千葉の歴史の道 房総往還を歩く



 浜野から八幡宿まで

 JR浜野駅→慰霊碑(青面金剛像)→村田川公園→村田川渡し場跡→泉福寺→村田橋→庚申塔→新村田橋→白山神社→称念寺→
 満徳寺→足利義明夫妻墓所→JR八幡宿駅


 

本行寺の南付近、宇田町の三叉路を左折すれば伊南房州通往還、直進が房総往還である。

まもなく右に大きくカーブし、郵便局、商店、アパート等の家並みを250m進むとT字路に出る。右折すれば生浜高校を経て蘇我陸橋に達する。房総往還は左折する。浜野南町バス停付近を200mほど南進すると十字路にでる。
ここは国道16号(産業道路)と東金、茂原街道を結ぶ道と交差している。そこをさらに南進する。房総往還の左側は住宅街、右側は自動車販売店、鉄工所等が並んでいる。房総往還は海岸付近に沿って南下しているが、昭和34年以降の京葉工業地帯の造成にともない、海岸の埋め立てと、国道16号の整備、製鉄・造船、化学等の大工場が立地され、昔日の面影はない。
房総往還は左右に蛇行しながら400
mほど進むと、右は国道16号線、左は伊南房州通往還さらに東関東自動浜野入口とを結ぶ道と交差する。交差点をさらに50m南進すると村田橋のバス停である。


村田川水難死者
慰霊碑(青面金剛像)

渡し場跡

村田川公園

村田川(下流方向)

旧村田川は、現在は埋め立てられて下流の新村田川の堤まで約300mが公園となり、ブランコ、すべり台が設けられて市民の憩いの場となっている。
村田川は、位置からみて上総、下総二国の境界をなすところから境川とも呼ばれ、古くから南房総への交通の要所であった。明治20年頃まで船による渡しがあり、古来探房の文人・墨客、兵馬等、身分の上下を問わず渡し賃を払い、川を越したという。甲寅紀行には、水戸黄門が船で渡った、また俳人小林一茶も往復している。
庚正1年(1455年)千葉宗家を倒した、十七代康胤は、同じく千葉一族の東常縁(とうつねより)に馬加城を攻められ、千葉〈猪鼻)に退却、翌庚正二年、さらに常緑に攻められ村田川付近の戦いで討死する。その首級(しるし:敵の首を取ると一階級上がる)は村田川の川岸に晒されたという。


泉福寺

天羽翁の碑

天羽翁の碑

公園と住宅地の中の狭い道を100mほど進むと、村田町の通称向町に神明山泉福寺がある。泉福寺は永正3年(1506年)本行寺日泰上人の弟子日眼の創立で、十界勧請の大曼荼羅を本尊としている。

以前は顕本法華宗であったが、昭和39年に日蓮宗となった。

元来は村社神明宮(神明神社)の別当であったので神明山と号した。前述の神明神社の棟札には当時の泉福寺の僧名が誌してあるという。また、同境内にある日譲の碑については泉福寺の23世にあたる。詩、書の妙に達し人格にすぐれ名声が高く、寺子屋にて村童の教育にあたったという。泉福寺境内は1221uである。村田川下流域の蛇行改修が昭和25頃行われたが、その際、泉福寺は南西方へ移動している。

再び房総往還に戻る。村田橋のバス停を過ぎると、旧村田川付近の柱にこれより「市原市」の案内板が目に入る。往還の道路の傍らに、真新しくきちんと安置された庚申塔がある。青面金剛尊で、新村田橋の袂にあったもを現在地に移動したものである。

200m南進すると新村田橋である。村田川はゆっくりと北方へ蛇行しながら東京湾に向かって流れている。さらに300mほど進むと十字路に出る。さらに直進し、やや左へ曲がりながら300mほど進むと観音町であり、八幡宿へ入る。

 
庚申塔

庚申塔(道標)

八幡の地名は飯香岡八幡宮に由来する。江戸期に入ると徳川家康の支配下に入り、中期は八幡藩領となっている。八幡藩は寛文年間夷隅郡刈谷の堀直良が当地に陣屋を移して立藩したが、元禄11年廃藩、のち貞享3年(1688年)、大久保忠高が八幡字仲町に陣屋を置いたと伝えている.

