江戸後期の房総往還は県道90号の道筋に乗って西に進む。右手海側は埋立地に造成された新日鉄をはじめとする広大な工場地帯である。一方左手には断崖が道路まで迫って山深い様相を呈している。かつてはこの県道が海岸線をなしていたのであろう。木更津と君津の境界を流れる、畑沢川を渡ると君津市に入る。坂田交差点の脇の公園入口には六地蔵が立っている。


六地蔵

坂田交差点を渡った右手広場に「坂田漁業協同組合解散記念碑」が建てられている。坂田海岸は上総海苔の養殖で知られる漁場だった。江戸の海苔商人近江屋甚兵衛が開発したものである。昭和の高度成長期、京葉臨海工業地帯造成政策に基づき君津町地先海面に八幡製鉄の誘致を決めた。昭和40年、計画の提示を受けてから5年の苦渋を経て漁業組合は漁業権の放棄を受け入れた。この海岸一帯各地に同様の記念碑をみることができる。

左に段丘が続く道路だが房総往還旧道は坂田と大和田交差点の間で内陸に入り、丘陵を越えて人見地区の青蓮寺前に通じていた。その間の道筋は消失している。中央分離帯のある大きな車道を跨道橋で跨ぎその先を左折して下って行く。右手は新日鉄関係の住宅・福祉施設が建ち並びさながら新日鉄村の様相であるが現在は空き家となっているところが多いようだ。。新興住宅地の中を曲折しながら丘陵麓の東西に走る道に出る。右折して西に向かうとやがて左手に周西幼稚園を通りすごして左からの道と合流する。このあたりからは旧道の道筋のようだ。


青蓮寺

本堂

六角堂

宝篋印塔

地蔵・庚申塔

右手に青蓮寺が現れる。人見山を背後にして唐破風付の堂々とした本殿を構えている。開基、由緒等は不詳ながら、嘉禄元年(1225年)の開祖という記録があるらしい。境内左手に建つ大きな寛保2年(1742年)の宝篋印塔が目を引く。青蓮寺の東側には旗本小笠原家2500石の人見陣屋があったが今は宅地や畑となって遺構や標識等はない。旗本小笠原信元が天正18年(1590年)富津に陣屋を構えたがその後、幕末の海岸防備のため富津は松平定信の白河藩領になったため、文化8年(1811年)小笠原家はここ人見に陣屋を移したのである。


近江屋甚兵衛の墓

海苔の句碑

案内板

青蓮寺は上総海苔開発者近江屋甚兵衛の墓があることで知られる。境内にある六角堂は資料館だそうだが公開していない。
詳しくは国道16号の北側にある君津市漁業資料館に資料が展示されている。


コミュニティバス

君津市漁業資料館

近江屋甚兵衛像

館内展示物

近江屋甚兵衛は明和3年(1766年)江戸四谷に生まれ、11歳の時浅草の海苔問屋に奉公に出た。その店の屋号が近江屋であったのであろう。子がなく妻にも先立たれた孤独な身であった甚兵衛は商人のかたわら海苔の養殖方法を研究し、54歳の時産地開拓のために千葉県にやってきた。江戸川河口の浦安、養老川河口の五井、小櫃川河口の木更津の村々を回ったが漁場が荒れると心配する漁民に反対されて事業は成らなかった。

人見村にやってきた近江屋甚兵衛は名主八郎右衛門の理解を得て、小糸川河口の遠浅浜に海苔ひびを立てることができた。文政5年(1822年)2度目の挑戦でひびに海苔が着き、ここに「上総海苔」が誕生することになった。近江屋甚兵衛は、弘化元年(1844年)79歳で亡くなった。

JR君津駅よりかわいらしいコミュニティバスに乗り、君津市漁業資料館の見学と「のり付け体験をしました。この資料館はノリづくりを中心とした漁業資料を展示しています。新日本製鐵()君津製鐵所(当時の八幡製鐵所)の進出により、製鉄の町として大きな発展を遂げるに至る以前、君津はノリづくりの産地として栄えていました。 


