千葉の歴史の道 房総往還を歩く



 袖ケ浦から木更津まで

 小櫃橋→水天神社→高柳八幡宮→西山分岐→吾妻道標→吾妻神社→平等院→成田不動尊→東岸寺→戸隠神社→選擇寺→
 光明寺→ 
八釼八幡神社→厳島神社→成就寺→鐙誠寺→日枝神社→延命寺→木更津県庁跡→専念寺→大宮神社→光福寺→
 厳島神社→御嶽神社→日枝神社→地蔵堂・水神社・浅間神社→浅間神社
→六地蔵→JR君津駅


  小櫃橋を渡ると木更津に入る。往還はすぐ左折して旧道に入る。この辺りに渡し船の渡し場があった所である。

小櫃川(小櫃橋)

水天神社

高柳八幡神社

拝殿
旧道に入るとすぐに水天神社がある。旧道はすぐに県道270号に合流する。東京湾アクアライン連絡道をくぐり、左手に高柳八幡神社がある。この先、西山の集落の四つ角に道標があった。この道標は、現在、木更津市立金鈴塚遺物保存館の庭に置かれている。十字路を西に行くと岩根駅へ入る道である。

新御堂寺 本堂

高柳不動堂

額(天女像)

碑(不動堂由緒)
わき道にそれるが300m程行くと、室町時代に創建、里見氏の庇護もあった歴史のある高柳不動堂と真言宗豊山派新御堂寺がある。新御堂寺の藤平貞順住職は10年前、住職に就任してから御詠歌や写経、ラジオ体操、盆踊りなどを始め、地域社会の中でお寺の可能性を広げている。

木更津高柳の不動堂は真言宗の名刹で本尊の「不動明王」は古くから房総の各地はもちろん、相模、武蔵、日立の人々からも崇められてきた。言い伝えによると、この不動尊は、今からおよそ1500年前、奈良の東大寺を建てられた名僧「良弁」によってつくられたと言われている。

室町時代の中頃(今から約520年前)上総の国に大変悪い病が流行した。村人はもちろん上総の各地から老若男女がこの不動尊に参拝し病気の全快を祈願しました。この人々の熱望が通じたのか、不動尊の慈悲心があらわれ、悪病になやんだ多くの人々が全快の喜びにひたることができたという。

桃山時代の初め(今から390年ほど前の天正年間)安房の豪族里見義尭は、これを聞いて自ら大勢の部下を連れ、この不動尊を詣でて、名工に命じて新たに不動尊堂をつくらせた。それに合わせ一町歩にも及ぶ水田を寺領として特別に寄進し、里見氏の「祈願所」とし、寺号を「護国寺」と改めて篤く信仰しました。不動尊信仰は庶民の間に年とともに広まっていきました。

その後、江戸時代の初め小櫃川の再度の氾濫により川間尻にあった不動堂が大きい被害があり、元禄11年(1698年)の4月、現在の高柳比丘尼塚(びくにづか)の高台に新しい不動堂を建てた。寺の構造は当時のままに残っている。

明治の初め廃仏毀釈の嵐に一時は不運に見舞われましたが、明治45年同じ高柳にあった新御堂寺がこの不動堂の境内に移り、今日のように「新御堂寺の不動尊」と言われるようになった。

高柳不動尊は、1200年もの長い歴史を背景に、多くの人々から親しまれ信仰されてきた。


往還は右に入る
 
木更津への入口
道標

今年も豊作
元の道の戻り、往還を行くと長須賀にはいる。「ガス会社前」バス停の先で右の旧道に入る。ここには道標があったと資料にはあったが見当たらない。【現在、木更津金鈴塚保存館(廃館)の前庭に保存されている)】生垣に囲まれた家が続いて旧街道筋の面影を感じさせる快適な道が延びている。
しばらく行くと久留里線踏切にさしかかる。その手前、右手に民家の南側を細い水路に沿って道が出ている。


