千葉の歴史の道 房総往還を歩く



 八幡宿から五井まで

 JR八幡宿駅→飯香岡八幡宮圓頓寺無量寺→猿他彦神社満蔵寺→白幡神社→金杉橋→庚申塔→白旗神社→六地蔵→
 若宮神社→JR五井駅(陣屋跡)・・バス移動・・市原国分尼寺・国分寺・国分寺跡・・バス移動・・JR五井駅


 

満徳寺を過ぎ、JR八幡宿駅へ通じる十字路の右手前方に飯香岡八幡宮の白い鳥居が見える。街道わきにあるこの鳥居は高さ7〜8mはあろうか、一国一社の風格にふさわしい姿を感じさせる。しかしここは、八幡宮の東の参道にあたり表参道は、国道16号へ通じる道を約200m行き、左折したところにある。

八幡宿駅側の鳥居 拝殿 神楽殿
頼朝由来・さかさ銀杏
手水岩

銀杏その他の巨木のうっそうとした中に鎮座する八幡宮は本殿を海の方に向けているが、現在は鳥居の前の松並木も打ち寄せる波の姿も見られず、遠浅の海岸は埋め立てられ・産業道路が走り、大工場が並んでいて、昔の海の姿は想像さえできない。


一の鳥居(権現鳥居)


飯香岡八幡宮は、白鳳4年の創建といわれる。神社縁起によれば、この地は古来御影山と称し、六所御影神社が鏡座し、上総国府が市原に置かれたとき、天武天皇675年一国一社の国府八幡宮が勧請されたという。


一の鳥居・扁額

手水岩
 
夫婦イチョウ

祭神は、息長帯姫尊(おきながたらしひめのみこと)、神功皇后(じんぐうこうごう)、誉田別尊玉依姫尊( ほんだわけのみこと たまよりひめ)で、本殿は国の重要文化財に指定されている。八幡宮はこれまで市原八幡宮・八幡大神宮、国府惣社八幡宮などと呼ばれてきた。社名の由来は、日本式尊に六所影神社(当地は古来御影山と呼ばれてきた)の社人が夕飯を捧げたところ・飯のよい香りがしたことに因むという。「石清水八幡宮文書」によれば、保元3年(1160年)12月3日付官宣旨に宮寺領として「上総国市原別宮」とあり、国府八幡宮として石清水八幡宮との関係を保っていたことがわかる。八幡宮は特に武家の尊崇が篤く、源頼朝は治承知4年(1180年に150町の社領を、文治年(1189年)には甲冑一領、太刀一振をそれぞれ寄進した。また足利義満も神輿4墓を寄進、申膏、神輿それぞれ市文化財に指定された。
徳川家康は天正19年(1591年)11月に150石の朱印地を寄進し、また翌年には、武運長久祈願のため大太刀「現存し市指定文化財」を奉納している。大太刀は全長163
cmであり、太刀の銘文には「(表)上総国市原庄八幡宮奉寄進者也、天正廿李壬辰八月十五日、本多弥八郎正綱(裏)九大納言家康卿武運長久持者今度 唐人早速御開陣丹誠小品依如伴」とある。この銘文からみると本多弥八郎正綱が大納言徳川家康の武運長久を祈って飯香岡八幡宮に寄進したものであり、「元禄十二年八幡宮由来本記」によれば刀工は平井和泉守とある。飯香岡八幡宮では大太刀を御神刀とし、大祭の日には一宮の神輿の前に供えている。
(市原市の指定文化財、市原市教委発行 昭55・3)



祭りの様子

(2010年秋)

逆さイチョウ

逆さイチョウ

 道標

拝殿は、県指定文化財であり、権現造の形式をもち元禄4年(1691年)に再建されている。その他境内には、社殿の右側に県の天然記念物に指定されている御神木の夫婦銀杏がある。八幡宮勧請の日、勅使季満卿が「君がため今日植ゑ添えし銀杏に、幾世経んとも神やどるらん」と献詠して植えた記念樹と伝えられ、落合直亮の筆による歌碑が樹下にある。また社殿の左側には、源頼朝が下総の千葉常胤を訪ねる途中ここに参詣し、神田150町歩を寄進するとともに、公孫樹をさかさに植えて「この木もし活着せば大願成就せん」と源氏再興を祈願したといわれる倒公孫樹がある。また、その近くに寛文2年(1662年)の手水石がある