ひび立て

ノリ取り

道具類

のり付け作業

館内展示物

君津市のノリ養殖は、歴史をさかのぼると江戸時代後期に1人の男の情熱を原動力に始まったものなのです。資料館では千葉県で初めてノリづくりに成功した近江屋甚兵衛(おうみやじんべい)にスポットをあてた、上総ノリ誕生までの様子や、昭和20〜30年代当時のノリづくりに携わる人々の姿を模したロウ人形、漁業道具の数々を展示しています。 これらの歴史を修めたこの資料館は君津市の次世代に伝えたい20世紀遺産に指定されている。


のり付け実習

出来上がりの前で

生のリ蕎麦

君津市教育委員会の担当の方に館内の説明と案内をしていただき、今では見られない「のり付け」の体験をしました。自分でノリ付けをしたノリを持って帰って食べてみたいとの話もあり、出来栄えを褒め合い、体験は盛り上がりました。

昼食は「生ノリフェア」の高砂屋さんでノリの香りがいっぱいの「生ノリ蕎麦」を食べました。


人見神社・一の鳥居

長く急な階段

新日鉄奉納の鳥居
 
拝殿

妙見信仰(九曜紋)

墓の背後に立ちはだかる人見山に登る。山頂に人見神社がある。君津、富津の海岸地域旧17ヶ村の鎮守として崇拝されている。毎年7月に行われる「おめし」と呼ばれる神馬奉納で知られている。頂上からの眺望がよく、眼下に小糸川と町並みが広がり、遠方は白煙をあげる臨海工業地帯の工場群が沿岸を埋め尽くしている。

 
宮城遥拝標

富士山

工場地帯

小糸川・周西橋・中橋

神社から車道を北に下りていく。国道16号を横切ったところ右手に君津市漁業資料館がある。漁業資料館だが館内の展示は近江屋甚兵衛と海苔養殖関連で占められている。ヒビに着いた海苔を小舟から身を乗り出して手で採る風景は、母の田舎(現在に千葉市中央区黒砂)を思い出す。現在では手作業に代わってヒビの下に舟ごと潜りポンプで海苔を吸い取る方法が用いられている。

小糸川沿いに青蓮寺方面にもどり中橋で小糸川を渡る。昔は小糸川に橋はなく船で渡っていた。小糸川が君津市と富津市を分けている。

小糸川から人見山 大堀神明神社 拝殿 御嶽神社・石仏群 富士山神社

中橋を渡って国道16号を左折、すぐ左手に神明造の大堀神明社がある。大堀村の小泉市右衛門が万治元年(1658年)に初めて伊勢神宮に参拝し、以来、毎年参拝に行き、神官に大堀村に神宮を勧請することを願ったところこれが許されて神明神社が寛文6年(1666年)6月に創建されたと言われている。故浜田幸一代議士の地元でもある。毎年の正月参りは、白の締め込み着物一枚を羽織り、にこの神明神社から人見神社に参ったと言う。この時には多くの報道機関のカメラマンが付いて回ったと言う。

 
JR内房線・青堀駅
 
上野塚古墳

上野塚古墳形状図

内房線青堀駅ロータリー前には上野塚古墳がある。駅前の整備で半分が削られ、その後に古墳案内のパネルがはめ込まれている。往還に戻り、大堀亀下信号交差点で、街道をはなれて内裏塚古墳と飯野陣屋跡に向かう。

交差点を左折して県道157号を400mほど行くと左手にこんもりとした丘が現れる。

 
内裏塚古墳入口

内裏塚古墳・案内板
 
古墳全景
 
後円頂上
 
珠名姫碑

内裏塚古墳という前方後円墳で、南関東地方最大である。築造年代は五世紀中頃で、被葬者は古代須恵国の首長と推定される。
長方が145mあり、人骨・直刀・剣・鏡、鉄槍などが発見されている。この古墳は、前方後円墳11基、方墳1基、円墳20基からなる飯野古墳群の中でも最大級のもの。内裏塚古墳群は小糸川流域を中心に支配していた須恵国造(すえのくにのみやつこ)と兄弟関係にあった、初代の馬来田国造一族の墳墓と推定されている。

後円部を上がって行くと塚上に「内裏塚」碑、脇に「珠名塚碑」があった。かつてはここに珠名姫神社が祀られていたが大正4年に飯野神社に合祀された。碑は嘉永年間に建立されたもので、珠名(たまな)は万葉歌人高橋虫麻呂の長歌に詠われた古代上総の美女で、胸は豊かで腰は細くくびれた妖艶な容姿だったという。