福寿寺

福寿寺 石塔

日枝神社
 
畳が池

真っ直ぐに進むと西清小学校手前に福寿寺、日枝神社をみて、県道90号をこえた先で畳ヶ池の傍を通っていく。

畳ヶ池は房総で挙兵した源頼朝が、兵を募りつつ北上する時に、木更津の人々が水辺に畳を敷きつめ、もてなしの宴を開いた事から、「畳ヶ池」と名付けられたそうです。源頼朝が畳ヶ池で数度昼を取る時、長須賀にいる農民が小さな籠に綺麗なお弁当を作り献上した。所頼朝はこの気持に大層喜び その農民に【小籠】と名字を与えたそうです。食事の時に箸を忘れ、(頼朝の家臣が)頼朝が池に生えていた葦を箸替わりにしようと切ったら手を怪我した。怒った頼朝は「葦なんて生えなきゃいい」と言った。それ以降この池に葦生えない。(地元の人が根から取った・・という話もある)


熊野神社

拝殿

山王系庚申塔

金鈴塚古墳

石棺安置場所

往還は広々とした田んぼの中を一直線に西にのびて、内房線に分断されたあたりで一時湿田の中に消える部分(区画整理事業で整備された)がある。西側には金鈴塚古墳、熊野神社の森が見れる。線路の西側で復活して吾妻集落の中を通りぬけて吾妻神社門前通りに出る。


吾妻 道標

その角に指差し道標があって「江戸道・吾妻神社」と記されている。その江戸道は房総往還の古道であるか、あるいは吾妻神社から房総往還本堂への近道として造られたか、定かではない。往還は左に折れ、その先は、上総の港町木更津である。


参道と拝殿

燈籠と金毘羅宮

平成26年7月
八釼八幡例大祭

右折して200m程先に吾妻神社がある。戦前に海を埋め立てて海軍航空隊基地が設置される以前は、遠浅の海浜に臨む老樹松林の地であった。祭神は弟橘姫命といわれ、東国の平定に来た日本武尊が東京湾を渡る際、妃の弟橘姫か海神の怒りを鎮めるために海に投身し、漂着した袖を祀ったという伝説がある。境内には文政13年(1830年)5月に建立された「金毘羅大権現」の石燈籠があり「海上安全」、「大漁祈願」と刻まれている。また、嘉永元年(1848年)8月と刻印されたに奉納された石燈籠がある。

さらに寛政6年(1794年)建立の「橘の昔のかほりき秋の風 七十翁楚茜」と刻まれた句碑がある。


庚申塔

小原庄助の墓

吾妻神社から先の三叉路にもどり、さらに100mほど木更津方向に進むと、正面に県営年間の庚申塔が並び、民謡にも唄われている小原庄助の墓がある平等院があり、左手に成田山新宿不動堂がある。本堂手前にはいくつかの石造物が置かれ、その中には明治21年に、上総佐貫藩の旧臣で、当時木更津に「寄留」していた伊藤米蔵か、水屋一式と手水石を寄進したことを刻字した自然石型の石碑かある。本堂の右手前には稲荷社があり、昭和初期には「穴守稲荷」と呼ばれていた。
不動堂から、さらに道を行くと木更津の中心地にはいる。江戸時代の木更津は、房総往還の継立村・宿場であり、また江戸日本橋の木更津河岸から直行する「木更津船」の発着する港町でもあった。家数は千軒近くあり、商家や土蔵の立ち並ぶ房総の地方都市のひとつであった。

