千葉の歴史の道 房総往還を歩く



 幕張から稲毛まで

JR幕張駅→印旛沼落→検見川神社→二間半間口の家並み→地蔵様→稲毛浦→旧千葉市庁舎→民間航空発祥の地→キティーホークの森の松→旧愛新覚羅溥傑邸→稲毛浅間神社→海気館跡(稲毛公園)→明治天皇御野立所記念碑→JR稲毛駅→小中台開拓の碑→陸軍高射砲学校跡(千葉県立女子高校)→穴川神社→なわ縛り塔→庚申塔→千葉公園



十九夜塔・石仏群
 
左側・房総往還

花見川
(新花見川橋から)

左に昆陽神社、右に新都心のビル群を見て、新道を渡り200mほどの右側に墓地があり、多くの近世石造物がある。この内の3体は如意輪観音で一九夜塔(じゅうくやとう)(念仏供養塔、念仏を唱えると誰でも極楽浄土へ行くことができる、という浄土宗の教えと結びついて建てられた供養塔)として造立された。(県教育委員会による)

幕張駅入口から900m程東へ向かうと旧道へ入る。120m程先の新花見川橋で花見川を渡る。この花見川は江戸時代の享保・天明・天保の三度にわたって幕府の計画した、印旛沼の水を東京湾に落とす堀割りの下流であり、元からの川を拡幅して掘られた。工事は三回にわたり実施されたが、いずれも失敗に終わった
第一回:享保9年(1727年)に井沢惣兵衛が計画し、平戸村の染谷源右衛門が工事を請負、幕府から金6千両    を借り、人夫507人を使って工事を始めたが、資金不足のために途中で中止となった。

第二回:天明2年(1782年)に老中田沼意次(たぬまおきつぐ)の命により人夫243万人を使って工事開始22分     の2の工程が行われたものの、翌年に利根川洪水のため破壊され、また、田沼も失脚したため、工事も中止     となった。

第三回:天保14年(1843年)に老中水野忠邦が、各藩に命じて工事に着手した。

    各藩の割当割でも、因幡(いなば)鳥取藩が担当した区域は難工事で「馬糞のような土で、水気が多い所で     は湧き出し、ただどろどろして、鍬にも、鋤にもかからず、ただ水のようにくみ出すより方法がない」とある。

    この工事も、老中水野忠邦が罷免されることにより中止となった。

これが「印旛沼落し堀」で、現在の花見川(印旛沼疏水路)は、昭和21年に着工し、昭和46年(1971年)に完成したものである。


春の花見川

千葉の水回廊W

花見川橋を渡ると検見川町に入る。検見川村が漁港として、また、宿場として栄えたのは、江戸時代であった。明和2年(1765年)4月の中村国番の「金さん紀行」には「江戸へ往復するもの多く検見川の宿継も繁昌」とあり、継立の問屋場もあってかなり栄えていた。また、検見川村は、帆かけ船で網を引き、赤貝、かに、タイなどをとる〝打瀬漁(うたせあみりょう)〞( 漁船に23枚の帆を船体に平行して張り、風の力で袋 網を引いて魚介類を漁獲する漁法)で知られていた。


検見川へ
 
検見川神社
 
子授け榎・さざれ石
   

検見川橋から50mほど進むと、十字路となり、ここを左手に約150m行くと京成電鉄の踏切となり、さらに80mほど行くと、検見川神社がある。検見川神社の創建は、およそ1200年前平安時代前期第56代清和天皇の御代にまで遡ります。当時は、人臣として初めての摂政である藤原良房が清和天皇の外祖父として実権を掌握し、養子基経と共に摂関政治を藤原氏が確立した時代である。
この天皇の御宇貞観11年(869年)全国に流行した疫病を鎮めるため、その消除を全国規模で祈りました。その時、下総国(現在の千葉県)で
素盞嗚尊(すさのおのみこと)が祀られ、災厄消除を祈った場が当地(嵯峨という地名を持つ)であったのです承平4年(934年)に「嵯峨天皇に奉仕せる五位蔵人後胤兵部小輔平春続が下総葛飾の原(今の検見川)に来り、嵯峨神社(今の検見川神社)を創建したという。昭和63年までは八坂神社と呼ばれていた。


