千葉の歴史の道 房総往還を歩く



 富津から竹岡まで

 富津交差点→原口照輪生誕の地→川名地蔵尊→弁財天→磯部大神宮→道標→万福寺→八坂神社→聖徳太子堂→JR大貫駅→
 弁天山古墳→小久保藩藩邸・陣屋・藩校跡→旧道(往還)→東京湾観音→JR佐貫駅→佐貫木戸跡→宮醤油店→勝隆寺→曲尺手→
 日月神社→旧道(往還)→稲荷神社→鶴峯神社→十一面観音堂→八坂神社→慈願寺→JR上総湊駅→海浜公園湊漁港→道標→
 湊橋→境界柱→薬王寺→住吉神社→松翁院→造海城址・三柱神社→灯篭坂→灯篭坂大師→竹岡のヒカリモ自生地


 

富津交差点までもどり、右折して房総往還を再び歩き始める。川名の交差点で国道465号となる。


原口照輪の碑

すぐ先、左手の林家前に「富津市指定史跡「原口照輪生誕の地」の案内板が立ち敷地内に「誕生の地碑」が建てられている。

原口照輪は文化12年(1815)川名村林家に生まれ、成田山新勝寺・京都智積院で修業し、慶応3年(1867年)新勝寺の第13代住職となり、廃仏毀釈の政策の折、機知を働かせ新勝寺を廃寺から救い、学校、警察、道路、橋梁、庭園の修造などに功績があり、成田山の中興といわれ、明治15年(1882年)死去した。


川名地蔵尊

本堂内の地蔵

アラシオ戦没者慰霊碑

川名交差点から200m程歩いた右側に川名地蔵堂がある。地蔵堂には赤い法衣を纏った地蔵様が祀られている。地蔵堂脇には昭和18年3月にビスマルク回線で米空軍に撃沈された「駆逐艦アラシホ」の戦没者慰霊碑がある。奇跡の生還を果たした石綿新蔵氏が慰霊碑の土台までを立ち上げたが志半ばで亡くなった。氏の遺志を引き継ぎ森良雄氏(徴兵最後の陸軍兵)が完成させた。


弁財天

拝殿内

往還の風景

車の往来も少ない、民家と田圃、草叢の風景が続く、川名公民館・下津漁港の建物を見て1Km程歩くと、小さな赤い鳥居の弁財天の社が右側に現れる。
川名橋を渡ると富津の名物「はかりめ(アナゴ)料理の看板と桃太郎旗が見えた。


磯部大神宮

拝殿

浅間塚

石碑・石像

庚申塔

200mほどで磯部大神宮の一の鳥居が見える。二の鳥居の先には拝殿と石碑(浅間神社・大澤御前、亀岩など)・石仏(庚申など)が並んでいる。神社の由緒書きなどが無く詳細は不明である。大きなお祭りもあるようで、神社の参道、拝殿は綺麗に掃除されていた。ヒガンバナが綺麗に咲いている。


道標

磯部神社を出て、200m程先の右側に「聖徳皇太子 五丁」と書かれた道標がポツンと立っている。地図には万福寺・八坂神社、聖徳太子堂と記されている。往還からは外れるが、この区間は特に見る物もないので立寄ってみる事とした。


万福寺山門

参道の庚申塔

庚申塔と石仏

本堂

坂東33観音

万福寺には千葉県指定文化財の「釈迦如来像・両脇待坐像三躯」と書かれた案内板があった。[両脇待坐像」は初めて聞いた像の名前なので興味を持ったが、寺の住職は何やら屋根の上で作業中で、降りられないとの事で次回訪れた時に話を聞く事とした。すぐ隣には八坂神社がひっそりと建っていた。


八坂神社参道
拝殿
拝殿内部
 
聖徳太子堂
 
本殿

本殿内部

八坂神社から300mほど北に行ったこんもりとした木立の中に赤に塗られ聖徳太子堂があった。由緒等は不明だが地区の様々な「講」の集まりの場所の様である。
往還に戻り1Km程歩くと街並みとなる。野菜の直売場があったので立寄る。富津トマトの生産地なのでお土産にと思ったが・売切れであった。左手の富津千種新田郵便局を通り過ぎ、内房線の「新田踏切」を渡る。街道はそこから逆V字形に切り返しているが、線路で分断され渡れない。踏切で引き返し往還にもどる。


JR内房線大貫駅

 駅前・記念碑
 
465号から海岸方面

弁天山古墳
(国道側から)
 