川上先生像

菅野儀作像

楠原三之助像

また南洞を号し、明治31年、八幡に千葉県皇典講究所普通学郡(昭和2年南総中等学校と改名)を設立し、自らの私財を投じ、向学心のある子弟のために「虚学を避けて実学を重んじ、死智を疎んじて活識を養ひ、独立自営の中等国民を作る」方針のもとに教育に専念した川上規矩の銅像がある。南総学校は昭和19年3月廃校、現在は市原市教育センターとなったが、直木賞作家立野信之も、この学校で川上校長の薫陶を受けた一人である(市原市史別巻)、立野信之の文学碑は昭和52年同境内地に建てられた。
近年、八幡宮内で、絵馬が多く発見され、葛飾北斎の弟子である北寿の作ではないかと話題を呼んでいる。


圓頓寺

本堂

房総往還側の鳥居の先にはJR八幡宿駅が見える。駅前の整備計画でロータリーが出来、利用客にとっても便利になってきた。往還をさらに進むと100mほどで左側に浜野本行寺の末寺で泰唐山を号する日蓮宗圓頓寺がある。

境内に入っていくと本堂の正面に「南無妙法蓮華経法界」、わきに「泰唐山園頼寺七里法花開基日泰聖人閑居之霊場也」と刻む題目塔がある。

 
無量寺山門

本堂とムクロジノの木

馬加康胤親子の供養塔

房総往還は150mほどで、三叉路に出る。直進する道が房総往還で、左折する道が伊南房州道往還であり、八幡宿からの起点となる。
三叉路には道標があったが、現在は飯香岡八幡宮の境内に置かれている。三叉路を左折せずに房総往還を50
mほど行くと右手に信楽山無量寺がある。八幡宿南新田にあり、生実の浄土守大巌寺の末寺である。
境内墓地には
戦国時代の武将で千葉氏宗家を滅ぼした馬加康胤(まくわり・やすたね)及び息子の胤持(たねもち)親子の供養塔がある。

 
猿田彦神社
 
猿田彦神社
馬頭観音

海蔵寺

神明宮

五所共同墓地・三山塚

水路を横切ると、国道297号線と交差する十字路に出る。この十字路を右折し、30mほどの左折に猿他彦神社がある。境内には小堂が建てられ高さ120cmあまりの庚申塔、台石に馬頭を浮きぼりにした馬頭観音がある。

房総往還にもどったところは埋め立て入口バス停がある。そこから右手に食料品店やブックセンターを経て、やや右に曲がると、房総往還はほぼ真っ直ぐになる。住宅の並ぶ中左側奥に五所共同墓地がある。共同墓地には羽黒三山人由緒書きがある。400mほど進み、五所バス停を100mすぎると左側に大宮山を号する真言宗満蔵寺がある。府中釈蔵院の末寺である。

 
三山の由来
 
御所縁の白幡神社

御所由来の碑
 
碑の拡大

往還をさらに直進すると300mほどで、金杉橋バス停である。金杉川の川幅は狭く、川というほどのものではないが、橋はコンクリートでしっかりしたものである。この橋の手前の右側には、足利義明の八幡御所(現在は五所という)の跡がある。生実城の原氏と領地境界でたびたび争っていた真里谷城の武田信興は、幼時から愛用し、しかも家格、門閥にすぐれた奥州の義明(当時空然といい、推定15才)を迎え、宿敵原氏を一挙に葬ろうとした。そのため八幡南部の房州街道ぞいの交通の要所に義明の八幡御所をつくり、原氏に睨みをきかせたといわれる。八幡御所の跡について落合忠一氏は、五所金杉の今井虎衛氏宅(五所1746番地)を想定している(市原のあゆみ)。現在のジョイフルホンダの東南に位置する。