飯野陣屋外堀

飯野陣屋掘跡説明板
陣屋正面 神明社
飯野神社


県道157号を500mほどいった交差点を左折するとまもなく水路に囲われた深い森にさしかかる。ここがおよそ縦300m、横400mほどの方形の濠と土塁で囲まれた飯野陣屋跡である。慶安元年(1648年)に飯野藩初代藩主保科弾正忠正貞が中世の城郭跡に陣屋を築造したもので、明治維新に至るまで10代、223年に亘って飯野藩主の居所であった。陣屋は本丸、二の丸、三の丸を備え、その堂々たる偉容は、長州徳山、越前敦賀と並んで日本三大陣屋の一に数えられている。そのうち現存するのは飯野陣屋のみであり、貴重な史跡となっている。


石碑群
庚申塔・石仏群 三条塚古墳説明板 藩校跡説明板 三条塚古墳

内部に三条塚古墳と飯野神社がある。三条塚古墳は内裏塚古墳に次いで古墳群中第二位のきぼの前方後円墳である。築造年代は6世紀末ころと考えられ、内裏塚古墳よりは100年あまり新しいと記録にある。。

三条塚古墳の東側に飯野神社がある。かつて内裏塚古墳に祀られていた古代上総の美女珠名姫がここに合祀されている。


九条塚古墳

説明板

後円頂上

飯野神社の先には古墳群の一つである九条塚古墳画臨める、遠くないので寄ってみた。


青木八坂神社

拝殿

狛犬

青堀の旧街道に戻る。青木地区に入り、右入る道がある。300mほどすすむと右側に青木八坂神社がある。

天保七年(1835年)の鉢巻をした珍しい狛犬と立派な社殿がある。


本殿

浅間大神

境内に忌神社と、奥に「浅間大神」がある。社殿左手に「あんば様」と刻む珍しい石碑がある。右側に「日本唯一の夢むすび」、左側に「大明神」と書いてある。「あんば様」とは、茨城県稲敷市にある大杉神社のことだそうだ。古代には霞ヶ浦から印旛沼、手賀沼あたりまで一つの大きな内湾だった。大杉神社のある場所は、その内湾に突き出ていて、見る方向によれば島に見え「安婆嶋」といった。そこに大きな杉の木が立っていて、内湾を船で行く人々にとって交通標識の役割を担っていた。人々は、その杉の木を「あんばさま」と呼び、水運の守りとして、信仰の対象にしていた。


御嶽神社・鳥居と祠

芭蕉句碑

庚申塔と石仏

往還の大堀亀下信号に戻る。国道16号を1.2kmほど行った左手、青木自治会館の前に青堀南部漁業協同組合解散記念碑と芭蕉句碑が並んでいる。芭蕉句碑は 「ほととぎすなくや黒戸の濱ひさし」 の一句を刻む。書は幕末の書家、萩原秋巌によるもの。萩原秋巌の養子となった俳人萩原乙彦が明治3年(1870年)5月に建立した。

 
浄信寺 山門

浄信寺

保科正景の墓

森景鎮の墓

街道沿いの御嶽神社から500mほど入った所に浄土宗の浄信寺がある。慶長6年(1601年)開山、心譽春諦上人が観音堂守護として大仁村民の帰依を受け一寺を建立、元禄9年(1696年)九世信譽理碩上人時代に飯野藩主保科正景の帰依を得て本堂を再建した。

この寺には飯野藩主保科正景の墓、正景寄進した鳥居一対がある。上総飯野藩保科家の菩提寺は杉並の大円寺(杉並区和泉)にある

また、山門の右側に飯野藩の剣術指南役森景鎮(かげちか)の墓がある。北辰一刀流千葉周作門下の四天王(森要蔵・海保帆平・岡田金平・平手造酒破門後稲垣文次郎)、森要蔵(景鎮)は千葉周作門下の四天王と謳われた剣豪であった。 飯野藩中小姓・剣術指南役となる。号は一貫斎。諱は景鎮(かげちか)初め惟鎮(これちか)と称した。書家の香雪の門人ともされ書も秀でていた。「大義は会津にあり」と28名の子弟を釣れ会津救援に向かった。