  木更津宿は名所なぜというのに  通りが三筋に わかれてござるよ

  下なる通りは 海岸どおり     上なる通りは 寺町どおり

  中なる通りは 旅籠屋町だよ   名高い宿屋のやどむすめ

  お花というて名代のしゃれもの  夜さえあければ

  前掛たすきでオシャラクきめこむ


広重・上総木更津

広重・上総木更津海上

民謡「木更津」の歌詞にあるように、木更津村には3本のメインストリートがあり、内陸側から寺町通り、旅籠屋町の通り、海岸通りがほぼ南北に平行して通っていた。旅籠屋町の通りには大小の旅籠が軒をつらね、港に接する海岸通りの付近には木更津船や漁船の発着揚があった。寺町通りには、文字どおり、多くの寺院が道沿いに建ち並んでいた。


東岸寺

一茶句碑

戸隠神社

木更津にはいるとすぐに光明山東岸寺がある。寺伝によれば応永8年(1401年)に時宗の寺として開かれ、永正6年(1509年)に隣接する選擇寺の末寺となり、浄土宗に改宗したという。一茶による句会「藤勧進」が開かれ一茶の句碑日がある。東岸寺の左隣には境内22坪ほどの戸隠神社があり、手力男命(あめのてぢからお)(「天の手の力の強い男神」の意で あり、腕力・筋力を象徴する神)をまつっている。


選擇寺

保科正重母子の墓

藤勧進の碑

案内板

蝙蝠安の墓

東岸寺の向かいには鶏頭山選擇寺(浄土宗)がある。文明16年(1484年)観誉祐崇(かんよゆうすう)の開基といわれている。境内は600坪余あり、山門をはいった右手に二基の宝箇印塔がある。左が信州高遠城主保科正直の次男で上総飯野藩初代藩主保科正真の兄にあたる保科正重の墓である。右は小日向氏の出身で寛永17年(1640年)に死去した正重の実母の墓である。歌舞伎で有名な那蝙蝠安の墓、小学校発祥の碑、藤勧進碑、軍用兎の碑などがある。

 
藍染院・本堂

札地蔵
 
疣取地蔵

馬頭観音 

選禅寺の隣は愛染院(真言宗豊山派)である。本尊は薬師如来、愛染明王である。300坪余の境内には大正14年に建立された高さ167cmの自然石型の馬頭観音の碑があり、江戸時代以来、木更津村に輸送用の馬か多くいたことを示している。愛染院出ると駅前の富士見通りになる。鐙誠寺の狸ばやしの町である。駅前のモニュメント、街角狸とたくさんの狸が出迎えてくれる。木更津には県内唯一の芸妓置屋「木更津会館」がある。


木更津駅

駅前のきぬた君像

駅のロータリー
 
木更津会館

富士見通りに出ると南側に門がある光明寺がある。建武2年(1335年)に日輪によって創建されたといわれる光明寺は境内580坪余で本堂・七面堂などかあり、本堂の前には「舞鶴の松」が植えられ、今も見事な枝ぶりを見せている。この他、境内には歌舞伎『世話情浮名横櫛』の、切られ与三郎の供養墓がある。


光明寺山門

舞鶴の松・本堂

切られ与三郎の墓

光明寺の旧門前を右折すると旅範屋町の通りに出る。ここを左に進むと八剱八幡神社に至る。本社の創建は詳らかではないが古来、土着の神であった八剱神(往古この地を八剱の里と呼び、この里の神を八剱の神と称した)に大和政権の東国侵攻にもとづく日本武尊東征伝説などが加わって、現在、祭神は主神として誉田別尊、息長足彦命、息長足姫命、相殿には素盞鳴命、日本武尊かまつられている。


八釼八幡神社

拝殿

頼朝お手植えの蘇鉄
 
三社神社

源頼朝が鎌倉幕府を開くにあたり八幡神社に神領を寄進し神殿を造営したと言われ、現在の社殿は、安永2年(1773年)に建造されたものである。拝殿の格天井(ごうてんじょう)には六十二面の装飾画か描かれている。これは明和9年(1772年)の江戸の大火で木更津に避難していた狩野派の絵師によるものと推定され、花鳥・動物・風景などを題材に近世中期の江戸狩野派の画風を今に伝えている。八幡神社は江戸時代以来、港町木更津の船頭や漁業関係者の厚い信仰をあつめていた。石鳥居をはいってすぐの右手には、幕末の志士と交流し、維新前後に房総の教育に尽力した嶺田楓江(みねだふうこう)の顕彰碑がある。門下生であった重城保が文を撰じ、書は中国人の劉世安であり、題字のTO MINEDA FUKO ERECTE BY HIS FRIENDS」は、楓江と信交のあった英国領事官コラウブスによるものである。

