Blowin' in the Wind 2018
                          
いっちゃん鎌倉街道を歩く・・

天気を心配しながら前夜はベットにもぐりこんだ。風は強かったものの、午前中は快適なウオーキング日和だった。


品川駅港南口から

コンコース・時計

品川を出発。駅前から延びる坂道は「柘榴坂」で、前回下ってゴールした坂である。税務署前から左に入り閑静な住宅地に入る。アイスランド大使館などがある。


品川駅前から
柘榴坂

旧岩崎弥太郎邸跡
現三菱地所 
 
因幡藩邸跡案内板

居木橋 

15分ほど歩くと国道に出る。御殿山交番の道路を挟んだ隣は旧岩崎弥太郎の屋敷で三菱に寄付された跡三菱地所の広い土地・・森のようである。御殿山通りを渡り、南下する。因幡鳥取池田家下屋敷跡の案内板がある。現在の住居地図の上の記載してある。その広さをかんじることができる。
翡翠原石館・ミャンマー大使館を横目に見て坂を下ると目黒川に架かる居木橋に出る。目黒川沿いに下る。


東海寺大山墓地

沢庵和尚の墓案内

沢庵和尚墓緒

加茂真淵墓所碑

加茂真淵墓所

井上勝墓所

東海寺大山墓地に立寄る。沢庵和尚賀茂真淵井上勝渋川春海島倉千代子などの古今の著名人の墓にお参りする。


渋川春海墓所

島倉千代子墓所

関西で広く食べられていた大根漬けを、江戸に広めた沢庵和尚江戸時代中期の国学者歌人賀茂真淵江戸時代前期の天文暦学者、囲碁棋士神道家であった渋川春海江戸時代末期から明治時代に日本の靴文化を広め、工業の発展に寄与した西村勝蔵幕末から明治にかけて活躍した武士(長州藩士)で鉄道発展に寄与し、日本の鉄道の父と呼ばれる井上勝、歌手の島倉千代子などの墓がある。


タケノコの碑

東海寺からは目黒川に架かる御嶽橋を渡る。対岸には竹のモニュメントが立っている。かつてこの地は中国・九州を経て妄想だけが伝わり、タケノコの産地だったと書かれているが、大崎周辺には竹一本もなく、その面影はない。。


公園と区役所
(下見3月撮影)

平和宣言の碑

ロックガーデン
(4月撮影)

近代的になビルと住宅兼町工場の建物が並ぶ・・先に品川区役所が見えてくる。道路を挟んでその前が、品川中央公園でトイレ休憩と小休止・・近代的に管理された美しい公園である。ソメイヨシノ・枝垂桜はほぼ終わり、黄色い花を咲かせる「右近桜」が名残の桜となっていた。

ロックガーデンのチューリップが公園の主役になっていた。大井街駅前で参加者それぞれ思い思いの昼食を摂り、午後のスタートとなる。冷たい風が吹いて、上着を1枚羽織る。


駅前ショッピングモール
に展示(天狗神輿)

蔵王権現

荏原七福神
福禄寿

江戸時代江戸の大家から大井の街を救った天狗を祀る、大井の蔵王権現から中原街道を抜け、土中からお経が聞こえ掘ると地蔵が2体出てきた。一帯をここ身代わり地蔵に安置、もう一体を来福寺に祀ったという。

作守稲荷で小休止・・お稲荷さんの蘊蓄を話し皆で語り合う。


来福寺参道

三門

本堂

庚申塔

山王鳥居と太子堂

「塩瀬の碑」「雪中庵蓼太の句碑」などがある来福寺へ、江戸時代は目の前に海が広がっていたという。貞和5年(1349年)宋で修業を終えた龍山徳見禅師の帰国に際し、俗弟子だった一人の中国人が別れがたく随従して来朝しました。その人物が、塩瀬総本家の始祖・林淨因です。