弁天山古墳と陣屋跡

300m余り行った先が大貫の駅である。この辺りの往還は数カ所で線路に分断されていtル都の事である。線路沿いに南下して千種街道踏切をわたり、往還に戻る。千種街道踏切への三叉路を直進して国道465号で内房線の東側を佐貫に向けて下る。岩瀬川を渡って、道なりに内房線のガードをくぐり、その先の信号を左折し東に進むとすぐ左手に富津市役所大貫連絡所があり、その東側に弁天山古墳がある。古墳への登り口に弁天山古墳の説明板と並んで、小久保藩陣屋跡の石碑が立つ。明治元年(1868年)9月、遠江・相良藩1万石の第三代藩主田沼意尊(おきたか)が上総天羽・周准(すす)郡に入封し、この地に陣屋を築いたが4年で廃藩となった。

小久保陣屋跡碑
小久保藩邸・藩校跡

弁天山古墳説明板
石棺 石棺

弁天山古墳は全体が露出していて登りやすく頂上からの見晴らしもよい。後円部に竪穴式石室が保存されており、格子窓から覗くと石室を覆う二枚の大きな天井石の先に亀の首のような縄架け突起が出ている。
石を運ぶときにここに縄をかけて引いたという。珍しいものを見ることができた。


往還を歩く

遠くに東京湾観音

昔の面影を残す

岩穴の地蔵様

白木の鳥居と石祠

街道は坂を下って小久保踏切を渡る。街道は線路を離れて大貫小学校の先の交差点を直進して行く。民家も少なく昔の風景を残した旧街道に巡り合えたような気がした。左手に白木の鳥居があり、奥に岩を祀った祠がある。


岩屋の祠

往還は佐貫へ

海老田踏切

東京湾観音への参道

その先の二股を右にとって内房線の海老田踏切を渡り、国道465号に合流する。小久保踏切から海老田踏切までほぼ2kmの気持ち良句歩けた往還(旧道)であった。


旧道のトンネル

現在は心霊スポット

上総湊方面

東京湾観音

宇佐美夫妻の像

富津岬方面

国道を左折して佐貫に向かう。ほぼ中間くらいのところで東京湾観音参道が出てくる。整備された坂をひとしきり上っていくと大坪山(標高120m)の頂上に目にもまぶしい白衣の観音が立っていた。56mという高さだ。君津出身の材木商、宇佐美 政衛(うさみ まさえ)が昭和36年に世界平和を願って建立した。


昼食は辰金さんで
はかりめ丼

お店により盛り付けは
違います

ここまで来た、ちょうど昼時、名物の「はかりめ丼」とビールの昼食を摂る。


佐貫へ向かう
JR内房線佐貫駅  
佐貫駅前史跡案内板
喫茶・しらせ   佐貫木戸跡
(佐貫交差点手前)

街道にもどり、国道465号は佐貫駅北方で内房線を跨ぐ。旧道は少し手前、内房線のトンネル出口先で線路を跨いでいた。駅前の通りには元南極観測船「しらせ」の料理長の経営する喫茶「しらせ」がある。
跨線橋を下りてから、線路で分断された旧往還にもどる。往還は駅に向かわないで左に折れていく。道なりに進んでいくとカネイ理容の前で国道465号に出る。旧道はそこから引き続き国道を斜めに横切ってカネイ理容の東側に続いている旧道に入っていく。佐貫は房総往還の宿場でありまた佐貫城下町であるがその町はこの地点から500mほど東に入った佐貫交差点から内陸部に向かって延びているのだ。つまり海岸ルートの房総往還は佐貫の町の西端を素通りしていく道筋になっている。内陸ルートはまさに東から城下を通って佐貫交差点を通り、カネイ理容のところから南下して湊をめざす道筋になっていて、自然なように思える。


街道筋の庚申塔

佐貫・宮醤油店
佐貫交差点樽が
目印
宮醤油店店舗
たまさ醤油・暖簾

という訳で、ここで佐貫の町を散策しつつ内陸ルートの終点部分を歩いてみようと思う。

佐貫交差点の角には大きな醤油樽が置いてあって樽には「天保五年創業(1834)江戸の味を伝えて160年」と、老舗宮醤油がその歴史を誇っている。芳しい香りを漂わす建物は国の登録有形文化財である。冠木門を構え、板壁の店舗の両側には白漆喰に黒板壁の蔵を配して堂々とした威風である。店の分厚い窓ガラスには自然のゆがみが波たちこれもレトロな風情を添えている。