八幡神社は明治4年に郷社に格づけされ、また境内には末社として琴平神社、疫神社など10社あり、その関係の石造物か本殿裏手に多数置かれている。
八剱八幡神社の鳥居から100mほどのところに巌島神社(白弁天、弁財天とも言う)の社殿かある。個々には波の伊八の彫刻と運慶の弟子の作と言われるご本尊の彫刻がある。10月15日の柿祭りには見ることが出来る。


波の伊八作の彫刻

弁天様

巌島神社を左折して150mほど進むと、左手奥に満足山成就寺(顕類本法華宗)の山門が見える。門の横には、安政2年(1855年)4月に建てられた結界石塔(寺域の外界を示すために建てられる石柱で酒肉などが寺域内に 持ち込まれる事を禁じるために寺の門前に建てられる石柱)があり、正面には「南無妙法蓮華経 法界」右面には「満足山 四十一世 日涼」左面には、「一心浄念飛龍居士 中村一心斉為菩提 大河内氏」と刻字されている。
中村一心斉は中里介山の小説『大菩薩峠』甲源一刀流の巻に登場する人物という。応永33年(1426年)に日運か創建したといわれている成就寺の境内には針供養塔がある。


結界石塔

本殿(覆屋)中に

針供養等

往還をさらに50mほど進むと右手奥に護念山鐙誠寺(浄土真宗西本願寺派)の山門か見える。境内は600余、南は矢那川に区切られ、本堂の後には東京湾をへだてて富士山を見ることかできる。創建は寛文年間(1661〜1672年)で、僧了念か鎌倉から来て開いたという。境内には「鐙誠寺の狸ばやし」伝説にもとづいた「狸塚」「狸ばやし童謡碑」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)がある。


参道と本堂

謡碑

狸塚

筆子塚

往還は(旧道)、矢那川にかかる鐙誠寺橋を渡り、300mほど進むと貝淵にはいる地方裁判所前を通り、貝淵2丁目で左からくる道と合流、交差点を左に曲がり踏切を渡ると日枝神社がある。祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)、境内の社殿手前には高さ3m余の石燈龍が一基ある。これは文政10年(1827年)2月に死去した御三卿の一橋治済の葬儀に際し、当時の上総貝淵藩の藩主林忠英が、葬儀の行なわれた上野寛永寺に奉納したもので、その後、昭和になって遺失するところを、林氏ゆかりの日枝神社に移設したものである。

元の道(往還)に戻り、大きな交差点を渡った左手に延命寺がある。

延命寺は元和元年(1615年)月秀祖心が小庵を建てて稲荷明神をまつり、稲荷寺と称した。その後、寺塔を開創したのに始まる山門を入ると両側に石仏石塔が並んでいる。左側最初に立つのは元禄15年(1702年)の庚申塔、右側に移って最後にあるのは文政10年(1827年)の馬頭観音である。古いものが多く銘文の判読が困難である。
境内には
豊川稲荷が祀られている


延命寺
 
馬頭観音
 
庚申塔

豊川稲荷 

300mほど進むと日枝神社がある。祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)、境内の社殿手前には高さ3m余の石燈龍が一基ある。これは文政10年(1827年)2月に死去した御三卿の二橋治済の葬儀に際し、当時の上総貝淵藩の藩主林忠英が、葬儀の行なわれた上野寛永寺に奉納したもので、その後、昭和になって遺失するところを、林氏ゆかりの日枝神社に移設したものである。


