千葉の歴史の道 房総往還を歩く



 五井から姉ケ崎まで

 JR五井駅→龍善院→道標(庚申塔)→大宮神社→養老川→道祖神社→島穴神社→春日神社→道標(馬頭尊)→田中地蔵尊→
 二子塚古墳→姉崎神社→JR姉ケ崎駅→妙経寺→鶴牧藩校跡→稲荷神社→八坂神社→端安寺


五井は「上総国町村誌」によれば、古くは武松と称したという。地名の由来は井戸水に関連すると考えられ、刀工宗近が村を通りかかった、名工正宗から良い刀を打つには良い水が必要であると教えられ井戸を次々と堀り、5つの井戸を掘ってついに名刀を鍛えることができたといい、それが「五井」になったという伝説がある。

五井は江戸期のはじめは旗本領、中期は幕府領、天明元年(1781年)には西条藩有馬氏が居城を移し五井藩を立藩する。近代の五井村は、五井、出津、玉前新田、岩崎新田、平田等入力村が合併して成立。役場を五井に設置し、明治24年五井町となっている。

五井は八幡宿の次の継立場であり、南部は養老川河口に位置するところから交通の要所であった。また半農半漁の農民にとって、房総往還ぞいは農間商いには都合のよい場所であり、蛤、蜊(あさり)、塩などを売り副収入を得た。また、現在残る五井大市は万清元年(1658年)に江戸深川の釜六と釜七という金物屋によって開かれた。「鋼、釜の市」が始まりと伝えられている。五井大市は毎年十二月初旬に行われており、房総往還ぞいに居を連ねた。明治、大正期には主に古道具、骨董品、傘、小間物などであり今日では、植木、鉢櫨、衣料などの出店や焼きそば、イカ焼などの食べ物屋が多く、当時とは隔也の感がある。


JR五井駅

小湊鐵道

明治45年には、木更津線(現JR内房線)蘇我〜姉崎が開通し、それに伴ない五井駅を設置、また大正14年同駅から分岐した小湊鉄道・五井〜里見間が開通することにより、交通や経済の面でも市原市の中心地として発展し現在に至っている。


龍善院

本堂

薬師堂

駅前の広い通りとの交差点を街道は直進する。200mほどのとこの右側に大宮山を号する新真言宗の龍善院がある。府中釈蔵院の末寺である。龍善院を30m過ぎると下宿であり・道は大きく右へ曲がる。


道標(庚申塔)

その左側角に、文化4年(1806年)の庚申塔の道標がある。高さ90cm、たて、よこ35cmで正面は江戸道、側面にはたかくら道、きさらすみち 房州道 反対側には久留里道とある。ここが久留里道との分岐点であることでわかる。道標は、かなり角が欠損しているが、地元の人たちにより補修されている。


往還案内板

大宮神社山門
(往還側)

子安神社・子持石

拝殿

境内の大イチョウ

道標をあとに50m行くと道は左に大きく曲がる。すると前方150mの正面に大宮神社の鳥居と杜が見える。鳥居のところに来ると道は大宮神社の境内にそってやや右へ曲がる。鳥居の前には「学業進学 芸能技芸の守護神」と看板に書いてある。

祭神は、国常立命、天照大神、大己貴命であり、由緒には、日本武尊が東征時創祀治承四年、源頼朝が東上の折、奉弊祈願したこと、また天文年間に小田原北条氏が里見氏と戦った際、戦勝を祈願して、太刀一振を献じたとある。社宝としては、太刀二振があり、また境内には市原市保護樹第1号である銀杏がある。神事は数多くあるが、春の例祭にあんばまち(阿波等)があり、歌舞の附祭として江戸期より山車三基が出た。


養老橋

養老川

大宮神社をあとに200mほど進むと、道は二つに分かれる。左は現在の旧国道であり、バスも通り往来ははげしい。往還は右の狭い、ひっそりした道である。しかし、その狭い往還も100mほどで旧国道と合流する。南総病院の建物が見える。合流した往還をさらに200m進むと、往還は現在の旧国道から右へ分岐する。右折して約50mで養老川の堤である。

江戸中期の古文書には養老川のことを用呂川と記しているが、天下の副将軍といわれた水戸光国は、大日本史の史料蒐集のため鎌倉、房総の地に旅に出たが、延宝2年(1674年)に書いた甲寅紀行の4月27日の項に「五井村ヲ過ギ、青柳村卜飯沼村トノ間二、二井河有 飯沼川トモ云。徒歩渡リナリ。ソレヨリシテ姉崎へ・・」とある。