唯一残る土蔵

二間半間口の家並み

三峰神社

十字路にもどり、直進すると、新田を開発した村人が領主から同じ広さの土地分譲(二間)を受けた名残として、二間半間口の家が建ち並んでいる。往還の両側に家が建ち並んだのは、明治末期のことで、検見川の人口が増加し、次男、三男の住宅難と浜の絹張り争いなどから、多くの人が住めるようにするために三間間口(約5.4m)の土地に二間半(約4.5m)の家を建築した。

検見川5丁目に入って150mほど進むと、左手に三峯神社(日本武尊ゆかりの修験道の霊場. 秩父神社・宝登山神社とともに秩父三社の一社)の入口がある。細い道を進むと62段の石段があり、登りつめた右手に境内がある。。


大阪の祠

地蔵様の小祠 

三峯神社の入口から、二間半間口が並ぶ家並を見ながら100mほど進むと、十字路となる。左手に進むとJR新検見川駅に出る。真っ直ぐ進み、約100m行くと、左手に向かう〝大坂〞とよばれる道がある。この道を50mほど登ると、左手に庚申塔、地蔵尊、子安観音などが並んでいる。

旧道にもどり200mほど行くと、目の前に旧道上を横断する東関東自動車道が見える。その手前の左手に高さ40cmほどの地蔵様の小祠がある。


旧千葉市庁舎
現千葉トヨペット

民間航空発祥記念日

キティホークの松

キティホークの松
由来案内板

漁組解散の碑

ここを通りすぎると自家用車やトラック、ダンプカーが行きかう国道14号に出る。同時に稲毛町、右手には、かつて波静かな遠浅で、潮干狩りや海水浴でにぎわいを見せた稲毛海岸であったが、昭和36年に埋め立てが開始され、現在では、一大〝海浜ニュータウン″が形成されている。国道14号に出て200mほど進むと、左手に約600mにわたり旧道が残っている。右手は、かつての稲毛浦(稲毛海岸)である。旧道の途中に花園橋があり、国道14号を横切る歩道橋をわたると、元々の千葉市庁を移した千葉トヨペットの建物がある。さらに海に向かって進むと、翼の形をした高さ9mの「民間航空発祥地記念碑」がある。

明治45年(1912年)年5月、奈良原三次が、この海岸に民間飛行練習所を開設し、白戸栄之助の操縦による日本で初めて民間飛行機が飛んだ民間航空発祥の地碑がある。。また、大正5年(1916年)1月には伊藤音次郎の操縦で、この海岸から飛んだ〝恵美二号〃が民間機としては初めて帝都(東京)訪問をした。

この記念碑の脇には、昭和35年に日本初飛行50周年を記念してアメリカ、ノースカロライナ州のオッジス知事から成田市に住んでいた伊藤書次郎にキティ、ホークの丘(ライト兄弟が世界で初めて動力による飛行に成功した丘)の松の種が送られ、昭和46年6月に現在地に植樹した「松」が5本ある。また、記念碑の後方には、昭和44年6月に埋め立てのために解散した漁業組合の記念碑が建てられている。


海側の鳥居

浅間神社・参道と鳥居

花園橋にもどり、旧道を進むと、目の前に広大な浅間神社の森(約6400坪)と鳥居が見える。


愛新覚羅溥傑邸

愛新覚羅溥傑邸玄関
 
庭園から
 
清朝系図
 
夫妻の婚姻写真

鳥居の左側には、映画「ラストエンペラー」にも登場する、清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀の実弟である愛新覚羅溥傑(あいしんかくらふけつ)と浩夫人は、新婚時代の半年ほどを「千葉市ゆかりの家・いなげ」で過ごした。

明治中期以降、保養地として、多くの文人墨客が訪れた稲毛は、海岸線の松林を中心に別荘・別邸がたてられました。その多くは和風建築でしたが、この建物はその中で現存する唯一の別荘と考えられ、非常に貴重なものとなっている。


床の間の書

照明

溥傑の書

はなれ
 
はなれ・室内

映画「ラストエンペラー」にも登場する、清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(ふぎ)の実弟である愛新覚羅溥傑(あいしんかくらふけつ)氏と(嵯峨)浩夫人は、新婚時代の半年ほどを「千葉市ゆかりの家・いなげ」で過ごした。かつて海水浴ができる避暑地として人気のあった稲毛海岸には、別荘が建ち並んでいた。その中のひとつであった昭和初期の面影を残す木造住宅は、内部に旧愛新覚羅溥傑邸であったことを示す、溥傑の書や溥傑の写真などが展示されている。