木更津県庁跡碑
貝渕陣屋跡

案内板

道をさらに300mほど進み、右折する小道を200m余入ると「木更津県史蹟」と刻字された碑かある。明治の廃藩置県により明治4年から6年の間、安房上総地域を統合して木更津県が設置されここに県庁がおかれた。元は貝淵藩主林忠英が文政10年(1827年)に築いた貝淵陣屋の跡地で、後慶応4年(1868)になって瀧脇信敏が桜井藩をつくりここを藩邸とした。当時の庁舎は旧桜井藩主の滝脇信敏の邸宅を改築したもので初代県令は柴原和である。


真武根陣屋跡

陣屋からの眺め

市内と東京湾

上総・真武根陣屋(参考)

嘉永3年(1850年)林播磨守忠旭(はやし はりまのかみ ただあきら)によって築かれた。林氏は貝淵藩二代藩主であるが、嘉永3年に貝淵より真武根(まふね)に陣屋を移し請西藩となった。

忠旭の家督を継いだ最後の藩主林忠崇は「脱藩大名」、あるいは「最後の大名」として名を残す。家督相続直後の慶長3年(1867年)戊辰戦争が勃発すると、藩主自ら脱藩して遊撃隊に参加、このときかねてよりの打ち合わせにより真武根陣屋には火が放たれた。各地を転戦した後、徳川家の存続が許されたことで仙台藩を通じて新政府軍に降伏、唐津藩に身柄は預けられた。その後、請西藩は戊辰戦争で唯一の改易(律令制度では現職者の任を解き新任者を補任することを、鎌倉時代 ・室町時代には守護・地頭の職の変更を意味した。江戸時代においては大名・旗本など の武士から身分を剥奪し所領と城・屋敷を没収すること。除封ともいう)となった。



専念寺

馬頭観音

半地蔵(正面)
 
半跏地蔵(斜め横)

道をさらに進むと桜井にはいる。道の右手奥には一行山専念寺(浄土宗)がある。

寛文8年(1668年)天誉暗良の創建といわれ、山門の左横には安政5年(1858年)5月に建立された馬頭観音、文化8年(1811年)10月に桜井村の人々によって建てられた半跏(はんかけ)地蔵がある。

※半跏(はんか)地蔵仏像彫刻で、台座に腰掛け、左足を垂らし、右足は左足のひざの上にのせ、右手をほおにつけて思考する姿のもの。日本では弥勒菩薩(みろくぼさつ)像に多くみられる。


道を300mほど進むと、左折する道の奥に大宮神社がある。現在、社殿はない。道が大宮神社へ左折する地点は三叉路となっている。左折する道が内陸部を佐貫方面へ至る道、直進する道が海岸沿いに小浜、大堀、西川を経て富津へ至り、さらに小久保、佐貫へと至る道である。内陸部の道か古くからの房総往還である。海沿いの道は、地域の人々の生活道路であったが、江戸湾防備政策によって、文政4年(1821年)に富津陣屋か建造されるに及んで、人や物資の運搬のために拡充整備されたものである。
三叉路から海沿いの道を100mほど進むと右手に海龍山光福寺(真言宗豊山派)の参道入口がある。入口の右手に文政3年(1820年)4月に建立された木食観正名号塔が建っている。光福寺の創建は不詳だが、寛永7年(1630年)に僧源祐が中興開山したといわれている。小山を背景にした境内は840坪あり、石造物も多い。「足助先生之墓」は、旧浜松藩士で、維新後桜井に移住し、光福寺の一本堂で寺子屋を開いた足助富造の墓である。明治39年に53才で死去した足助富造をしのんで、門下生が大正11年10月に建立したものである。