宮醤油の東隣も相模屋という大正ロマンの洋風店舗が趣ある佇まいを見せている。


旧商家

勝隆寺参道

往還は正面から
 
曲尺手の往還

道向かいにも重厚な白壁店蔵が建っていて、風情ある家並みの一角を担っている。

商人町風の町並みの中を東進すると、みごとな曲尺手に出た。街道内陸ルートはここを左折して国道127号にそって君津方面に向かう。


日月神社・鳥居

日月神社

由緒説明板

佐貫城への街道

ここでは曲尺手を左折したすぐ右手にある日月神社を見るだけにして、曲尺手を右にとって佐貫城跡に急ぐ。佐貫中学の南側から日枝神社にかけて手入れされた生垣をめぐらした民家が続く。

Y字路手前に一本杉が立つ石垣が佐貫城跡入口である。佐貫城(亀城)の築城は室町時代に遡り、応永年間(1394)武田氏による説と文安年間(1444年)長尾氏によるとする二説がある。その後、里見、武田、朝倉、加藤、大河内と城主が次々と代わった。江戸時代になって二度の廃城の時期を経て、宝永7年(1710年)阿部正鎮が三河刈谷から移封され佐貫城を再興した。その後明治維新まで阿部氏8代にわたる統治が続いた。
案内図によれば手前から三の丸、二の丸とつづいて本丸跡に至る。山道を上がって行くと二の丸跡に水を湛えた堀跡が残っていた。本丸跡は林の中で、展望はきかない。そばに展望台への標識があったので、さらに山道を登って見晴らしのきく頂上に出た。遠く右手の山上に東京湾観音が小さく見える。

佐貫城址については近くに叔父が済んでいるので何度か訪れている所である。佐貫の浄化の歴史は古いので、近々に佐貫城下を一日歩こうと考えている。


佐貫・染川
 
往還からの東京湾観音
 
地蔵様
 
稲荷神社
 
拝殿

城山を下り来た道をカネイ理容店脇の旧道までもどる。街道は佐貫の町の染川沿いを出て県道256号に合流、八幡街道踏切を渡り田園の広がる中を海に向かって進む、右手には東京湾観音の上部が見える。車も時々通るだけで、通り抜ける集落も静かなものである。


鶴峯神社・参道

奉納の錨
拝殿
拝殿内部
本殿

染川を渡り、緩い坂道が右に曲がって左折する角に関東三鶴(鶴岡八幡:鎌倉・鶴谷八幡:館山)と呼ばれる、鶴峯八幡宮がある。草創は養老年間(713〜723年)と伝わる古社である。源頼朝が安房から北上してこの地を通った際、武運長久を祈願して短刀を奉納したとも伝えられる。里見・武田氏以来歴代佐貫城主たちの寄進を受けてきた。まだ新しい石畳の参道をすすむと鮮やかな朱塗の社殿が晴れ晴れとした姿で佇んでいる。9月の例大祭では御浜出神事とよばれ三基の神輿が新舞子浜の海に担ぎ出される。


神社掲示板
海岸から参道

民家(商店)です

街道からその新舞子浜に出てみた。誰もいない海だが、右手に東京湾観音が見える。方向としては真北にあたる。


岩の祠の地蔵様
笹毛
笹下踏切

金谷から明鐘岬

街道(県道256号)は断崖上を海に沿って走っている。道と浜辺の狭い斜面に別荘風の建物や保養所が建ち並んでいる。やがて街道は海から離れて内陸に曲がっていく。左手に切通しの崖面を穿って二体の地蔵が祀られている。セメントを流したような岩肌である。

十一面観音堂
堂前の観音様
坂八神社参道
拝殿への参道
拝殿

慈願寺・山門
本堂  
往還脇の石仏群

JR内房線笹毛踏切手前を右に入る脇道がある。先には十一面観音道、八坂神社がある。踏切を渡ってすぐ左には真言宗慈願寺はある。海を臨む高台野道は山側に入る。ゆっくりと坂を下ると、長浜で国道127号に合流する。
交通量が急に増える。左に大きく曲がった先で左手の旧道に入る。すぐに国道を横切り、郵便局の脇をとおり切通しで分断された断崖端を回り込み、再び国道を横断して集落内の旧道を通り抜けて国道にもどる。

JR上総湊駅前を通り過ぎ400m余り行ったところで左手に旧道が分かれている。歩道と並行した後左にまがって住宅街の中に入っていく。歩行者専用道路ほどの狭い道である。