八幡神社

福恩寺

六地蔵


宝篋塔

青木地区から西川地区まではほぼ直線の道である。街道脇には八幡神社、福恩寺がある。福恩寺には大きな宝篋印塔がある。


正珊寺山門
 
禁箪酒石柱
 
本堂

西川地区に入って200mほど進み、道から左折する枝道を300m行くと左手に栄胤山正珊寺(曹洞宗)がある。西川村を知行した旗本小笠原安芸守信元によって万治3年(1660年)に創建された。境内は1,600坪余で古い松が繁り広大な本堂などの建物と鐘楼かあった。明治維新後、ややおとろえ、太平洋戦争でも被害をうけたが、近年、本堂その他が再建された。境内には旗本小笠原氏代々の墓がある。小笠原信元は幕府の船子頭を勤め、次の信盛・長庄まで3代にわたって同職にあった。

知行地は西川村とその近隣に2,600石を与えられた。

小笠原氏墓所説明板 小笠原氏の墓所 会津藩士の墓

また、境内の奥には江戸湾防備のために富津陣屋に駐留した会津藩家臣の墓がある。墓石数は25基あり、一部が破片となったものもある。会津藩は弘化4年(1847年)から嘉永六年(1853年)まで、富津市富津と竹岡地区の二カ所で江戸湾防備についています。

大乗寺山門 庚申塔・石碑群 本堂と石灯籠 織本東岳の墓説明板 織本東岳の墓所

往還は新井地区を経て富津に入る。富津に入ってすぐ右手に普載山大乗寺(浄土宗鎮西派)がある。創建は永観年間(983〜984年)で、はじめ大貫庄岩瀬(富津市岩瀬)に天台宗の寺として建立され、その後、秋元荘中富(君津市中富)に移転した。七堂伽藍の大寺院だったが戦火をうけ、本堂などを焼失した。
永正年間(1504〜1520年)に僧相誉によって富津村内に移され、浄土宗の寺となった。天正18年(1590年)旗本小笠原信元が富津村に知行地(各藩の藩士に対し年貢の徴収権を認めた土地)を与えられて在陣すると、信元の発願によって大乗寺は現在の地に移された。その後、火災により本堂などか焼失したか、享保年間(1716?1735年)に本堂か再建された。


石灯籠の銘
(増上寺)

織本華僑の墓説明板

墓所

柳川藩士の墓石

境内には富津村の名主の妻で、女流俳人の織本花嬌の墓がある。花嬌は小林一茶と親交かあり、文化7年(1810年)に花嬌が死去した後も、百ケ目や三回忌の・法会に一茶は江戸から木更津船に乗り本更津村から陸路で大乗寺を訪れ、句を詠んでいる。江戸湾防備のために富津陣屋に駐留した柳川藩家臣の墓石が17基ある。本堂手前には、総高340cmの石燈龍が2基ある。右側のものは、正徳6年(1716年)に筑前秋月藩主黒田長貞か七代将軍家継の慰霊のために芝の増上寺に奉納した2基の石燈籠のうちの一基である。左側は、正徳2年に出羽岩崎藩主佐竹義長が六代将軍家宣の慰霊に増上寺に奉納したものである。この2基の石燈籠は、関東大震災や戦時中の空襲で土中に埋もれ、それが首都高速道路を造る際に出土し、建設会社を通じて各地に放出されたものの一部と言われている。

左折:大貫・佐貫 
直進:富津岬
長秀寺 小笠原家墓所 会津藩士の墓 会津藩士の墓所

道を200m進むとT字路があり、直進すると富津岬の先端に至る。左折する道は、篠部・小久保地区などを経て佐貫へ通じる道である。この道を500mほど行った左手に松栄山長秀寺(日蓮宗)かある。長秀寺は旗本の小笠原信元がその母(法詮は松栄院穀長秀大姉)の供養のために創建した。本堂建立時に出土したとされる板碑が3基伝わっている。これらは緑泥片岩の武蔵式板碑で「暦応」「貞治」「永和」の14世紀の年号(北朝の年号)を読みとることができ、長秀寺の境内に中世には別な寺院があったことを推測させる。600坪余の境内には小笠原信元一族の女性の墓が数基ある。信元の母の墓は、高さ108cmの宝篋印塔で、また信元の妻の墓と推定される宝篋印塔や、鍔元から数えて4代目にあたる長成の母の墓石もある。さらに江戸湾防備のために富津陣屋に駐留した白河藩・忍藩・会津藩などの家臣の墓石がある。墓石としては現存しないが長秀寺の過去帳にはさらに多くの家臣の名が記されていると言う。


