2017. 3. 4 鎌倉街道下道編 有楽町~品川 第三回行程 有楽町駅…大岡越前上屋敷跡…愛宕山…増上寺…芝東照宮…松平隠岐守屋敷跡…慶応大学図書館… 細川越中守下屋敷(大石良雄他十六人忠烈の跡)…泉岳寺…東禅寺…品川駅 |
JR有楽町駅中央口前の広場には南町奉行所跡の碑がある。江戸幕府には、江戸町奉行・寺社奉行、勘定奉行の三奉行があった。江戸町奉行所は、南北に分かれ、江戸の町における行政、司法、警察機能などを管轄し、南と北に分かれ月ごとに交代で執務していました.
1707年に、それまで常葉橋門内に置かれていた南町奉行所が数寄屋橋門内に移され、それ以降、幕末までここ有楽町に置かれていた。 現在、有楽町の駅前広場となっているエリアの再開発が着工する前に、埋蔵文化財の発掘調査が行われ、その際に南町奉行所の遺構が数多く発見された。駅前広場には、発掘によって出土した南町奉行所の石組みが再現されている。
日比谷見附から日比谷公園を抜け祝田橋交差点に出る、検察庁の前の通りを虎の門歩面に向かい弁護所為会館の前庭に大岡越前上屋敷跡の案内板がある。
大岡忠相(おおおか ただすけ)は、江戸時代中期の幕臣・大名で、8代将軍・徳川吉宗が進めた享保の改革を南町奉行として支え、江戸の市中行政に携わり、町火消しの創設、直接訴願のための目安箱の設置や飢饉対策のため青木昆陽にサツマイモ栽培を助成した。越前守だったことと『大岡政談』や時代劇での名奉行としてイメージを通じて、現在では大岡越前守として知られている。
上屋敷、中屋敷、下屋敷の違い
官庁街を南に歩くと外堀通りの交差点に出る、江戸時代には公儀隠密屋敷があった。TOTOビルから新日本石油ビルの手前あたりまでの外堀通り沿いは、かつて虎ノ門外御用屋敷があった。「御用」とは“隠密御用”のことで、それに携わる人たちは「御庭番」と呼ばれていた。8代将軍・吉宗が創設した公儀隠密組織といわれ、日本橋の浜町に御庭番の組屋敷があり、普段の住居としてこの虎ノ門外御用屋敷のほか、桜田御用屋敷など4カ所に分かれて暮らしていた。
西新橋に入るとひときわ目をひき見上げる、虎の門ヒルズのビルの前を歩く。200mほど歩くと愛宕山・愛宕神社の鳥居と見上げるような階段が右側に見える。愛宕山は標高26メートルの武蔵野台地末端の小丘である。山上に愛宕神社があり、江戸時代から愛宕山は信仰と、山頂からの江戸市街の景観の素晴らしさで有名な場所だった。明治の『鉄道唱歌』にも「愛宕の山」と歌われている。 愛宕神社は江戸の防火のために徳川家康の命で1603年に祀られた神社だったが、「天下取りの神」「勝利の神」としても知られ、各藩の者たちは地元へ祭神の分霊を持ち帰り各地で愛宕神社を祀った。 また、NHKの前身の一つである社団法人東京放送局(JOAK)は、この愛宕山に放送局を置き、1925年7月の本放送から1938年のNHK東京放送会館への移行まで、この愛宕山から発信された。太平洋戦争敗戦直後の1945年8月17日、降伏に反対する「尊攘同志会」の会員らが、山に籠城して全国に決起を呼びかけた愛宕山事件があったが、失敗に終わった。
愛宕神社の先を右に入り、愛宕隧道の先に通称猿寺と呼ばれる。栄閑院がある。寛永の頃(1624~1643年)猿回しに扮した泥棒が寺に逃げ込み、住職に改心させられ猿を置いて諸国行脚に旅立ち、人に慣れた猿は寺の人気者になったことに由来している。 寺の奥には杉田玄白の墓がある。
愛宕神社の交差点からすぐのところに、江戸府内の曹洞宗の寺院を統括した江戸三箇寺の1つであり、現在の駒澤大学の前身でもある、大きな山門の青松寺がある
東京タワーが見えてくると芝である。 増上寺は明徳四年(1393年)、浄土宗酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって開かれた。徳川家康が関東の地を治めるようになってまもなく、徳川家の菩提寺として増上寺を選んだ。(天正18年1590年)江戸幕府成立後は三解脱門、経蔵、大殿の建立などがあいついだ。 増上寺には、2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂の、6人の将軍の墓所が設けられている。また各正室と側室の墓もあり、静寛院和宮もいる。現存する徳川将軍家墓所は、家宣公の墓前にあった鋳抜門の内部に宝塔がある。 勝運を招くとされた黒本尊は恵心僧都源信の作とも伝えられ、この阿弥陀如来像を家康は深く尊崇し、陣中にも奉持して戦の勝利を祈願した。その歿後増上寺に奉納された。黒本尊の名は永い年月の香煙で黒ずんだことと、人々の悪事災難を一身に受けとめて御躰が黒くなったといわれ、家康の命名だとされている。
芝公園にある芝東照宮は、元和3年(1617)「増上寺」境内に家康の寿像を祀る社殿を竣工した。家康の戒名「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」にちなみ「安国殿」と称された。これが東照宮の起源とされる。明治になり神仏分離。「増上寺」と分離する事となり、「安国殿」は現在の「東照宮」として独立した。