JR内房線・上総湊駅

湊海岸
光圀の見た風景

湊漁港

内房線橋梁

手入れされた生垣がつづく民家の間をたどっていくと小さな変則十字路に出る。竹垣や房総石の石積みを備えた落ち着いた家並みが緩やかなS字状の下り坂に沿って続き、旧道の風情あふれる一角をなしている。細道は湊済寺の脇を通って県道93号に出る。
ここは曲尺手になっていて、旧道はわずかに東にずれて丁字路を右折し、湊川を渡っていく。曲尺手に湊町バス停があるところからこの付近が昔でいえば札の辻にあたる町の中心地なのであろう。

ここで街道を離れて、県道を逆の海側に進み湊信号で国道を横断し、海に向かう。湊交差点の南角に湊町道路元標があった。県道93号が海に突き当たったところが上総湊港海浜公園になっている。
湊川河口が漁港である。JR鉄橋を内房線の電車が渡っていった。

港からの帰り道、左に出ている曲がりくねった細い路地をたどって神明神社に立ち寄る。仲町公民館と隣り合わせであった。鳥居をくぐった所にある手水鉢は古く見えないが側面には天保6年(1835年)の銘が読み取れた。

街道に戻って、湊橋で湊川を渡る。
左から下りてくる道との合流点に指差道標が立っている。三方を示して「竹岡村ヲ経テ金谷」「湊町ヲ経テ佐貫町及」「天神山村賣津ヲ経」と読める。


JR内房線

村境の石標

旧道は警察署前で国道127号にでるが、その手前に天神社の案内板があって、その中の地図に、旧湊橋を渡ってきた道に「旧道」と記されている。
国道を横切ってすぐに右手の旧道に入る。旧道を国道が分断した形である。

二つ目の道と合流したすぐ先で旧道は国道の下を直進する。左手法面に村境を示す石標があった。「君津郡竹岡村」と刻まれている。現在では富津市内の海良と竹岡地区との境界線である。


薬王寺

説明板

オハツキイチョウ

本堂

薬師堂

その手前の二又を右に行くと湊川河口の南岸を望む手前に薬王寺がある。説明板は薬王寺についてではなくて、オハツキイチョウに関するものだった。文化9年(1812年)白河藩主松平定信が自ら白河より取り寄せて手植えしたものと伝えられる。松平定信は富津陣屋を築いた人物として知られている。


摩崖仏入口

摩崖仏
教育委員会HPより

この寺のある地区の岩盤は固く,掘ろ穴には馬がいくつ摩崖仏が彫られている。風化を防ぐために入口は閉ざされ現在は見ることはできない。また、海岸脇の洞窟には仏像が置かれ、夜になるとろうそくの火で港に入る船の灯台の役割もしていたと言う。現在は洞穴残っている。

往還
住吉神社

拝殿

巨岩ご本尊

ご本尊

街道に戻り、鬱蒼とした林の中往還は通っている。海が覗き見える右手に巨岩信仰の住吉神社がある。ご本尊は拝殿裏の巨岩である。アスファルト舗装以外は手の入っていない旧道そのままである。甲寅紀行で水戸光圀もここを歩き、薬王寺・住吉神社にお参りしたのであろう。林をぬけると旧道は国道127号に合流する。海の青さを眼で感じる。


竹岡の海

海鵜

北町バス停の右手に旧道が残っている。湊でみたものと同じく、断崖が国道によって切り通された跡に残された岩塊である。回り込んでいくと左手の岩塊は垂直に鋭く切り立っている。海側の旧道でさえ深く切り通して造られた。

松翁院参道 庚申 本堂 岩野平左衛門の墓
説明板

旧道はすぐに国道にもどり、竹岡の町内に入っていく。国道に出て200m足らずで、左手の旧道に入り松翁院(十夜寺)に立ち寄る。境内には承応2年(1653年)の古い庚申塔があり傍に庚申信仰についての詳しい説明板がある。夜を徹しての酒盛りが行われたとあり、歌垣(うたがき)まがいの享楽的な行事かという印象を抱いていたが、その後、徐々に宗教的な色彩を強めていったようである。その宗教的色彩が正しいのであろう。

墓地にひときわ目だつ地蔵が海を背にして立っている。竹岡義民、岩野平左衛門の墓である。江戸時代延宝の頃、百首(ひゃくしゅ)村の名主平左衛門は、時の旗本による重税に敢然と抗議したが、報われず延宝8年(1680年)47歳で処刑された。その慰霊を兼ねた十夜法要は平左衛門の三回忌以降、今日にまで至っている。


