千葉の歴史の道 房総往還を歩く



 千葉公園からから君待橋まで

JR千葉駅→千葉公園→千葉神社・大日堂跡→千葉市美術館(旧川崎銀行)→大和橋→御茶ノ水・地蔵尊→亥鼻城(千葉市立郷土博物館)→羽衣の松(千葉県庁跡)→君待橋→JR本千葉駅


千葉公園の面積は、21haあり、昭和21年6月に戦災復興計画で公園が造成され、40年に完成した。戦前は、陸軍兵器補給廠(明治42年に設立)現在でも千葉緑地公園事務所の左記に旧軍トンネル工事用コンクリートドームが残っている。


千葉公園(弁天町側)

綿打池・蓮華亭

大賀ハス(蕾)翌日開花

大賀ハス
 
鉄道連隊名残Map

公園内には、綿打池がある。このあたりは、佐倉藩(11万石)の寒川村、千葉村と旗本領の作草部村との境界となっており、この池が、どちらのものかという争いが起こった。役人の実地検分の前日、寒川村の綿打屋であった太郎兵衛が、村内の弁天の碑石をここに移して置き、検分当日にこれを物的証拠として説明したことにより、寒川村の主張がとおり、寒川村のものになったという。そこで、太郎兵衛の機転を称揚して「綿打池」と名づけられたと伝えられている。

大賀ハス(オオガハス、おおがはす)は、1951年(昭和26年)千葉市検見川(現・千葉市花見川区朝日ケ丘町)にある、東京大学検見川厚生農場(現・東京大学検見川総合運動場)の落合遺跡で発掘された、今から2000年以上前の古代のハスの実から発芽・開花したハス(古代ハス)である。大賀一郎博士は5月上旬から発掘された3粒のハスの実の発芽育成を、東京都府中市の自宅で試みた。2粒は失敗に終わったが3月30日に出土した1粒は育ち、翌年の1952年(昭和27年)7月18日にピンク色の大輪の花を咲かせた。このニュースは国内外に報道され、米国ライフ週刊版1952年11月3日号P60に「世界最古の花・生命の復活」として掲載された。


鉄道連隊遺構
(トンネル)
 

鉄道連隊遺構
(橋脚)
 
荒木山

鉄道連隊遺構
(クレーン台座)

鉄道第一連隊
演習跡案内板

現在も、この池の南 には弁財天があり、弁天町という町名のもと綿打池の西側の高台一体は、満洲事変で武勲をたてた鉄道第一連隊の荒木克業(かつなり)大尉の名をとって「荒木山」とよばれている。この地方には、鉄道連隊の架橋演習用のコンクリート橋脚が残っている。



椿森陸橋

旧千葉駅前通り

千葉(妙見)神社

狛犬(右)

狛犬(左)

千葉公園の正面を出て500mほど進むと椿森陸橋があり、右手にJR東千葉駅がある。左手一体は、鉄道第這隊(明治41年6月に設立)や千葉連隊区指令部(昭和11年12月月に設立)があったところである。

左手に「だらだら祭り」で知られる千葉神社がある。もとは北斗山金剛授寺(通称千葉の妙見様)という真言宗の寺であり、千葉氏の守護神である妙見尊を祀っていた。


拝殿

拝殿
 
三十六禽堂

月星紋

千葉常胤像

千葉氏の家紋の月星紋あるいは九曜紋は、妙見尊に由来するものである。本堂を中央に建て妙見尊を安置し、鎮守には稲荷大明神、清滝大権現、石神大明神、摩利支天堂弁財天、天満天神、菅原神社、三十六禽堂(一昼夜12時のそれぞれに動物を配し,さらに そのそれぞれに2種ずつ付き従う動物を配したもの)、末社は本堂の東南に造立したという。

古来たびたび火災にあい、中でも明治37年(1904年)の火災では、社殿のほか、宝物古文書の大部分が失われた。この時、焼失した社殿には嘉永3年(1850年)に信州諏訪の宮大工、立川和四郎が刻んだ彫刻も失われた。社殿は、平成2年8月に完成した。


通町公園モニュメント

親子像

広小路交差点

千葉神社の隣には、通町公園がある。戦前までは大日寺(真言宗)があったが、戦後、轟町に移転した。公園内には、元千葉市長(参議院議員)の加納金助の遺族の寄付によって昭和39年4月に建立した「手をつなぐ母と子の像」(愛の平和像)が、通町公園から南方は本町通りといわれ、明治の中頃から戦前までは千葉市内の繁華街であった。


千葉市美術館

旧川崎銀行ビル
 
旧川崎銀行ビル内
鞘堂ホール

千葉神社から100mほど進むと、広小路十字路となる。左手が成田街道、右手がJR千葉駅となり、広小路ロータリーのあったところでもある。ここから200mほど行くと、右手に千葉市美術館(昭和2年に建てられた旧川崎銀行千葉支店の建物が、新しいビルの内部に包みこまれるようにしてそのまま復元保存され、三菱銀行千葉支店となり、昭和46年(1971年) に千葉市が所有し、中央地区市民センターとして平成2年(1990年)4月まで利用され、千葉市では現存する数少ない歴史的建造物の1つで、平成7年に市の文化財に指定していされました。当時の欧州建築技術を取り入れた耐震、耐火の鉄筋コンクリート造りで、戦災による被害にも耐えぬいた。