 
現在の金杉橋
 
八幡御所跡の図
金杉橋から

庚申塔

金杉橋左側奥

金杉橋をわたりすぐ左折し10mほど行くと道の左側に庚申塔がある。

房総往還にもどり、平坦で真っ直ぐな道を200mほど行くと白金一丁目のバス停である。付近には、商店や住宅が並んでいる。


白幡神社・鳥居

白幡神社

往還をやや左に曲がりながら250m進むと君塚バス停である。バス停を通り過ぎ用水路の橋を越え左折して住宅地に入って行く100mほどで左側に白旗神社の鳥居が見える。100坪ほどの境内は草が多く、どこに社殿があるかわからないほどであるが、境内に入ると木の陰にかくれるようにして東方を向いた社殿が鎮座している。祭神は、日本武尊また古大将頼朝である。

伝承によれば、当地ははじめ「武の郷」と呼ばれ、日本武尊を祀る武の塚神社があったが、頼朝が戦勝を祈願して白旗を奉納して以後、白旗神社になったという(市原郡刊誌)。また「君塚」の地名の由来については、治承4年(1180年)源頼朝が安房を経て上総のこの地で千葉介常胤の出迎えを受けたことを喜び、「喜見塚」と呼ばれ、それが君塚になったと伝えられている(上総国町村誌)。

白旗神社をあとに房総往還にもどる。やはり平坦な道を南へ進む。相変わらず住宅や自動車修理工場、飲食店などが街道ぞいに並んでいるが、水田なども見えてくる。

水路を渡り十字路を左折してすぐ左側に立派な三山塚がある。


羽黒三山塚

約400m進むと神崎の変電所と臨海工業地帯の工場とを結ぶ高圧線の下を通りぬけ、波渕の十字路に出る。房総往還の右側の八幡新田線(八幡と五井を結ぶ道路)とJR線の陸橋を越え市原市役所へ通ずる一号線との交差点である。市原市役所は、昭和47年まで現在、五井にあるイトーヨーカドーの場所にあったが手狭であったため、昭和47年11月、現在の国分寺台に移転している。そのため市役所周辺には、市民会館、消防署、市議会、小中学校等の建設がすすみ、人口の社会増とともに、古代遺跡の宝庫ともいうべき国分寺台の宅地化が急速に進んでいる状況である。


波渕・六地蔵

若宮神社・鳥居

若宮神社拝殿

ほとんど勾配のない道をやや右へ曲がりながら200mほど進むと、波渕のバス停があり、そこで大きく左へ曲がる。曲がり角の右側に小堂があり、中に高さ約130cmの六地蔵が安置され、その前には果物、花、寮銭が置かれている。バス停の近くでもあり、多くの信仰を集めているとのこと。梵字は見られるが、年号や銘文等は不明である。以前は現在地ではなく、2mほど右側に野ざらしの状態にあったが、昭和23年に房総往還に結ぶ道路の拡張により、角にあたる鹿嶋家の一角を借りて移転し、小堂を建て安置したという。形態からみて江戸中期頃のものと考えられる。

房総往還は六地蔵から左へ大きくカーブすると100mほどで右へ大きくカーブし五井市街の目抜き通りに出る。五井に限らず八幡宿にも見られるが、宿場の出入ロは大きなカーブを描いていることが多い。鉤形や几といったような城の形が多く古来より軍事的、防衛的なねらいがあったものと推察できるものである。五井は宿場の出入口が鉤の形である。

史跡上総国分尼寺跡展示館
上総国分尼寺跡に建てられたガイダンス施設です。この建物では史跡の見学に先立ち、映像や模型・レプリカ・出土遺物・パネルなどの展示により、仏教がインドで起こり日本へ伝播したこと、そして国分寺が造られるようになった時代背景や史跡の内容・特徴などを分かりやすく紹介しています。