富津 八坂神社

拝殿

富津陣屋跡付近

三叉路に戻り、300mほど進んだ左手奥富津児童公園の南側に富津陣屋跡がある。富津陣屋は江戸湾防備政策の一環として、文政4年(1821年)に安房国の波左間陣屋の石材などを船で富津に運んで建造された。その後、何度も修築され、会津藩が富津陣屋に駐留した頃には、陣屋地は7,875坪あり、東西北の三方が堀で囲まれ、その中の西側に本陣(部屋数28、約150畳)が南北に築かれた。家臣の住む長屋など大小さまざまな住居か25棟、他に米蔵・武器庫、馬場などもあった。現在は民家と空地になっており、陣屋の痕跡をとどめるものはない。


富津陣屋跡

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富津陣屋跡碑

前橋藩士
白井宣左衛門
自刃の地碑

前橋藩家老
小笠原左官
自刃の地碑

富津陣屋の建造以来、木更津村から富津村へ至る海岸沿いの往還は地域の人々の生活道路としてだけでなく、海防政策のうえでも「要路」として位置づけられ、拡充されていったのである。

新井交差点を直進して富津地区に入る。右手海岸は富津漁港、道をそのまま直進すると潮干狩りで有名な富津海岸、富津公園を貫いて富津岬に至る。


貴布弥神社

拝殿

御岳神社

二の鳥居
 
不動明王

江戸時代後期、異国船が日本沿海に現れるようになり、幕府は房州沿岸警備を強化、安房・上総の江戸湾防備を白河藩主松平定信に命じた。松平定信は寛政の改革を断行した老中で、18世紀末期には自ら江戸湾海防の強化を提案していた人物である。

文政4年(1821年)に富津陣屋が置かれるとともに、海沿いの房総往還が整備され以後内陸ルートにかわってこの海岸ルートが主要街道になった。陣屋の所在地は摩尼山医光寺付近の空き地というだけで、医光寺境内周辺をみわたしてもそれらしき案内板や標識を見つけることはできなかった。

町並みの中の路地から海岸にでる。漁港と隣り合わせに潮干狩り専用駐車場が整備されている。今は誰もいない


富津公園
岬展望台と第一海堡
第二海堡
東京湾観音を望む 壕跡 砲台・壕跡

松林の草むらの中に分厚いコンクリートで出来ている建造物は射入窖(しゃにゅうこう)と呼ばれています。内側はトンネルのような空洞になっている。その空洞に向かって銃弾を撃ちこんで、銃火器の性能試験を行っていた。


射入窖(外観)

射入窖(内部)

着弾監視所

着弾監視所

着弾監視所跡

海岸にはコンクリートの大砲の着弾監視所跡も残っている。

そこから公園内の松並木の中をひたすら岬まで歩く。突当りにモダンな展望台が築かれ、江戸湾が広がっている。展望台は明治百年を記念して建てられたもの。岬の沖合にみえる小島は明治元年、江戸湾海防に為に築かれた第一・第二海堡である。

富津号交差点までもどり、右折して房総往還を再び歩き始める。川名信号で国道465号となる。

                                富津から佐貫へ
 

         千葉の歴史の道 房総往還を歩く



 木更津から富津まで

 県道90号(畑沢川)→新日鉄団地→君津高校→周防幼稚園→青蓮院→人見神社→君津市漁業資料館→中橋(小糸川)→
 大堀神明社→青堀駅・上野塚古墳→内裏塚古墳→飯野陣屋跡→九条塚→青木地区・芭蕉句碑→正珊寺→大乗寺→長秀寺→
 八坂神社→富津陣屋跡→貴布弥神社→御岳神社→富津公園