Blowin' in the Wind 2018
                          
いっちゃん鎌倉街道を歩く・・

東京多摩川線の沼部駅を下り改札を出ると多摩川の堤防が見える。堤防に上がると多摩川と対岸の街並みが見渡せる。
堤防上を3、4分歩くと丸子橋交差点にでる。ここは中原街道(鎌倉街道・古東海道)である。交差点手前には旧丸子橋の親柱が残されている。


沼部駅

堤防から丸子橋

丸子橋東詰から

旧丸子橋親柱(東側)

丸子橋

丸子橋を渡り河川敷に出ると「丸子の渡し跡碑」がある。中原街道(江戸と平塚を結ぶ道)を通る人々にとって、昭和10年に丸子橋が完成するまでは渡しが川を渡る唯一の交通手段だった。数多くあった多摩川の渡しの一つである。渡し場の近くに松原・青木根集落があったが大正9年の築堤で姿を消した。公共事業のため立ち退いた青木根集落の人々の苦労は今も語り継がれている。堤防の外側の小さな公園にも旧の親柱が残されている。


丸子の渡し跡

案内碑

昭和初期・丸子の渡し


丸子の渡し碑
 
親柱(西側)

中原街道の標柱を見ながら歩くと、旧原家(現在は川崎市立日本民家園に移築)の立派な屋敷門と案内板、石碑がある。原家は近世以来の旧家で、代々中原往還に面する小杉陣屋町に屋敷を構え、明治期には小杉村における有数の豪農であった。
明治44年(1911年)には旧主屋を一新し、新時代の生活に対応した間取りを持つ2階建・入母屋造瓦葺の近代的な主屋を新築した。
 


中原街道標柱

旧原家屋敷門

旧原家跡石碑

そのすぐ隣には、安藤家長屋門が残されている。高札もあると案内にあったが、長屋門の中らしく見ることはできなかった。安藤家も名主を務めた家柄である。後北条氏に仕えていたが豊臣秀吉に敗れ、この地に土着・帰農した。
江戸時代は割元名主
(名主の代表格)をつとめていた。この長屋門は江戸の代官屋敷から移築されたものと伝えられている。


安藤家長屋門

案内板

街道右側にひときわ目を引く商家がある。明治3年(1870年)から、農業をしながら醤油造りを始めた石橋醤油店である。大正12年(1923年)から専業となり、キッコー「文山」のラベルを貼り、昭和26年(1951年)まで製造していた。昔は街道を利用して天秤棒に桶をさげて、東京方面からも買いに来る人が沢山いた。昭和8年(1933年頃には、トラックを使って運搬するほど盛んだったと言う。


石橋醤油店

石橋醤油店蔵
 
八百八橋碑

八百八橋石橋

石橋醤油店の隣には「八百八橋跡碑」と石橋の石が残されている。小杉周辺には田畑のための小さな水路が村中にみられました。それらの水路には木や土で作られた橋があったものの、雨による増水のたびに破壊され、その都度架け替えていた。
商業を営み、財を築いた野村氏は、その状況を解消すべく、街道沿いの村の人々のために千個の石橋を架けようと決心。伊豆から石材を取り寄せ、
1772年(寛政3年)に亡くなるまで、八百八つの橋を架けたと伝えられている。


小杉稲荷
小杉陣屋跡
 

街道から少し奥に入ったところに、小杉陣屋跡(小さな稲荷神社がある)1597年に小泉次大夫による稲毛・川崎と世田谷・六郷の四ケ領に及ぶ用水路掘削工事が開始された際、小杉と狛江にそれぞれ「陣屋」を設け、小杉の陣屋は「小泉陣屋」後に「小杉陣屋」と呼ばれるようになった。
小泉次太夫は、天文8年(1539年)、駿河国富士郡小泉郷(現在の静岡県富士宮市小泉付近)で出生した。今川氏没落後は徳川家康に登用されたときから「小泉」を名乗る。天正18年(1590年)に関東六ヶ国に転封となった徳川家康が江戸近郊の新田開発を計画した際、五万石相当の土地を預かる代官職に抜擢された。次大夫は多摩川から農業用水を引く用水路敷設を進言して採用され、以降稲毛・川崎領(現在の神奈川県川崎市)に移り住み用水奉行を務める。1597年(慶長2年)に二ヶ領用水、六郷用水の建設に着手した。多摩川右岸・小杉)と左岸・狛江に陣屋を設け、工事を指揮した。慶長7年(1602年)、徳川家康より稲毛・川崎領の代官を任命される。慶長16年(1611年)に二ヶ領と六郷用水が完成した。これら2つの堀は「四ヶ領用水」「次大夫堀」とも呼ばれた。元和2年(1616年)に徳川家康が死去すると、次太夫も出家し、剃髪入道して宗可と号した。