養老川には、村田川と同様に、江戸幕府は戦略上橋をかけなかったため渡船で川を越えた。最初に橋をかけたのは、明治18年12月といわれる(市原のあゆみ)。

渡船については、当時、島野村、青柳村など六ケ村が養老川渡船組合をつくったが寛政7年(1795年)8月「組村渡舟議書」を作成し、川越銭と経費の割合を記載している。


地蔵尊
 
河川敷・維新戦場跡

養老橋をわたるとT字路である。右は養老川の左岸ぞいに国道16号に至る。養老川左岸にそって200mほど行くと、右側の路傍の草繁る中に、徳川義軍戦場の跡と書かれた白い杭(発見できず)が建っている。

慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還で幕府政治は幕をとじることになる。しかし、新政府への恭順に反対する幕軍脱走兵は、房総にも流れ込み、木更津請西藩の林氏と合流し、そこを根拠地として上総義軍と称して官軍と対抗した。翌年4月7日、柳原前光の指揮する官軍は上総にせめ入り八幡宿に集結して義軍と交戦した。五井に本陣をしいた義軍は官軍の戦力におされ、ここ養老川堤まで後退し、出津の川岸を防御線として数百人を配置した。しかし、銃砲にまさる官軍に圧倒され、多数の死者を残し敗走したとある(市原のあゆみ)。
特にここ養老川をはさんでの戦いは激戦であり、その後、義軍は三方に分かれて姉崎方面に敗走し、官軍に追われて次々と戦死した。義軍の墓は養老川畔、惣社国分寺、椎津山谷、畑木にもあり、また柿崎妙経寺には撤兵隊十六名の墓塔が立っている。
1Kmほど進むと、青柳バス停である。


道祖神社

道祖神

青柳村は江戸湾に面する半農半漁の村で、アサリ、ハマグリ等を産し、特に当村から江戸へ出荷されたバカ貝は、のち当地名に因み「アオヤギ」の別名がつくほど全国的に有名であった。

往還はバス停を過ぎると左右に蛇行しながら進む。周囲の人家はまばらになり、水田が広がる。JR内房線が左側200mほどのところを房総往還にそって南北に走っている。600mほどで島野に入る。

神橋 参道の石橋 一の鳥居 拝殿 扁額

T字路交差点手前の狭い道を左折し、JR内房線の鉄橋の下をくぐる。300mほどで、左前方に杜が見えてくる。志那津比古命(しなつひこのかみ)を祭神とする島穴神社である。この神社の鎮座している島野は「和名抄」に「鳴穴」として出てくる古い郷で「島穴の駅」の置かれたところである。島野の地名は島穴の転化したものであるが、津令時代には駅馬が置かれ、往来の役人の使用に供したほか宿泊、休憩場所としても利用きた。

島穴神社には松平定信自筆の扁額(へんがく)が奉納されている。島穴神社をあとに房総往還にもどる。


春日神社鳥居

拝殿

瓶塚

バス停から旧国道を真っ直ぐ進むと陸橋の手前に十字路がある。今津朝山方面へ向かう両側は水田や住宅地であるが、300mほどで左側の水田の向こうに柱が見える。左折して200mほど入って行くと、そこに春日神社がある。

祭神は、武甕(ぶおう)槌神、経津主命、天児屋根命、比売大神である。云い伝えによれば、大和朝廷から蝦夷征伐を命じられた田道将軍(崇神天皇6代目の子孫という)が今津朝山のこの地に祭壇をつくり、軍神を勧請して戦勝祈願したのが春日神社のはじまりとされている。鳥居の前には、小さな瓶塚(瓶(かめ)に土を入れて運び塚を築いた塚)がある。蝦夷征伐で田道将軍は戦死したが、この地の人々は大いに悲しみ田道の亡骸を手厚く葬ったという。これが瓶塚であるが、田道が死ぬと勢いを盛り返した蝦夷は瓶塚を掘り返し亡骸をはずかしめようとしたら、塚の中から大蛇が出てきて蝦夷どもを噛み殺してしまったという伝承である。


鷲神社

拝殿

胴羽目板・彫刻

今津朝山は、古くは今津村と朝山村であり、朝山は始め麻山と云って麻の栽培が盛んであったことから起きた地名といわれ、今津とは、新しい港を意味しているという。
鷲神社は春日神社から北西に10分ほど歩いた所にある。

天日鷲命(あわのひわしのみこと)の孫が木綿、麻布を織る技術に優れていたため天富命(あめのとみのみこと)に孫を率いて阿波国(四国)に遣わし、肥穣の土地を求めて穀麻の種を増殖させた。
天富命は更に沃穣の地を求め阿波の齋部(いなべ)一族(四国の豪族)を率いて東国(房総今津朝山)に下り、麻穀を播殖したところ良質の麻の産する所と知り、この地を「総の国朝山」と名付け、天日鷲命を守護神として奉祀した。
以来、永い歴史、歳月の流れの中で殊に江戸時代以降、産業振興、商業繁栄の神として人々の崇敬最も篤く、11月初酉日より3日間「酉の市」が開かれ近郊近在より、数多くの崇敬者が参詣し賑々しく例祭が斎行された。
明治42年頃までに鷲神社境内から宿の道路の両側には毎年12月になると酉の市が開かれ遠くは埼玉県安行からの植木屋や江戸等各地から日用品雑貨等を商う者が集まったり、その頃當地で製産されていた塩との物々交換の為め等で多勢の人が出入りして殷盛を極めたそうである。