展示館全景


全景ジオラマ

墨書土器

金光明最勝王経

金光明最勝王経
上総国分尼寺の復元模型(直径4.5m)を組み込んだ解説のパートでは、液晶ガラスの瞬間的透過により模型と野外の中門・回廊復元建物を直接比較できるようになっています。

スクリーンに

上総国分尼寺跡・上総国分寺・上総国分寺跡

JR内房線五井駅東口より小湊鉄道バス国分寺台行き・山倉こどもの国行き等にて「市原市役所」下車、徒歩10分

上総国分尼寺跡(かずさこくぶんにじあと)
千葉県市原市にある古代寺院跡である。奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち上総国国分尼寺の寺院跡にあたり、国の史跡に指定されている。


全景(中門復元)

中門(復元)

中門(復元)

中庭(復元)

回廊(復元)


回廊(復元)

養老川北岸の台地上に所在する。南西方には上総国分寺跡があるほか、周辺には古墳・遺跡や瓦の窯跡が多く確認されている。国分寺同様、伽藍は大きく2期の造営時期が確認され、国分寺と同一計画で進められたと考えられている。また現在明らかな諸国国分尼寺の中で、1期目の寺域は最大である。


天平の甍
金堂(基壇のみ復元)

甎(せん)(復元)
瓦の一種、基壇に使用
 
鐘楼跡

中門が5年度に復元公開され、そして中門と金堂を結ぶ復元回廊が、平成9年度装いも新たに現代によみがえりました。また、その一角には史跡上総国分尼寺跡展示館平成5年7月に開館されている。


上総国分寺(かずさこくぶんじ)
千葉県市原市にある真言宗豊山派の寺院で山号は医王山、院号は清浄院、本尊は薬師如来である。

奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、上総国国分寺の後継寺院にあたる。本堂は江戸時代中期に建立され300年の歴史がある。
仁王門は、江戸時代中頃の建立。これら薬師堂・仁王門は市の文化財に指定されている。また、仁王門内の金剛力士像はそれぞれ、阿形は南北朝時代、吽形は江戸時代の作で、いずれも市の文化財に指定されている。


山門

本堂
 
将門塔
本堂の欄間には3代目波の伊八の彫刻がある。ご住職のご厚意により本堂の欄間と薬師堂の厨子を拝観させていただいた。欄間の表面の彫刻は儒教の教えによる「親孝行」の郭巨・呉孟の話が彫られている。裏面はそれぞれ龍と虎が彫られているが未完成である。ご住職の話では「当時の事で良くはわからないが、何かのっぴきならない事態が起き、帰りそのままになっているのではないか」との事であった。珍しいものである。
境内には「将門塔」として応安5年(1372年)造営とされる宝篋印塔が立っており、市の文化財に指定されている。

波の伊八
二十四孝 郭巨

郭巨の裏面
龍(未完成)

波の伊八
二十四孝 呉孟

呉孟の裏面
虎(未完成)

薬師堂は、江戸時代の正徳6年(1716年)に建立。堂内の厨子に本尊が安置されている。


薬師堂

厨子(拝殿から)
 
厨子
 
天井画(天女)

上総国分寺跡(かずさこくぶんじあと

左端に中門跡、右端に塔跡があり、中央奥が金堂跡で現国分寺境内と重複している。周囲に谷や古墳があるため寺域は四角形ではない。


西門跡
 
七重塔跡

金堂跡

遠景・薬師堂

南北478m、東西は北辺:254m・中央:345m・南辺:299m、面積は139,000㎡に及ぶ(武蔵・下野に次ぐ大きさ)。主要な伽藍地は南北219m、東西194mで、大官大寺式の伽藍配置である。