会津藩士の墓

説明板

竹岡陣屋で江戸湾防備に携わった会津藩士は100名が家族と共に駐留した。現在も手厚く葬られ、34基の墓に36名が眠っている。


三柱神社

参道

参道から拝殿
 
鳥井と拝殿

拝殿

房総往還の継立場があった場所というのはどこなのか分からない。JR竹岡駅は2km先の荻生という集落にある。

右手に見えるこんもりした山は造海(つくろみ)城跡である。造海城は寛正2年(1461年)武田氏一族真理谷氏によって築城、里見氏に引き継がれた後天正18年(1590年)里見氏が安房一国に減封されたときに廃城となっている。


額の説明板

延命寺・本堂
 
延命寺のマニ車
 
会津藩士の墓

その後、幕末になって沿岸防備のため竹岡陣屋(跡地は竹岡小学校)を置いた会津藩によって砲台が築かれた。
その麓には三柱神社がひっそりと建っている。数年前の裏山の崖崩れで進止になっている。ここには会津藩士の描いた水泳の絵馬があると言う。本殿は修復中で絵馬は千葉県郷土資料館に保管中との事である。

旧道は内房線に分断されている。国道127号を進み城山遂道の手前右側に「灯籠坂大師堂参道」と書かれたゲートが建っている。国道127号用の城山隧道は昭和18年(1943年)の開通、延長131m、幅5.6mと古くて短く狭い。大型トラックは入口で対向車に大型車がないことを確認してから入る。その結果、館山道が開通するまではひどい渋滞で知られていた。その横に歩道用トンネルが昭和54年(1979年)造られ歩行者の安全は確保された。
すぐ脇にはある延命寺には江戸湾防備にあたった会津白川藩・備前藩の藩士の墓がある。。


灯篭坂へのゲート

灯篭坂大師入口

灯篭坂隧道

灯篭坂のトンネルを抜け、右折した先に切り立つ灯籠坂隧道は、入口も出口も高い岩盤を手で掘り進み、残りを刳りぬいた形で異常に高いトンネルとなったと言う。極細楕円の上半分を切り取った形で、岩を削った痕跡と斜めに走っている地層の線とが相まって妙な形状である。


灯篭坂大師参道

縁起

灯篭坂大師堂

本堂

灯籠坂隧道を抜けると、左手に鳥居が立ち、灯籠の建ち並ぶジグザグの石段を上りつめた尾根付近に灯籠坂大師堂がある。弘法大師所縁の場所であるが、その背景として「当時の東海道は伊豆から海路をとり上総の保田、金谷に上陸するのが本道でした」とある説明は興味深い。京から江戸に向かうのに海路の方が早かった。千葉の上総・下総は京から旅立ち早く到着する地に上総と名付けたとの事である。源頼朝も同じ経路をたどったのであろうか。

国道にもどり、街道は左に大きく曲がっていく。萩生集落の入口あたりで左に分かれる250mほどの旧道に入っていく。三叉路角にある東善寺は本堂が改築工事の真最中であった。

一旦国道にもどってすぐに左の旧道に入る。今度も300mほどの短い旧道だがその中間辺りで竹岡駅入口を通過する。萩生集落の真ん中である。旧道はゆるやかに右に曲がりだし、左の段丘の裾はきれいな石積で整えられ、右側の生垣との間に趣ある旧道風景を作り上げている。


往還・竹岡付近からの
眺め

竹岡の黄金井戸

ヒカリモ自生地 
 
ヒカリモ

旧道が国道と合流する左手に、国指定天然記念物「竹岡のヒカリモ」で知られる名勝地「黄金井戸」がある。鳥居の背後に洞窟があって、その中に溜まった水が鈍い黄金色を放っている。洞穴内に自生繁殖したヒカリモが光を反射させる。萩生の集落を出て国道を南に向かう。これからしばらく数多くのトンネルをくぐっていく。国道127号はトンネルの数が多いので全国に知られるほどである。この旅ではできる限り明治時代に開削された旧隧道を探ることになる。


海岸線・湊方面

海岸線・金谷方面

海岸線崖の風景

城山隧道の前方に第2の打越トンネルが見えてきた。打越隧道は31mと短い。概して房総往還を分断する多くのトンネルは房総の背骨から枝分かれした山稜が海に落ち込む岬の岩塊を掘削したもので、短いだけでなく山自体も低い。
「この程度なら切り通してしまえ」と思うほどのトンネルもある。


                      金谷から保田へ