 
往還側(東側)鳥居

飯香岡八幡宮・拝殿
(修繕前)

飯香岡八幡宮・拝殿
(修繕後

房総往還の駅場として栄え、盆暮には市もたった。特に江戸期から船(五大力船)による江戸との物資の流通が盛んとなり、八幡浜本海岸はその集散地として栄え、米穀、薪炭、雑貨品などを取扱う商品が往還ぞいに建ち並び賑わいを見せたという。八幡港が最も物資の集散が多く、ついで姉崎、五井などで、今津、青柳、椎津にも寄港し、明治期を最盛期として昭和に入り、トラック輸送や鉄道の開通により姿を消した。


称念寺・山門

題目塔

笠付題目塔

称念寺本堂

天燈鬼・龍燈鬼像

菊間出道バス停の近く、街道の右手約100mのところに浄土宗称念寺がある。山門に向かい左側に南無阿弥陀仏と刻まれた高さ217cmほどの題目塔がある。もとは房総往還の本寺入口にあったが、道が狭いため現在地に移転した称念寺は明治年間に度重なる火災に見舞われ本尊の阿弥陀如来、聖観世音菩薩の両尊像と鐘楼堂を残しすべて焼失したが現在は本堂等が再建されている。

山門に向かい左側に南無阿弥陀仏と刻まれた高さ217cmほどの題目塔がある。銘文に「大巌寺虎角上人草創道場」とあり、生実の大厳寺の末寺であり、大巌寺二世の安誉虎角上人が開山したといわれる。虎角上人は徳川家康とも親交があったといわれ、特に房総地方の寺院の創建、復興に功績があり、のち知恩院32世となった人物である。

本堂前には仏前を照らす「天燈鬼」「龍燈鬼」像がある。

鎌倉時代再興期の西金堂須弥壇(しゅみだん)に安置されていた像で、四天王(してんのう)像に踏みつけられる邪鬼(じゃき)を独立させ、仏前を照らす役目を与えたものです。天燈鬼(てんとうき)像は2本の角と3つの目を持ち、口を大きく開き、やや横目で前方をにらみ、左肩に乗せた燈籠(とうろう)を左手で支えます。龍燈鬼(りゅうとうき)は腹の前で、左手で右手の手首を握り、右手は上半身に着いた龍の尻尾をつかみ、頭上に乗せた灯篭を上目遣いに睨みます。これは興福寺の木造を模して造られたものである。


満徳寺

本堂
 
不動堂

不動明王像 

五輪塔

房総往還にもどり、まもなく菊間出道を左に見ながら、狭い宿内を直進する。200mほどで八幡仲町バス停があり、さらに150mで、JR八幡宿と国道16六号線が交差する十字路に出る。
その十字路手前の左側に満徳寺がある。山門は100mほど入ったところにあるが、街道からの入口のところに「南無遍照金剛」と刻まれた高さ101cmの大師講文字塔がある。右わきに「天明四年龍口申辰三月廿一日」とある。山門を入ると左側に不動堂があり、中に高さ155cmの不動明王像が祀られている。年号は寛文丙壬年とある。「市原のあゆみ」には、この石造不動明王像は足利義明の冥福を祈るために造仏されたと伝えている。
満徳寺は、飯香岡八幡宮の別当
寺である霊応寺(明治3年俳仏毀釈のため廃寺)の首座末寺で、現在は満徳寺を残すのみである。本尊は大日如来である。、


足利 義明夫妻墓所

墓所案内板

満徳寺から見て、ちょうどJR内房線八幡宿駅の反対側(東側約500m)に、御重堂とよばれる墓地がある。その基地内に足利義明夫妻と伝えられている五輪塔二墓がある。(市原の歴史と文化財 市原市教委発行)

古河公方足利政氏の二男義明は、真里谷武田氏に迎えられ、はじめ五所(八幡御所)のち小弓(千葉市)に移り、勢いを強めようとしていたが、天文7年(1538年)、第一次国府台合戦で、小田原北条軍に敗れ戦死、遺骸は家臣によって、小弓御所に運ばれたが、同所で自刃した夫人の遺骸とともに、八幡霊応寺(今は廃寺)の境内に葬られた。家臣は墓のそばに御墓堂を建て夫妻の冥福を祈ったという。現在もこのあたりを御墓堂(地元では「みはくどと」呼ぶ)と呼んでいる。向かって右側の塔の高さ1.58mであり、左側の塔の高さ1.41mである。右側の塔の火輪は退化型をなし室町後期の特徴を示し、時代的には一致するが、左側は南北朝まで遡る可能性がある(谷島一馬氏)という。

右側の塔【五輪塔の形式は、石造では、下から、地輪は方形(六面体)、水輪は球形、火輪は宝形(ほうぎょう)屋根型、風輪は半球形、空輪は宝珠型によって表される】の火輪は退化型をなし室町後期の特徴を示し、時代的には一致するが、左側は南北朝までさかのぼる可能性がある(谷島一馬氏)という。

御墓堂は、平成5年5月に八幡宿駅東口駅前の土地区画整理事業が決定し、12年3月に現在地に完成した



                   八幡宿から五井へ