千葉の歴史の道 房総往還を歩く



 君待橋から浜野まで

JR本千葉駅→君待橋(現在)→白幡神社→神明神社→国道357号→大橋→君待橋跡碑→厳島神社寒川神社→稲荷神社→福正寺→
今井神社→道標→小河原
所→蘇我比畔神社→陣屋→天満宮→諏訪神社→本行寺→浜御蔵跡→JR浜野駅


 

JR本千葉駅の改札を出た前の通りが房総往還である。本千葉駅西口を出て君待橋交差点を渡り15m行くと現在の君待橋がある。

君待橋から500mほどで交差点を渡って左側に白幡神社見える。白幡神社は治承4年(1180年)9月17日、千葉常胤は源頼朝の挙兵に応じ一族とともに安房から北上した源頼朝を寒川の橋(君待矯)で出迎えた。このとき頼朝が、結城稲荷に源氏の白旗を建てて戦勝祈願したところから、以後、源氏の守護神である誉田別命(ほんだわけのみこと)を祀り、白旗大明神とよばれるようになった。


神明神社拝殿

白幡神社から200mほど南下すると千葉常重が大治元年(1126年)に猪鼻城を築いたとき、城下町の西方の守護神として安置した神明神社がある。「千学集抄」には、「結城の神明」と記されている。

JR本千葉駅から約200m進むと、登戸から新宿、寒川、浜野へ行く旧道に出る。

稲毛から黒砂・登戸へ通ずる海岸道路(東京街道)は、明治19年(1886年)に2代目県令、船越衛が、千葉監獄の囚人を使って新設した東京街道である。

昭和39年5月から埋め立て工事が開始された中央地区(約600万uが広がる。国道16号は、昭和30年に国庫支出により幅7mの行政協定道路として出来たものであり、それ以前は、右手一帯はきれいな登戸浦(現在の登戸)黒砂、稲毛へと続く砂浜であったという。


広重作・登戸浦

黒砂海岸(明治)

海水浴風景(昭和)

江戸時代の登戸浦は、ここから江戸へは10里あり、幕府お定めの廻米運役百石につき一石一斗という湊であった。伸びとにある登戸神社の前身は、白蛇山真光院定胤寺といわれ、正保元年(1644年)9月、千葉氏の末孫、登戸権之介平定胤が先祖を供養するために、千葉妙見寺(現在の干葉神社)の末寺として建立し、憎定弁に守護させたと伝えられている。明治初年の神仏分離令のとき寺を廃し、祭神を天御中主命、高皇産霊尊、神皇室産霊尊の三柱とした。

黒砂の地名については天慶3年(940年)に平将門が滅亡したとき、将門方の人々が臼井城から逃れてこの地に土着し、その肥沃な土地を示す黒土が黒砂になったともいう。

国道356号にかかる寒川大橋あたりは、旧寒川港である。江戸時代、千葉市内にあった港は、検見川、登戸、寒川、曽我野、浜野で、中でも寒川港は佐倉藩の御用港として重要視された。明治になると、湊の御米蔵は空家となったが、明治7年(1874年)2月3日に千葉町の大日寺境内にあった仮監獄所が火災で焼失したため、ここを千葉監獄とした。明治35年(1902年)に監獄は貝塚町に移転され、跡地に千葉ガス会社が設立、今は東京ガスのタンクになっている。

君待橋碑  
君待橋碑(友納知事)

君待橋碑

寒川大橋をわたると、稲毛から穴川に出て、椿森から院内、本町、市場町を経てこの道にいたる江戸街道(房総街道)と交差する。ここに「君待橋跡碑」があり、昭和44年3月まで「新川」とよばれる小さな構(旧運河)があり、そこに架けられた石橋を「君待橋」とよばれていた。