木気食観正名号塔

木気食観正名号塔銘

本堂

足助先生の墓

石仏・石柱群

道を100mほど進むと左手に桜井仲町公会堂があり、その右横に巌島神社の小さな社殿がある。「水神様」「弁天様」とも呼ばれ、祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)(水の神)で、特に女性の信仰が厚いというが社殿はかなり傷んでいる。。彫刻は立派なもので波の伊八の作と言われている。


厳島神社
 
扁額

小脇板の龍

仲町公会堂の左横の小道を100mほどはいると御嶽神社がある。社殿の裏には神式の墓地があり、社殿右横には稲荷大明神」の小祠かある。

 
日枝神社鳥居

参道(階段)

拝殿
 
拝殿と常夜灯

道にもどって100mほど進むと左手奥に桜井南町公会堂があり、その前の小道は日枝神社(俗称、山王様)の参道である。拝殿

手前の170cmの常夜燈一対がある。海岸か埋め立てられて工業地帯となる以前には、付近の漁民はこの日枝神社の森を目標に出漁したと言われ、漁師の信仰の厚い神社であった。一対の常夜燈も海上の船からは格好の目印となったものである。

 

道にもどり、100mほど進んで、左折する小道を10mほど行くと、小さな鳥居と銅板葺きの宮がある。地元では「ゴンゴサマ」と呼んでいるか由緒は不詳である。


ゴンゴサマ鳥居

道は小浜村にはいる。左手は丘陵の縁辺か崖となりせまっている。右手の海か埋め立てられる以前は道のそばまで波か打ちよせていた。左手の丘陵上に発達した小浜村の集落には、地蔵堂、水神社、浅間神社がある。石段を登りきった小山の上にある水神社は、祭神が罔象女命(みつはのめのみこと)といわれ、もとは当村の高根氏の祠であったものが、豊漁の神として祀られるようになったものである。社殿に対峙するように建立された、高さ3m以上の「漁業権放棄の碑」(千葉県知事、友納武人書回折は、小浜漁業協同組合(組合員81名)が当時の八幡製鉄及び関連企業の土地造成のため、県の要請にこたえて昭和42年8月31日に「区画共同漁業権」を放棄し、これを記念して建立されたものである。


水神社鳥居・参道
拝殿 扁額
浅間神社鳥居
浅間神社

道に戻りしばらく進むと畑沢に入る。左手奥に浅間神社の参道登り口がある。浅間神社は、祭神が木花咲耶姫命、大山祗命など、境内は2,500坪余で老松、古杉が繁茂している。社殿は海浜に突出した丘陵の頂上(海抜40m)の平担地にあり、そこから富士山や相豆の地を一望に見わたすことかできる。日本武尊か東征の際に頂上に登って富士山を遥拝し、浅間神社を勧進したという伝説かある。また、源頼朝か治承4年(1180年)に太刀一振と守護神の尊像を奉納し、建久9年(1198年)に社殿を再建したと言われている。

浅間神社の社殿へは南側から300mほど参道の石段を登って到達するが、この丘陵は、社殿のうしろ近くまで宅地造成か進みつつある。

祭神は弟橘姫命といわれ、東国の平定に来た日本武尊が東京湾を渡る際、妃の弟橘姫か海神の怒りを鎮めるために海に投身し、漂着した袖を祀ったという伝説がある。

さらに寛政6年(1794年)建立の「橘の昔のかほりき秋の風 七十翁楚茜」と刻まれた句碑がある。


浅間神社参道

庚申塔

長い参道
拝殿 扁額

「治承4年(1180)9月源頼朝が再興を祈願し白旗竿を掲げ兵を鎌倉に進めたといわれ旗竿村白旗神社の伝承がある」という、随分あいまいな所以ではある。260余段の石段を上がりきると平屋切妻の社殿があった。途中には城跡風の石垣が残り苔むした燈籠、石仏石塔がならび、歴史の古さを感じさせる参道である。


畑沢・六地蔵

畑沢川を渡って君津市に入る

                     木更津から富津へ