大和橋交差点

大和橋親柱

お茶の水跡

お茶の水井戸

祠・石仏群

千葉市美術館から400mほど進むと、昭和62年6月に完成した大和橋がある。古くは大橋とよばれ都川に架けられた橋である。「御殿下りの猪鼻娘、市場町場の大橋よ、表三丁裏三丁 主は大庭香取山 妙見尊へ願をかけ道場御縁が、あるならば、横町かけて、逢いたきに、とどのくくりが江戸街道」この橋の都川べりには、米、炭問屋をはじめ、居酒屋、雑貨店などが軒をつらね、この付近まで寒川港や登戸港から荷足船が上り、下りしていた。下りのときに米や木炭が運ばれ、上りのときには塩や石材などが多かったという。

この橋をわたり、すぐに左手に入る道が、旧東金街道である。右手に「お茶の水」がある。碑文には「治承の昔、千葉常胤郷源頼朝公を居城猪鼻山に迎えし時、此の木を以て茶を汲む。公深く之を賞味せりと云ふ。爾来、お茶の水と称し、星霜八百年、清水 々として余に渇きず」とある。この近くには、地蔵尊不動尊、道祖神がある。


亥鼻城址の碑

亥鼻城
(千葉市立郷土資料館)

千葉常胤像

御茶ノ水脇の公園の階段を上ると亥鼻城(千葉市立郷土資料館)がある。大治元年(1126年)、千葉介常重が大椎城からこの地に移転して築城した。常重の子、常胤の代の治承四年(1180年)源頼朝が伊豆で挙兵し石橋山合戦で敗北、安房に脱出した際に頼朝を助け、鎌倉幕府樹立に大きく貢献した。この活躍で千葉氏は下総のほか、奥州、九州等にも所領を増やし、最盛期となった。

康正元年(1455年)前年に勃発した古河公方と鎌倉公方(堀越公方)の対立による騒乱(享禄の大乱)で千葉氏も内紛が勃発、宗家・千葉介十四代胤直・胤宣父子を一族の馬加城主・馬加康胤、小弓城主・原胤房らに急襲され落城、千葉胤直父子は志摩城・多古城にて自刃し千葉氏の宗家は滅亡した。亥鼻城は千葉宗家を継いだ康胤の孫、輔胤により廃され本佐倉城に移った。千葉開府年の今年(2016ン聯)は「千葉氏サミット」が関係各県の知事が参集し千葉市で開催される。


旧千葉県庁

旧国鉄千葉駅

幕張海岸

稲毛海岸(

現在は千葉市立郷土博物館として千葉の歴史が伝い続けている。


羽衣公園・羽衣の松

羽衣の松・案内板
 
旧県庁庁舎(レプリカ)

旧県庁庁舎
(議場ビル1Fホール内)

大和橋から500mほど進むと、昭和37年に完成した千葉県庁がある。県庁前には羽衣公園があり、明治44年から昭和36年までルネサンス式建築の偉容を誇っていた前県庁舎があったところである。この公園の中央にある羽衣の松には、千葉氏が全盛のころ、この辺りにあった池に天女が舞い降り、その纏う羽衣を池畔の松の枝にかけて水浴したという伝説が残っている。


君待橋跡碑
 
現在の君待橋
(都川)

県庁を出ると、大網街道と交差する。ここを直進し、400mほど進むと左手にJR本千葉駅があり、さらに約200m進むと、登戸から新宿、寒川、浜野へ行く旧道に出る。

ここに「君待橋跡碑」があり、昭和44年3月まで「新川」とよばれる小さな構(旧運河)があり、そこに架けられた石橋を「君待橋」とよばれていた。この橋の名前の由来については、次のような伝承が残っている。

 1.長徳元年(992年)に藤原実方(ふじわら の さねかた)が陸奥国へ下向の途中にここを通り、里人に橋の名を
  聞たとき、里人は「君待橋」と答えた。実方は、懐紙を取り出し、「寒川や袖師ケ浦に立つけむり、君をまつ橋に
  ぞ知らるる」と一首を詠んだという。

 2.治承4年(1180年)9月に千葉常胤が一族郎党を引き連れて、この橋のたもとで源頼朝を出迎えた。このとき、
  頼朝が、この橋の名をたずねると、六男六郎胤棟が「見えかくれ八重の潮路を待橋や、渡りもあえず帰る舟人」
  と和歌で答えたという。

 3.明治44年(1911年)の「千葉町案内」には、「中古此橋の辺に美人がいて、常に橋の袂に佇立(ちょりつ)し
  て、長州から来る情人を待ち待ちした。或日、雨が激しく降って、濁流泪々(るいるい)として渦巻き、遂に橋を流
  してしまったので、美人は呆然と立っていると、情人は斯くても厩はず通ふて来た処が橋がないのに驚き、衣を脱
  いで水中に這入った処、忽ち激流のために浚(さらわ)れて、見る見る渦中に巻かれて行くを、美人は救うにも救
  われず、喪心し情郎の跡を追ふて、共に身を濁流の中に投じた。依って君待橋と名付くるに至った」という伝説
  的な物語が載せられている。

昭和55年に、その跡地に「君待橋苑」が設けられ、その北方約200mの都川沿いに新しく立派な「君待橋」が造られた。

                             君待橋から蘇我へ