厳島神社

拝殿

お穴

旧道に戻り湊町交差点から200m先の右側に厳島神社港町弁財天がある。

縁起によると、江戸時代、寒川村の半農半漁を生業とする村人たちが、豊饒多産の福徳を願って小祠を立て、弁天様を祀ったのが始まりであるという。奥に俗に「お穴」と称する洞窟、樹木、池、滝など弁財天の眷族(けんぞく:龍神、龍王、天狗、稲荷、蛇が存在する。龍神が眷属として一番上)の蛇が棲息しやすい環境の神域がある。


寒川神社

寒川神社・拝殿

寒川神社・獅子頭
由来案内板

ここから旧道を400mほど行くと、左手に天照皇大神、脇柱に寒川比売命、寒川比売命と の三神を祭神とする寒川神社がある。この神社は寒川の総鎮守で沖を通る船舶は、礼帆といって帆をなかば下げて航行し、また、社前を乗馬で通行する者は、必ず下馬して敬意を表わすことを常にしたと使えられている。


道標(正面)

道標(往還に向かって)
 
千葉寺山門
 
千葉寺本堂

寒川神社から約600m行くと、左手に延享2年(1745年)2月16日造立の道標(がある。正面には、「奉造立南無庚申尊」とあり左側面に「右ハかつさみち、左ハちばてら道」と刻まれている。


稲荷神社

稲荷神社・拝殿
 
甘藷澱粉聖堂発祥の地
記念碑

この道標から300mほど進むと、左手に稲倉魂命を祭神とする稲荷神社がある。この神社は、千葉常重が大治元年(1126年)に猪鼻城に居館を構えたとき、城下町の裏鬼門よけの守護神として崇拝したといわれる。

左手奥には、明治44年(1911年)2月8日に建立された「甘藷澱粉製造発祥之地記念碑」がある。

稲荷神社の右手一帯には川崎製鉄がある。昭和15年に東京湾臨海工業地帯計画の一環として蘇我を中心に300万uの埋立て工事が開始されたのち、ここに日立航空機が進出したが、終戦となり、埋め立ては200万uで中止となった。

昭和26年に川崎製鉄千葉製鉄所が進出し、さらに100万uの埋立てが行われた。昭和28年6月の第3高炉の点火は、これまで農業中心の町だった千葉市を工業都市へ転換させた第一歩であった。


福生寺

九曜紋

富士山の扁額

五輪塔

稲荷神社から700mほど行き、左手に入ると、福正寺(日蓮宗)がある。たびたびの火災で古記録を失い、開山年代が明らかではないが、元禄13年(1700年)に今井町白旗にあった福正寺(日蓮宗)と稲荷町五田保にあった上行院(日蓮宗)と現在地にあった福秀寺(浄土宗)が合併し、領主の稲葉能登守(いなばのとのかみ)に願い出て、日蓮宗に改宗し、同時に富士山福王寺に改められた。


今井神社

今井神社・拝殿」

新田翁頒功碑

旧道にもどり、ここから300mほど行くと十字路となる。ここを左手に50mほど進むと、正面に天照大神、応神天皇と菅原道真を合祀した今井神社がある。境内には「新田翁頒功(しょうこう)碑」がある。これは、大正15年(1926年)6月に今井漁業組合が新田庄八の東京湾における貝の養殖事業と、甘藷馬鈴薯粉製造業に尽くした功績を顕彰するために建立したものである。


大巌寺道への道標

道標拡大

今井神社を出て、再び旧道にもどる。ここから400mほど行くと、左手に行く道がある。ここに、「大がんじの道」という文字が刻まれた道標がある。


大巌寺山門

浄土宗の竜沢山大巌寺(本尊は阿弥陀如来)は、ここから左手に2Kmほど行ったところにある。ウメとサクラの名所で知られ、天文17年(1548年)に紫式部大夫胤栄(たねあき)とその夫人利貞禅尼(りていぜんに)が、道誉上人を開基に迎え、浄土宗の教えを広める道場を創立したのが起こりである。徳川家康も天正19年(1591年)に寺領百石を寄進した。