小杉御殿跡
   

小杉陣屋跡から少し奥に入ったところに、小杉御殿跡がある。江戸時代初期にはまだ東海道が整備されておらず、中原街道は江戸と元箱根を結ぶ主要な街道とされていた。徳川家康は上洛、駿府往還に用いた。将
軍の宿舎として使用するため、1608年(慶長13年)には徳川秀忠によって、小杉陣屋の西隣に小杉御殿が造営された。江戸から来た中原街道が南に直角に折れ曲がる場所、その西端は西明寺の門前であり、街道の北側に沿って東西に長い敷地だった。


御蔵稲荷
   

西明寺に行く手前の路地を入ったところに御蔵稲荷がひっそりとある。小杉御殿の敷地内には表御門、御主殿、御殿番屋敷、御賄屋敷、御蔵、御馬屋敷、裏御門などが配置されていた。「御蔵稲荷」は、そのうちのひとつ、御蔵があったとされる場所に残されている稲荷神社である。
現在は多摩川沿いから離れているが、小杉御殿があった当時は、この御蔵稲荷のすぐ北側が多摩川だった。そのため小杉御殿は多摩川という自然の要害によって守られていたといえる。

中原街道が直角に曲がる所の正面に西明寺の門柱と三門が見える。西明寺の創建年代は不詳。弘法大師が東国巡化のとき、高弟泰範上人に命じ堂宇を建立した。あるいは北条時頼が開基となり創建したとも伝えられる。江戸時代には隣地に小杉御殿が建立され将軍家の崇敬を受け、寛永19年(1642)には寺領10石の御朱印状を受領、近隣に末寺20余ヶ寺を擁す寺院だったという。
また、
明治5年(1872年)に学制が発布され、明治6年西明寺の本堂を借りて、小杉の子供たちが学んだ。

西明寺の前で街道はかぎ型に曲がっている「カギの道」と呼ばれ、将軍をはじめとする幕府要人が小杉御殿に宿泊するために敵の侵入を防ぎ攻めにくくする工夫がされた道路である。宿場の入口、城の入口などに造られている。


供養塔

狭く歩道がなく、車の往来の多い旧街道を歩く。T字路の脇の小さな祠に庚申塔が祀られている。「油屋の庚申塔」と呼ばれている。1834年(天保14年)に建立されたもので「東 江戸道」「西 大山道」「南 大師道」とあり道標も兼ねている。

二つ目のかぎ型(T字路)を曲がった先の右側に「つけぎや」という名の店の脇に供養塔が建っている。「武州橘樹郡稲毛領小杉駅」と刻まれ、台座の部分には「東江戸、西中原」という文字も判読できる。この表記から、中原街道が江戸から平塚の中原を結んでいた街道であることと、小杉が正式な宿駅であったことが、あらためて確認できる。

看板の「附木屋」とは、その名前の通り「付け木」を売る店です。付け木とは薄い板の先に硫黄を乗ったもので、薪木に火をつけるためのマッチのような道具でした。当時の店名が今まで残っています。


油屋の庚申塔

少し歩くと府中街道の交差点にぶつかる、その先には二ヶ領用水が流れ、案内板もある。二ヶ領用水(にかりょうようすい)は、多摩川などを水源とし、神奈川県多摩区(上河原堰・宿河原堰)から川崎市幸区までを流れる、全長約32Km(宿河原の支流を含む)の神奈川県下で最も古い人工用水路であるっ関ヶ原の戦い3年前に測量が始まり、14年の歳月をかけて完成した。
二ヶ領用水の名は、江戸時代の川崎領と稲毛領にまたがって流れていたことに由来する。
二ヶ領用水のすぐ先には泉澤寺がある。