桜田通りの三田一丁目の交差点から姥坂を上ると、伊予松山城主・松平定直の三田中屋敷であった所に、現イタリア大使館がある。元禄16年2月4日(1703年3月20日)江戸幕府の命令により、赤穂義士47名のうち、10名がこの庭で切腹した。中庭にはこの事件のために日伊両国語で刻まれた記念碑が建立されており、命日には歴代イタリア大使が供養をおこなっている。(預かり各藩の中泉岳寺の項に記載)
桜田通りに面した右側に慶應義塾大学の赤レンガと白を基調とした大きな建物が見えてくる。現在耐震補強工事中の慶應義塾大学の図書館旧館は、慶応義塾創立50年を記念して明治45(1912)年に竣工したものである。この建物の設計・監督は、建築家ジョサイア・コンドルの愛弟子曾根達蔵(1853-1937)と、曽根とともに建築設計事務所を構えた中條精一郎(1868-1936)である。 ジョサイア・コンドル(Josiah Conder、1852年9月28日 - 1920年6月21日) はイギリスのロンドン出身の建築家。お雇い外国人として来日し、新政府関連の建物の設計を手がけた。また工部大学校(現・東京大学工学部建築学科)の教授として辰野金吾ら、創成期の本人建築家を育成し、明治以後の日本建築界の基礎を築き、のちに民間で建築設計事務所を開設し、財界関係者らの邸宅を数多く設計した。 日本女性を妻とし、河鍋暁斎に師事して日本画を学び、日本舞踊、華道、落語といった日本文化にも大いに親しみ、趣味に生きた人でもあった。
東京都港区三田四丁目に存在する浄土宗の寺院。本尊は阿弥陀如来。江戸三十三箇所観音霊場の第26番札所である。札所本尊は亀塚正観世音菩薩。正式には周光山長寿院済海寺(しゅうこうざん
ちょうじゅいん さいかいじ)という。
伊皿子(いさらご)交差点で立派な石碑が建っている。「歯科医学教育発祥の地」の碑でである。明治に入り最初の歯科医学校として高山歯科医学院が設立され、その後の日本における歯科医学の源流となった。ここに記されている血脇守之介は茨城県我孫子宿角屋の出身であり、この学校の校長を務め、野口英雄のパトロンであったと記されている。
伊皿子交差点から500mほど歩いた所の都営高輪一丁目アパートがある。1号棟と3号棟の間の道路の先に細川越中守下屋敷跡(大石良雄他十六人忠烈の跡)がある。狭い敷地ではあるが奇麗に整備され、案内板もある。若い女性のグループが地図を片手に歩いていた。 大石良雄外十六人忠烈の跡は、かつては肥後熊本藩江戸下屋敷がここにあった。熊本藩細川家の下屋敷において赤穂浪士の大石良雄(大石内蔵助)ほか16人が切腹した場所である。 『細川や水野流れは清けれど ただ大甲斐の隠岐ぞにごれる』 松平隠岐守と毛利甲斐守は幕府や上杉のご機嫌を損じることを恐れて浪士には冷たかったようなので、それを知った江戸市民からこのような皮肉を浴びせられた。このようなことがあってから、二藩とも浪士の扱いが改善されたという。
ここから泉岳寺には街道筋を歩かず路地(近道になる)を南下する。10分ほどで泉岳寺の参道に出る。 泉岳寺は曹洞宗の寺院である。慶長17年(1612年)に徳川家康が外桜田に門庵宗関を招いて創建。寛永18年(1641年)寛永の大火で焼失したが、徳川家光の命で、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の5大名により、現在の高輪の地で再建された。赤穂事件で有名な浅野長矩と赤穂浪士が葬られていることで知られている。毎年4月初旬と12月14日には義士祭が催される。
赤穂事件とは 元禄14年3月14日(1701年4月21日)、江戸城内松の廊下で、赤穂藩主浅野内匠頭が吉良上野介に突然斬り掛かる(松の廊下事件)。事件が勅使饗応の直前だったので、将軍・徳川綱吉は殊のほか激怒し、浅野内匠頭に即日切腹を、赤穂藩にはお取りつぶしの断を下した。一方の相手の吉良上野介に対しては、手向かいしなかったため何のおとがめもなかった。この裁きを片手落ちと考えた家老の大石内蔵助以下の赤穂藩の藩士たちは激怒。無抵抗で城を明け渡すも、吉良上野介に対して密かに仇討ちを計画し、元禄15年12月14日(1703年1月30日)、大石以下47人の赤穂浪士が吉良邸に侵入、吉良を討ち取って主君の仇討を果たした。
東禅寺は臨済宗妙心寺派で慶長15年(1610年)赤坂溜池に創建され、寛永13年(1636年)当地へ移転して東禅寺と改めた。江戸末期にはイギリス公使宿館がおかれた。安政5年(1858)7月の日英通商条約により、翌6年6月6日、イギリス初代公使オールコックがここに駐在した。
文久元年(1811)5月28日夜、水戸浪士の襲撃事件、同2年5月29日夜警固士のイギリス人殺傷事件があったが、明治6年(1873)ごろまで使用された。当時、公使館に使用されたのは大厳間および書院と奥書院であったが、現在その一部である奥書院(5.4x9.0m)と玄関が旧時のままよく保存されており、そのほかは昭和初年に改築された。 |