馬頭尊(姉崎方面)

春日神社をあとに白塚陸橋下バス停のところにもどる。房総往還は直進できず通行不能なので、右折するとJR内房線を越える。越えたところを線路にそって行くと50mほどで房総往還と合流する。そこから陸橋を右に見ながら水田をまわるようにして300mほど行くと今津川の橋をわたり、白塚の陸橋を越えた旧国道と合流する。合流した左の角に馬頭尊の道標がある。高さ120cm、横40cm、奥行24cmで正面に「寛政八丙辰年(1796年)馬頭尊十二月吉日」とあり、わきに「房州道 木更津 たかくら道江戸 ちは寺道」、裏に「作場道、上総国市原郡柿崎村内山谷、願主若者衆」とある。


田中地蔵寺

御堂

本堂内のお地蔵様

馬頭尊から100mほどで姉崎新田バス停である。その手前を右に入ると延命寺踏切でJR内房線を越える。線路を越え、真っ直ぐな道を100m行くとT字路である。そこを左折し、その先、左側に田中の地蔵寺がある。

小さな鳥居をくぐるようにして入ると御堂があり、その中に入には数百体といおうか、手のひらにのりそうな小さなものから数10cmくらい大きなお地蔵様が入口の方に向かって並んでいる。伝承によると田中地蔵尊は「今津の疣(いぼ)とり地蔵様」として田野の人々に親しまれ、毎月旧暦24日の縁日には、露店商や茶店が出張って販わったという。

田中地蔵尊をあとに房総往還にもどる。田畑や住宅が続く道を600mほどで、山新バス停である。山新とは山谷と姉崎新田が一緒になった名称であるという。


二子塚古墳 

案内・説明板

二子塚古墳(全景)

石柱

家具センター手前の道を神明小学校の脇を通り500mほど進んでいくと平坦な所に壮大な規模を誇る県指定史跡である二子塚古墳がある。大阪の仁徳天皇陵に似た美しい前方後円墳で、長軸は105m、前方部高さ9m、復円部高さ9.8mである。昭和20年の調査のおり、滑石製の石枕(県重要文化財)をはじめ、短甲、馬具、直刀、鉄鉾などが出土した。


JR姉崎駅(工事中)

房総往還にもどる。400mほどで大道下バス停である。その先、右はJR内房線の陸橋を越えて国道16号線、左折すれば鴨川方面である。右前方300mほどの所にJR姉崎駅がある。

姉崎は姉ヶ崎ともいう。「市原群誌」によれば、志那戸弁命(しなとべのみこと)。(姉崎神社祭神)と志那郡比古命(しつなひこなかみ)(島穴神社祭神)の姉弟神がおり、姉神が先に当地に来て弟神を待ったので姉ヶ崎と呼んだという伝承がある。

姉崎神社・一の鳥居 参道へ 境内と本殿
当日は祭礼でした
本殿 表参道から

300mほど先で左の狭い道路に入る。住宅の中を100mほど進むと右側に式内縣社、姉崎神社と刻まれた大きな石柱が建っており、前方300mほどにうっそうとした小高い明神山の森が見える。新道を横切り、大鳥居を二つくぐると石段がある。石段を登り切ったところに姉崎神社が鎮座している。

姉崎神社は「延書式」に記された古社、社伝によれば、日本武尊が東征に下ったとき、いまの東京湾で風雨の難に遇ったが、無事上陸できたことを謝し、この地に風神を祀ったのが始まりという。また治承4年(1180年)には源頼朝が当社前で矢を閲し源氏再興の祈願をして以来、流鏑馬の神事が行われたと伝わる。

姉崎神社をあとに房総往還にもどる。十字路から100mほど市街を進むと左にJR姉ヶ崎駅がみえる。駅入口をすぎ300mほどで往還はやや左に曲がり信号がある。


妙経寺山門

本堂

信号を左折し100mほどの左側に一乗山を号する日蓮宗の妙経寺がある。妙経寺の入口の左側には高さ248cmの題目塔がある。妙経寺は寛正元年(1460年)僧日暁目映の開基といわれる。

徳川光国が甲寅紀行の中で妙経寺に宿泊した時のことが書かれている。甲寅は延宝2年(1674年)にあたる。4月27日の旅日記に「遂二姉ヶ崎の妙経寺ニ至テ宿ス。此寺ハ妙満寺ノ末ナリ。古ハ真言宗ナリシニ、日暁此寺ニ居テヨリ法華宗トナル。ソレヨリ以降一百二十三年二及べり。日蓮自筆ノ蔓陀羅アリ。長一尺余ナリ。御当家四代ノ御朱印四通アリ(略)二八日辰刻二姉ヶ崎ヲ出、静村ニカカル。(略)」静村とは現在の椎津村のことであろうか。