泉澤寺・三門

本堂

鐘楼

泉澤寺は、現在の世田谷方面に勢力を有した戦国時代の豪族・吉良氏の菩提所として、延徳3年(1491年)に多摩郡烏山(現在の世田谷区烏山)に創建された浄土宗の寺院。諸堂が焼失したため、天文19年(1550年)に現在地に再興した。再興にあたり吉良氏は、同寺の寺領を安堵し、弥陀三尊を寄進し、さらに門前町を指定して居住者に諸税を免除し、市場の繁栄を図るなどその保護につとめた。近くには近世初頭に小杉御殿や代官陣屋が設けられるなど、多摩川を控えた政治・交通上の要地でもあったので、徳川幕府も泉澤寺へ朱印20石を与えて保護した。
吉良氏の家系は清和源氏の一家系、河内源氏の流れを汲む足利氏の一門であった。
足利家三代目当主義氏の四男・義継が三河国吉良荘からとって「吉良」姓を名乗った。のちに足利政権の奥州統治の要となり、奥州(武蔵)吉良氏となる。これは、長男・長氏が「吉良」姓を名乗ったことにならったものであり、こちらは三河吉良氏と名乗り、後に赤穂浪士に登場する吉良上野介の流れである。
一時は衰退の一途をたどるが、鎌倉公方家に仕えると、公方と同じ足利氏の流れを汲む家として「鎌倉公方の御一家」という別格の扱いを受ける。
貞治5年(1366年)、吉良家が武蔵国荏原郡世田谷郷(東京都世田谷区)を与えられる。その後、成高の代に世田谷城を構える。戦国時代に入り、成高の子頼康は、関東の覇者となった小田原北条氏と政略結婚し、武蔵国久良岐郡蒔田(神奈川県横浜市南区)に城を構えて、「蒔田(まいた)殿」と呼ばれる。
今、現在でも目の前が中原街道で、直進していくと江戸城の方向へ向かって行く。そのような要所にあったため、早くからこの寺は要塞化していった。周囲にはそうで水堀もあった。


庚申塔

神地の地蔵様・祠

神地の地蔵様

賑やかな通りを進む。小さな祠に祀られた庚申塔、神地の石塔(石仏)と呼ばれている地蔵菩薩が残されている。


大戸神社・鳥居

拝殿

狛犬

武蔵中原駅のガードり、少し先には大戸神社の鳥居が見える。大戸神社は世田谷吉良氏の家臣内藤豊前の舎弟内藤内匠之助が永正年間(1504~1521年)に戸隠明神として当地に創建したと伝わっている。境内には明治39年に下小田中にあった稲荷社・天神社等を合祀している。主祭神は手力雄命(たじからおのみこと)、彫刻も立派で見応えもある。
拝殿前の阿吽の狛犬は砲弾を抱えており「日露戦捷記念」と刻まれている。砲弾狛犬は全国的にも珍しい。


小関橋跡

せせらぎ遊歩道
   
鎌倉街道

大戸神社の前で旧街道はかぎ型になっている。1Kmほど歩き、下小田中小学校脇の五差路を右折して少し歩くと小関橋跡の小公園がある。
小関橋跡は川崎市中原区と高津区の境にあり、以前は農業用水として田畑を潤していたが、現在は「江川せせらぎ遊歩道」と整備されている。


庚申塔

地蔵様

旧鎌倉街道
   
旧鎌倉街道

明津の交差点、矢上川を渡る。庚申塔と供養塔のある団地に向かう道が旧街道で、その先は階段と急坂になって、このコースの難所である。老人福祉センター脇に出ると最高所でその先は平坦で眺めも良い。桜ヶ丘公園の先の十字路が境界線で港北区に入る。


鎌倉街道碑

坂道を下り県道を横切り少し行くと「鎌倉街道碑」「駒が橋」と書かれた石柱が建っている。源頼朝がこの地を通過したとき、駒()を橋のかわりにしたことからここを駒が橋というようになったと言い伝えられている。


西量寺

境内

団地の中の差整備された歩道を上り、登りつめた所から、住宅街を一気に下る。西量寺前をかぎ型に曲がり、更に住宅街の中の坂道を上る。
途中には階段もあり、この辺りに住んでいる人たちに日常生活を思い遣るが「住めば都・・」とも思う。登りつめた所にも住宅は建っている。眺めは良い。


日吉本町駅
 
鎌倉街道・次回

急坂は階段も作られて整備されている。一気に下ると、今日のゴール日吉本町駅である。
地下鉄なので駅舎だけである。駅員さんに帰りのルートを聞く。親切に説明してくれた。



                                                  
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2017.6.3

 鎌倉街道下道編 沼部~日吉本町
    

 第6回行程 
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