伽藍は大きく期の造営時期が確認され、期目は仮設的意味合いが強い。旧国分寺は応永年間頃まで存続が確認されている。


七重塔(復元ジオラマ)
市原市役所ロビー

なお、千葉県立中央博物館内に当時の復元予想模型が、市原市役所内に塔の復元予想模型がある。


更級日記の話
「更級日記」の冒頭部分は市原から京都へ向かう時から始まっている。五井の駅前(東口)にはモニュメントが
建てられ通りも「更級通り」とつけられている。


孝標の女(むすめ)像

孝標の女(むすめ)像

奈良・平安時代に市原には上総の国の国府が置かれ、都(京都)から国司が赴任して国政を司っていた。「更級日記」の作者「菅原孝標(すがわらのたかすえ)の女(むすめ)」は、上総介として赴任してきた父孝標や家族と共に夢多き少女時代の4年間を市原の地で過ごした。更級日記の内容は、作者が13歳の年から52、3歳の年まで、およそ40」年間の自己の人生を回想的に綴った自叙伝となっている。少女時代の、『源氏物語』や様々な物語の世界へのあこがれが、宮仕え・結婚・二児の母などの現実の厳しさを経るうちに、信仰生活に傾き、最後は彼岸へと夢を託した。この冒頭部分の旅立ちの記述が市原から京都へ向かう時の気持ちが書かれている。

菅原孝標(すがわら の たかすえ の むすめ、寛弘5年(1008年)~ 康平2年(1059年) 以降?)は、平安時代の貴族の女性。本名は伝わっていない。

原文
東路の道の果てよりも、なほ奥つ方に生ひ出でたる人、いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思ひ始めけることにか、世の中に物語といふもののあなるを、いかで 見 ばやと思ひつつ、つれづれなる昼間、よひゐなどに、姉、継母などやうの人々の、その物語、かの物語、光源氏のあるやうなど、ところどころ語るを聞くに、いとどゆかしさまされど、わが思ふままに、そらにいかでかおぼえ語らむ。
いみじく心もとなきままに、等身に薬師仏を造りて、手洗ひなどして、ひとまにみそかに入りつつ、「京にとく上げたまひて、物語の多く候ふなる、ある限り見せたまへ。」と、身を捨てて額をつき、祈りまうすほどに、十三になる年、上らむとて、九月(ながつき)三日門出して、いまたちといふ所に移る。
年ごろ 遊び慣れつる所を、あらはにこほち散らして、立ち騒ぎて、日の入り際の、いとすごく霧り渡りたるに、車に乗るとてうち見やりたれば、ひとまには参りつつ額をつきし薬師仏の立ちたまへるを、見捨てたてまつる悲しくて、人知れずうち泣かれぬ。


現代語訳(口語訳)
京都から東国へ向かう道の果てよりも、もっと奥の方で育った人(作者自身)は、(今思うと)どれほどまあ(田舎っぽくて)見苦しかっただろうに、どうして(そのようなことを)思い始めたのか、世の中に物語というものがあるそうだが、どうにかして見てみたいと思い続けて、手持ち無沙汰な昼間や宵の団欒のときなどに、姉や継母などが、その物語、あの物語、光源氏の様子などについて、あれこれ語っているのを耳にしていると、ますます知りたいという思いがつのるのだが、私が望むように、(姉や継母が物語を)何も見ないでどうして(思い出して)語ってくれようか、いや語ってくれはしない。
とてもじれったいので、人と同じ大きさの薬師仏を作って、手を洗い清めるなどして、人目のないときにひそかに(その薬師仏をおいた部屋に)入っては、
「(私を)京都に早く上らせてくださって、たくさんあると聞く物語を、この世にある限りお見せくださいませ。」と身を捨てて額をつけてお祈り申し上げていたところ、13歳になる年に、都に行くことになって、9月3日に門出(の儀式)をして、いまたちという場所に移る。
長年遊びなれた家を、丸見えになるほど乱雑に壊して、大騒ぎをし、日が暮れる頃で、とても物寂しく辺り一面が霧でたちこめているときに、牛車に乗るということで(家の方に)目を向けたところ、人目のないときに何度もお参りしては、額をついてお祈りしていた薬師仏が(残されて)立っていらっしゃるのを、お見捨て申し上げていくのが悲しくて、人知れず泣けてくるのであった。


                      五井から姉崎へ