市兵衛の墓碑

市兵衛顕彰碑

市兵衛の墓

境内の墓地には「おたけ騒動」にかかわる義僕市兵衛の墓がある。
「おたけ騒動」とは元禄8年(1695年)8月に、当時、猪・鹿の被害に困っており姉崎村等七力村の名主たちが相談して猪・鹿狩りをしたが、深城村の九左衛門の妻おたけを鹿とまちかえて射ってしまった。その責任をとって配流となった主人の名主家で働いていた市兵衛は、主人の家族に尽くすと共に、主人の身代わりになるために江戸まで何度も足を運び嘆願したのである。市兵衛の誠意は通じ、ついに宝永3年(1706年)5月、主人たちは許されたというのである。市兵衛のことは江戸時代以来刊本となり、戦前の小学校教科書にも取り上げられていた(市原の歴史と文化財)。


孝子五郎の墓

義士の墓
 
海軍兵士の墓

このほか、明治23年に東京湾で天候急変により遭難した海軍兵士の墓、また母に孝養をつくした孝子五郎の墓などがある。


姉崎小学校
(鶴牧藩校跡)

鶴牧藩校跡碑 
 
藩校跡碑

妙経寺をあとに房総往還にもどると、まもなく姉崎本町バス停である。バス停を過ぎて100mほどの左側に姉崎小学校入口と書かれている。左折すると狭い通学路が住宅地の中を続いている。100mほど進むと大手橋がある。コンクリートの短い橋で昭和35年竣工とある。橋を過ぎると100m前方に姉崎小学校が道をへだてて見える。小学校へ向かって右側の土手の上には空地があり、白い標識柱(無し)に修来館(藩校跡)とある。

文政10年(1827年)、安房北条藩の水野忠韻は居所を椎津に移し、藩領一万五千石をもって鶴牧藩を立藩、その藩庁(陣屋)が今の柿崎小学校の校地にあった。

現在に至っては、当時を偲ぶものは少ないが、茶ノ木、外郭、五霊台、竹の越、要害道など城下町特有の地名が残っている。


稲荷神社

当日は祭礼でした

境内の力石

鶴牧藩庁跡をあとに房総往還にもどる。姉崎小学校入口のところから南へ市街を300m進むと右側に稲荷大明神がある。鳥居のすぐ脇に大きな力石が無造作に置かれている。5つほどあり、その一つには35貰とある。


八坂神社・鳥居

拝殿

扁額
 
山王系庚申塔

大イチョウ

100m程行くと椎津宮下バス停がある。バス停を過ぎたすぐ左側に八坂神社の鳥居が見える。4、5段の石段をあがると境内が広がる。八坂神社は建速須佐之男命を奉祀している。由緒には、日本武尊東征時に東夷鎮撫の祈願をしたと伝えられ、また高倉天皇の御代には源頼朝公より武運長久を祈願し木製の獅子を寄進したと伝えられる。境内のほぼ中央には樹齢約700年といわれる大銀杏があり古来から御神木として崇められてきた。

また社殿の前にはけやきの大木が3本ほどあるが、その木のもとに、延宝2年(1674年)の山王系庚申塔がある。


椎津城址
(八坂神社から)

椎津城址
(房総往還から)
 
椎津城絵図

八坂神社の裏山が椎津城跡で通称「城山」と呼ぶ。築城者は不詳であるが「千葉大系図」に椎津三郎の名が見える。天文7年(1538年)以降は真里谷武田氏の拠点となった。その後、里見氏が支配したが、北条氏政によって改められ、また天正18年(1590年)徳川軍よって椎津城は落城したとある(市原の歴史と文化財)。


端安寺

道標

庚申塔・馬頭観音

鶴牧藩・五士の墓

石碑

八坂神社をあとになおも200mほど進むと右側に浄土宗端安寺がある。端安寺の入口左側には「文殊菩薩霊場 端安寺」と刻まれた石柱がある。右側には「西国・坂東、秩父百番札所」と刻まれた道標がある。入口から本堂に向かって左側には立派な文殊堂が建てられている。入口に近いところには、戊辰戦争のおり、鶴牧藩の藩論を無視して義軍に参加し戦死した五士の石碑がある。以前は小さな墓石であったが最近立派な石碑にかえられたという。今でも線香の煙が絶えないとの事である。端安寺をあとに200mほど進むと別荘したであり、工業地帯の遠くを走っていた国道16号線が房総往還にずっと近づいて来る。

                     姉ヶ崎から岩根へ