幸先の悪いことなので頼朝は怒って、「竜島のサザエに角など無くなってしまえ」と怒鳴りました。すると、それ以来、竜島のサザエには、角が無くなってしまったと言われます。            
頼朝がくれた姓戦いに敗れ安房の竜島に逃れてきた源頼朝を、竜島の村人たちは親切にもてなしました。感激した頼朝は、こう言います。「わしが天下をとったなら、おまえたちに安房一国を与えよう」それを聞いた村人は、安房一国を穀物の粟一石と勘違い。「粟なら畑で取れます。それより私たちに姓をくだ
さい」と言いました。頼朝は村人の欲のなさを笑い、「そうか、ばかだなぁ」と言いました。
それを村人は姓をくれたものとまた勘違い。「左右加」「馬賀」と名のるようになったと言います。

 
極楽寺山門

極楽寺・ビャクシン 

往還に戻って200m進むと真言宗の極楽寺がある。境内には大きなビャクシンの木がある。文化3年(1806年)の竜島村大火の際の焼け跡に残っている。さらに300m先の警察署の手前に小さな流れがある。集会所の横に無明王の石宮があり、川には無明の橋が架かっていたという。
極楽寺の御詠歌三番に「名も高き 無明の橋を渡り来て 二世の願いも ここに極楽」とある。


安房勝山駅前

佐久間川

勝山漁港

駅前を過ぎ、佐久間川を越えるといよいよ勝山の町である。勝山藩一万二干石の酒井氏の陣屋があり、また醍醐家による捕鯨の基地として栄えた町である。
佐久間川を渡って二つ目の路地を右に入るとすぐ右手に加知山神社がある。古くは牛頭天王(ごずてんのう)といい、明治になって加知山神社と改称した。祭神は素戔鳴尊である。左手の鳥居脇に鯨塚と呼ばれる小さな石の祠が散乱している。勝山は房州捕鯨発祥の地である。江戸時代初期醍醐新兵衛が勝山組と岩井袋組の船団を組織化し、江戸湾でツチクジラを捕獲した。鯨塚はひと夏の捕鯨の漁期が終わるごとに解体を担当する出刃組が鯨への感謝と供養を兼ねて一基ずつ建立したものである。

妙典寺

すぐ西側にある妙典寺は醍醐家の菩提寺である。房総捕鯨の祖醍醐家は代々醍醐新兵衛を称し、捕鯨業の総網元・大名主として村を指導した。近代になると製油産業や缶詰工業を興して隆盛を極めたが1937年11代目で醍醐家は途絶した。

国道からて勝山丁字路を直進する勝山港通り商店街を通り抜けると勝山漁港に出る。港は今朝の水揚げを終えたところで、数人の漁師や婦人が団欒しながら網を繕っていた。江戸時代はここから勝山捕鯨組が船団を組んで出かけていった。

港から街道へ戻る途中、郵便局の手前の路地を山側に入っていくと八幡山裾の駐車場に出る。八幡山の頂上には勝山城があり、中世から江戸時代にかけて安西氏、里見氏が居城した。元和3年(1617年)内藤清政が勝山藩を起こすと勝山城直下に陣屋が構えられた。内藤氏の断絶後は、酒井氏1万2千石となり9代200年間ここに居住し明治維新を迎えた。陣屋跡は山麓の駐車場や住宅地となり、当時を偲ぶ様子はない。


加知山神社 

拝殿

街道に戻り「下佐久間」信号手前の小滝提灯店の角を右折する。街道は突き当りの大乗院の手前の十字路を左折するが、右折して回り込んだ先、左手にある鯨塚を訪ねる。

ここは竜島の飛び地で板井ヶ谷という。勝山藩酒井家の分家で竜島の殿様と言われていた旗本酒井家の住んでいた所である。鯨塚は割烹「蔵」入口を過ぎた左手の小高い山裾にある。碑は全部で120基ほどあったといい、52基が現存する。1年に1基の供養碑を建てたとされるからここだけで醍醐新兵衛の捕鯨暦120年を刻むことになる。先に加知山神社境内に見た鯨塚より保存状態がよい。


大乗寺

十字路に戻り突き当りの大乗院に寄ってみた。本堂は再建されたばかりで風情はない。ここは中世の平群郡の豪族、安西氏の居館跡と伝わる。その左手、白幡神社境内に庚申塔石祠が6基並んでいる。一番右にある寄棟の石祠が「山王系庚申石祠」として鋸南町有形文化財に指定されている。寛永19年(1642年)の銘があり、県内最古のものだという。


庚申塔

持福寺

市部瀬踏切
 
街道の地蔵堂

庚申塔

大乗院の手前の十字路に戻り、山裾の東側を回り込むように進むと、右手に堤ヶ谷堰が広がる。旧道はその堰の西の縁をめぐっている。旧道の証であろうか、路傍の草むらに地蔵を安置した石祠がさりげなくあった。

変則五差路に出て、旧街道は右斜めに延びている山裾の農道をたどっていく。左から来る道と合流した先、左手に持福寺と八幡神社があり、街道脇に古そうな庚申塔が立っていた。

街道はその先で国道127号を横切って、狭い内房線市部瀬踏切を渡る。踏切を渡って道なりに右に行くが、すぐ先民家の前で道が二手に分かれている。右にとって細道を左に回り込むように進むとすぐに舗装道から右に分かれて林中に入っていく草道がある。旧道は竹林にはいりこむ。曲がりくねり上り下りのある舗装道が飯之坂という旧街道である。
峠が境界で安房郡鋸南町から南房総市に入ってきた。87号線に出て右に進むと二部の交差点で127号線を左に行くと館山方面で1Kmほど歩くと岩井駅入口である。
また、飯ノ坂を超えてT字路に出る、左に500mほどすすsむとハイウェイオアシス富楽里である。

 
ハイウェイオアシス富楽里
 
ハイウェイオアシス富楽里

岩井駅

駅前の商店街には名産の「びわ」ののぼりが立っている。
商店街の先にはJR内房線岩井駅の瀟洒な駅舎が見える。南総里見八犬伝の舞台「富山」へのハイキングコースの起点でもある。


                      岩井から那古船形へ