曽我野村は江戸時代、千葉市城の江戸湾沿いの有力な河岸の一つであり、宿場、継立場として繁栄していた。曽我野湊では、東上総の東金、九十九里沿岸より馬の背で〆粕(しめかす)、干鰯(ほしか)、年貢米、鮮魚などを荷受けし、五大力船で江戸へ廻送していた。明治前には廻船問屋、穀物商海産物肥料問屋、旅篭、一膳めし屋などで栄えていた。


小笠原家の墓所

小笠原雨塘の墓

この道標から300mほど行くと十字路となる。左手に50mほど進むと左手に商店があり、その裏手に俳人、小河原雨塘(おがわらうとう)の墓碑がある。雨塘の本名は七郎兵衛長栄で、曽我野村の名主で、廻船問屋を営み、白井鳥酔(しらい ちょうすい)門流の俳人であり、小林一茶と親交があつかった。ここには、雨塘の墓碑のほか、小河原家の墓や一族の墓碑が数多く並んでいる。


蘇我比畔神社

蘇我比畔神社・拝殿

旧道にもどり50mほど進み、左手に入ると天照大神、蘇我比畔大神、応神天皇、春日大明神を祀った蘇我比畔神社がある。由来書によると、日本式尊命が東国地方を練二するため弟橘姫を始め多数の家来を引き連れ、千葉沖に差しかかったとき、風雨が強くなり沈没の危険に会った。このとき、弟橘姫は「竜神の怒りに触れた」と、これを静めんがために同道して来た五人の姫達と海中に身を投じた。これにより日本武尊命は、無事に航海を続けた。身を投じた姫の中に蘇我大臣の娘である比畔がおり、この方が曽我野の海岸に打ち上げられた。里人たちの手厚い看護により蘇生することができ、無事に都に帰ることが出来た。里人たちは、日本武尊命が日嗣(ひつぎ)の皇子でありながら東征の途中で崩ぜられ、皇位を継承するに及ばなかったことを聞き、その霊をなぐさめるために社を建てたのが蘇我比畔神社であるという。

この神社から400mほど行くと、左手に入る道がある。この道を200mほど進んだ右手には陣屋(坪数20,627坪)があった。明治3年(1870年)8月に下総国商徳藩(宇都宮藩の支藩)の戸田忠至が、歴代の皇陵を修理した功績によって、その子正綱に曽我野藩1万石が封ぜられ、ここに陣屋を構えたという。


天満宮

天満宮拝殿

使いの牛

海の碑
(漁業権放棄の碑)

蘇我町の陣屋跡に入る道を直進し、500mほど行くと、左手に菅原道真を祭神とする天満宮(塩田町字新作)がある。創建年代は不明であるが、ある年、大津浪があり、向塩田に道真公の木像が漂着し、これを奉るために小祠を建てたのが起こりであるという。

なお、この天満宮は、災害をのぞき、立身出世を叶える神として仰がれ、幼児の出世を祈願し、男児出産には紙と筆、女児は糸と針を納める風習があった。


旧生浜町役場
(現資料館)

漁具の展示品
 
役場案内板
天満宮を出て100mほど進むとT字路となる。左手に旧生浜町役場庁舎がある。庁舎は昭和3年にそれまでの生浜村が生浜町になったのを機に新しい庁舎の建設が計画され、昭和7年8月に建物が竣工しました。この建物は市内では数少ない昭和初期の木造2階建洋風建築物で、建築技術や意匠には東京などの中心都市の建物に比べて地方色が強く見られ、我が国の近代建築史の変遷を考える上で貴重なものです。建物の屋根はフランス瓦で葺かれ、特に玄関ポーチ上のバルコニーは明治初期から大正期に建てたれた郡役所建築によく見られるもので、この建物の大きな特徴になっています。

諏訪神社入口(鳥居)

諏訪神社

拝殿 
 
力石

左手に行くと生実町下宿(浜野、四街道、長沼線)に出る。右手に進むのが房総往還である。ここから100mほど行った左手奥に建御名方命(たけみなかたのかみ)を祭神とする諏訪神社がある。元禄13年(1700年)に日置重奴が奉納した石鳥居がある。