林浄因の碑

雪中庵蓼太の句碑

良く知られている「世の中は三日見ぬ間の桜かな」は雪中庵蓼太の句である。
境内には有名政治家が奉納日田桜が植えられている。

街道に戻る、住宅街の狭い道を歩く。江戸時代のこの辺りはは桜の名所であったと言う西光寺に参拝。納骨堂の前に稚児桜の大木があるが、すっかり葉桜に姿を変えていた。


光福寺

大イチョウ

大井の井

「大井の井」大井の地名の由来ともなった光福寺に参拝。鎌倉時代に親鸞聖人門下の関東六老僧の一人として活躍した了海上人にまつわる話が残されている。寺伝によれば、了海上人の父が子授けを蔵王権現に祈願したところ、妻が懐妊し、男子(了海)を出産した。その時、境内にこつ然と泉が湧き出したので、この泉の水を産湯として使い、泉を大井と命名したという。大井の地名は、この泉に由来すると伝えられている。
境内の大イチョウを見上げながら山門を出る。


来迎院供養塔

地蔵菩薩

住宅街の細い道を歩く(実はここで道を間違えた)来迎院門前の道路に面して3棟の堂が建ち、向かって右側の堂内に明暦2年(1656年)と万治2年(1659年)造立の地蔵菩薩が彫られた2基、堂外に寛文7(1667)年造立の「南無阿弥陀仏」と彫られた笠塔婆型の1基がある。いずれも大井村の念仏講が造立した。来迎院には創建当時から大井地域に所在する寺院の中で、唯一古文書の存在が確認されている。


品川資料館

庭園(住居跡)

池上通りに出ると品川資料館が通り沿いにある。品川宿の歴史をジオラマで知り、関東大震災、大森貝塚の歴史を学べる品川の歴史、品川の歴史を語るとき、知る上でのは必見の貴重な資料館である。

資料館を出ると香取神社がある。タブの大木2本とアカガシが大井地区の文化財になっている。



大森貝塚遺蹟公園
 
モース博士胸像
   
貝塚説明版

大森貝塚遺跡公園は大森貝塚の遺跡を紹介している。公園の中央には大森貝塚の発見。発掘をあひたモース博士の胸像が建てられている。
エドワード・シルベスター・モース(Edward Sylverster Morse 1838
1925)は、アメリカ人の動物学者で貝の研究をしていた。1877年(明治10)腕足類という貝の研究のため来日し、横浜から東京に向かう汽車の窓から貝層を発見した。発掘は1877(明治10)年9月から12月に行われた。1879年(明治12)には日本初の発掘報告書である“Shell Mounds of Omori”を出版した。この発掘は日本初の学術的発掘であり、このことから大森貝塚は「日本考古学発祥の地」と呼ばれている。その後、1984年と1993年の遺跡庭園整備などの発掘調査が行われ、住居址や土器・装身具・魚や動物の骨などが大量に見つかった。1984年、1993年の発掘資料のいくつかは、品川歴史館に展示されている。


土地由来(児島惟謙)

ビルの谷間の小さな公園の前に児島惟謙(これかた)の案内板がある明治時代の日本の司法官で政治家。大津事件の際には、大審院長として司法権の政治部門からの独立を守り抜き「護法の神様」などと高く評価された。この小島惟謙の功績でかげで日本が法治国家として認められた。


大森貝塚碑

大森貝塚碑

JR大森駅手前のビルの谷間の階段下にビルと線路に挟まれ建てられている「大森貝塚碑」を見て、大森駅に向かう。
大田区の「大森貝墟碑」の除幕式は昭和年であった。1年前には品川区に「大森貝塚碑」が建てられた。どちらがモースの発掘現場かは長くわからなかった。昭和52年に見つかった「モースが発掘のさい、地主と交わした文書」ようやく大森貝塚の位置が確認され、品川区の大森貝塚碑と確認された。


鎧掛け松案内板

考古学発祥の地碑

北口には「鎧掛け松の跡」に案内がある。源義家が欧州征伐の際に休み、鎧を掛けた場所である。駅の向かいにある天祖神社にも謂れが案内されている。次回の案内になる。



                                                  
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2018. 4. 7
 鎌倉街道下道編 品川~大森
    

 第4回行程 JR品川駅…柘榴坂…アイスランド大使館前…三菱地所脇…御殿山通り…翡翠原石館…居木橋…目黒川・・
       東海寺大山墓地…御嶽橋(タケノコの碑)…日名川区役所・中央公園・・大井町駅…大井蔵王権現・・作守稲荷・・
       来福寺・・西光寺・・光福寺・・来迎院供養塔・・品川歴史館・・大井鹿島神社・・大森遺蹟公園・・小島惟謙屋敷跡
       ・・史跡大森貝塚跡・・JR大森駅