稲毛浅間神社

神殿楽

十二座神楽

十二座神楽碑

平山独木歌碑

浅間神社は、大同3年(808年)5月30日に富士山本宮浅間神社の分霊を小中台のシロヤマに勧請したのが始まりで、のちに現在地に移転したという。治承4年(1180年)9月17日に源頼朝がここを通ったときに参詣したといわれている。昭和39年9月24日、不審火によって社殿は全焼し、現在の社殿は、昭和41年に再建されたものである。その後、各種の整備を行い、昭和62年にほぼ完了している。

例大祭は、かつて旧暦の6月1日であったが、これを新暦に直すと、ほぼ7月10日頃になるため、現在では7月15日に行っている。


みろく様
 
芭蕉句碑

浅間神社の十二座神楽稲毛の旧家の長男を中心に伝承されている。この神楽は、参詣者の赤ん坊を飛び入りで舞台に登場させるのが特色で、昭和37年に県の無形文化財に指定された。

神社内には、戦後、長らく千葉市助役をつとめた平山独木の句碑(「踏み〈だる落葉のいのちひびきけり」、昭和40年初冬建立)がある。


海気館のあった辺り

稲毛公園の松林
 
旧神谷伝兵衛別荘

浅間神社の松林の東側に、田山花袋の「弟」、里見淳の「おせっかい」、林芙美子の「追憶」などの文学作品の舞台となり、島崎藤村や徳田秋声も滞在したという海気館跡がある。建物は跡形もないが、稲毛公園の松林は当時の面影を伝えている。国道沿いには日本のワイン王と言われた神谷伝兵衛の大正時代の洋館である別荘がある。
江戸時代の往還は、稲毛からの台地上を通り、JR稲毛駅脇から穴川に出て、天台、作草部から椿森坂を通り、旧踏切を渡り、要町、院内町、本町、市場町、長洲町、港町から海岸に出る道筋であった。現在の稲毛から登戸に通ずる道路(現国道14号)は明治19年(1886年)に千葉監獄の因人を使って新設したものである。


明治天皇御野立所

明治天皇御野立石碑

京成稲毛駅脇の踏切を渡り坂道を上りつめた所に総武本線の稲毛駅の高架がある。その手前右手に明治天皇御野立所(おのだちしょ)の案内板と石碑がある。明治155月近衛師団対抗演習をご覧になるため行幸された時休憩を取られた場所であり、明治天皇一行は千葉街道から房総往還を通り四街道の近衛師団対抗演習場までを往復したと記録にある。


JR稲毛駅東口

千葉市北部(稲毛)
図書館

小中台開拓の碑

現在の稲毛駅は、明治32年(1899年)年に地元が用地を寄付する条件で新設されたものである。JR稲毛駅の踏切から500mほど進むと、左手に市立図書館第2号として昭和47年6月に開館した北部図書館があり、なかよし公園には「小仲台開拓の碑」がある。


県立千葉女子高校
(陸軍高射学校跡)

往還

穴川神社

田村吉右衛門の碑

千葉都市モノレール

さらに進むと、県立干葉女子高校がある。このあたり一帯は、戦前の千葉陸軍高射学校があったところである。

昭和13年10月に防空学校として開校し、昭和19年4月に千葉陸軍高射学校と改称された。女子高前から500mほど進むと、変形十字路となり、実籾・穴川線と交差する。交差点の手前が往還である。

穴川神社は、文政9年(1825年)6月8日に田村吉右衛門が創建したものであるといわれている。穴川の開発を記念した吉右衛門の石碑(天保9年)があり、また、天明4年(1784年)正月に村人によって創建された道祖神社がある。この道祖神は、千葉三道祖神(新田町、千葉寺町)の一つである。


縄しぼり像・道標

庚申塔
 
千葉公園(弁天町側)

蓮華亭

穴川神社を出ると、穴川十字路となり、右に進むと西千葉、左に行くと県スポーツセンターとなる。江戸街道(房総往還)は、まっすぐ千葉市内に向かって進む。道路の中には、平成年に開通した千葉郡市モノレールが走っている。

穴川十字路から1200mほど行った左手に作草部交番がある。その前の大矢商店側に道標がある。別名「縄しぼり塔」とも呼ばれ、風邪をひくと塔を縄で縛り、祈願すると平癒し、なおったら縄をといてお礼をするという信仰が残っている。その先には道標(庚申塔)が残っている.この縄しぼり塔から800mほど進むと、左手に千葉公園がある。

                              千葉公園から君待橋へ