本行寺・顕日石碑

 顕日石碑
 
本堂への参道

本行寺・本堂

日泰上人墓所

旧道にもどり、200mほど行くと、右手に如意山本行寺の表大門がある。ここには顕日石塔があり、少し行くと右手に石段がある。これをわたると、正面に昭和56年に再建した本堂がある。

本行寺は、顕本法華宗である京都の妙塔山満寺の末寺で、宗祖莫定の十界勧請の大量陀羅を本尊とする。文明元年(1469年)に日泰上人が、東京品川の妙蓮寺から海を渡って浜村に来て、この地にあった廃寺を興して布教の道場としたのが起こりである。
日泰上人:永享4年(1432年)に京都の白川で生まれ、19才のとき、京都の妙塔山満寺第19世日蓮上人の弟子となり、名を心了、のちに円頓房心了院といった。
38才の時に本行寺を興し、のちに師の後をつぎ妙蓮寺と本行寺の兼務となった。常に品川と浜村の間を便船によって往復していた。この頃、酒井小太郎定隆と同船した時、強い風雨に襲われ、船が沈没しそうになった。その時、日泰は船首に立ち泰然とお題目を唱えた甲斐あって、暴風雨は次第に鎮まり無事に浜村に着くことができた。これに感激した定隆は、「貴憎の御陰で幸いに危難を免れ、九死に一生を得た。一国一城の主となった晩には領民を全部妙法に帰依させご恩に報おう」と約束した。これが、日泰と定隆の出合いであった。長享元年(1487年)に定隆は土気城主となり、約束通り、領内七里の間の寺院をことごとく日泰の宗派に改宗させた。世にこれを「上総七里法華」といい本行寺がその根本寺であった。

本殿前の右手に日泰上人の墓(高さ115cm)がある。「永正三年(1566年)正月中旬九日、妙方本行寺開基、日泰聖人」と刻まれている。この墓は、遺言によって字本浜本の小松の林に葬られたが、昭和53年に、その墓石を現在地に移したものである。のちの十世日這(東漸院)は、不受不施を主唱し、万治3年(1660年)に生実村の本満寺の日清とともに伊豆大島に流され、元禄5年(1692年)10月12日に島中で没した。このため信徒も去り、伝来の過去帳や宝物なども隠され、その多くは損失してしまった。

昭和3年10月、三十八也の日哲(三妙院)の時に諸堂の改修が行われたものの、昭和20年5月に飛行機からの焼夷弾を受け、本堂、泰師堂、書院など一山が全焼した。

現在の本堂は、昭和56年に建立したものである。なお、戦禍をまぬがれた元亀、天正年代の古文書や日経・冒送など不受不施派の古文書は、市の文化財に指定されている。


塩田(浜野)川河口

旧の街並み

本行寺の裏門を出ると、左手に浜野郵便局がある。この前を通る道が旧道である。右手に100mほど行くと十字路となる。


浜野河岸跡付近

左手に40mほど行くと浜野川(塩田川)がある。この川の手前の左手一帯が浜野河岸跡である。戦国地代からの重要港であったようであるが、史料がないため、詳しくは判らない。

現在の浜野河岸跡付近

縦澪(たてみお)といわれる塩田川河口から真っ直ぐに西に延びる海中の澪に接するところを主に河岸として使用し、ここに「浜御蔵」があった。この御蔵の江戸廻米や蔵米払出しは、「御蔵元」の善左衛門(日置家)が取り扱い、天保10年(1839年)には和泉屋利八(飯豊家)が「御蔵元格」に任命されている。


房総往還・浜野方面

浜野方面へ

当時の旧道は、この付近で河岸に出て、行き止まりとなっていた。現在では、浜野橋をわたり、先に進むと、国道16号に出られるようになっている。もとの十字路を左手に行くのが房総往還である。ここから600mほど行くと村田町となる。


浜野から八幡宿へ