第2回は東武浅草駅前からのスタートである。日本橋から待乳山聖天までは日光街道と同じ街道筋を南下することになる。
吾妻橋から日本橋までの画像(本文はだぶる所がありますは「いっちゃん水戸街道を歩く・・日本橋~千住」を参照してください。

吾妻橋

スカイツリー
吾妻橋江戸時代に隅田川5橋と呼ばれた中では最後に架けられ、 安永3年(1774年)に「竹町の渡し」があった所に初代の橋が架けられました。

神谷バー

電気ブランボトル

電気ブラン
東武浅草駅、松屋の前から交差点を直進する。右側には水戸街道で見学した牛久シャトーの神谷バーのビルが見える。

「駒形橋西詰」交差点右手に駒形堂がある。浅草寺の伽藍の一つで、浅草寺本尊の聖観世音菩薩が隅田川から発見された場所にあたる。
天慶5年(942年)平公雅が堂塔伽藍を建立の際、駒形堂も建立されて以来、再三の炎上に遭いながらもよみがえり、今日に至っている。現在の堂宇は平成15年(2003年11月)に建立されたもの。
犬公方で有名な五代将軍綱吉の時代、元禄6年(1693年)に建てられた魚類殺生禁断碑がある。碑文には「南は諏訪町(今駒形二丁目)より北は聖天岸(浅草七丁目)に至る十町余で殺生を厳戒」とある。
いっちゃん水戸街道を歩く・・日本橋~千住

駒形どぜう店頭
野村万太郎碑
さらに南へ進み駒形2丁目角に江戸時代の商家の姿をそのまま残す、どじょう料理で有名な「駒形どせう」がある。お客さんが数名腰掛けて待っている。駒形本店は、江戸時代の代表的な商家造り、出し桁造りを用いています。

鳥越神社

拝殿
蔵前橋を右に行くと鳥越神社がある。小さくて境内もせまいが、創建は古く白維2年(646)日本武尊を祀って白鳥神社と称したのに始まるとされ、前九年の役のおり源義家がこの地を訪れ鳥越大明神と改めたと伝わる。 

江戸時代幕府の米蔵立ち並んでいた所である。蔵前一丁目の交差点の左手は幕府の天文台があった所。案内によると・・・通りを1本隔てた区画には幕府の天文・暦術・測量・地誌編纂・洋書翻訳などを行う施設として、天文台がおかれていた。伊能忠敬は、全国の測量を開始する以前に、深川の自宅からこの天文台までの方位と距離を測り、緯度一分の長さを求めようとしたという・・・

蔵前橋にはお蔵跡と守備の松跡がある。お蔵跡は幕府の天領から集めた米の蔵があった。同じお蔵は京都・大阪にもあった。首尾の松の由来は数説あるが、吉原での遊びの首尾を語ったというのが一番わかりやすい。

通りを少し歩くと歩く須賀町交番の裏手に榊神社境内に浅草文庫跡碑場ある。浅草文庫は、明治7年(1874年)7月に創設された官立の図書館である。翌8年に開館し、公私の閲覧に供した。当時の和・漢・洋の蔵書数は十一万余冊ともいわれている。

通りを挟んだ斜向かいにの須賀神社は江戸初期より四谷の地に鎮座する、四谷十八ヵ町の鎮守様です。毎年六月に行われる御祭礼は、古くは四谷の「天王祭り」といわれ、江戸の五大祭りの一つとして有名である。  社名の須賀とは、須佐之男命が出雲の国の簸の川上に、八俣の大蛇を討ち平らげ拾い「吾れ此の地に来たりて心須賀、須賀し」と宣り給いて、宮居を占め給いし故事に基づき名付けられ名称です。

須賀神社の先、JR浅草橋駅の北に位置した、右手に銀杏岡八幡という小さな神社がある。ここは源頼義、義家にかかわりがある神社で、安倍氏討伐の為東北へ下向の際一休みをしたという場所にあたる。そんなことが鎌倉街道であったということを物語っている。
浅草橋を渡った所、左手に浅草見附跡の碑がある。「江戸三十六見附」の一つ。江戸城三十六見附:江戸城門に置かれた見附(見張り番所)のうちの目ぼしい36ヶ所を挙げたもの。

浅草橋は、浅草御門(見附)があった所で、右手一帯には郡代屋敷があった
郡代屋敷は江戸時代に、関東一円及び東海方面など、各地にあった幕府の直轄地(天領)の、年貢の徴収、治水、領民紛争の処理などを管理した関東郡代の役宅があった跡。関東郡代は、徳川家康が関東に入国した時に、伊奈忠次が代官頭に任命され、のちに関東郡代と呼ばれるようになり、伊奈氏が十二代にわたって世襲した。左側に両国橋が見える。この通りが両国広小路である。

明暦の大火(1657年)は江戸の市街の大半を焼失し10万余の死者を出した。その際このあたりで逃げ場を失って焼死するものが多数出た。このため対岸への避難の便を図り両国橋が架けられた。隅田川は当時武蔵、下総両国の境をなしていた。また延焼防止のため橋に向う沿道一帯を火除け地に指定し空き地とした。やがてこれが広小路となり江戸三大広小路の一つとして上野浅草に並び称せられる盛り場に発展した。

横山町問屋街
浅草橋南・浅草橋交差点を大伝馬・小伝馬町に向かう「横山町問屋街」の看板が見える。横山町は江戸最大の繊維問屋街として名をはせ、現在でも多数の繊維関連問屋などが集中している。
小伝馬町には江戸時代には牢屋敷があった十恩公園がある。十恩公園には銅鐘石町時の鐘・
吉田松陰終焉の地碑・杵屋勝三郎歴代記念碑・乃木希典忠魂碑などがある。ここは日光街道で見学している。旧日光街道道標・寳田恵比寿神社、於竹大日如来井戸などがある。

小津和紙資料館

小津商店の碑
街道が高速道路で遮られる右側に小津資料館がある。江戸時代の紙問屋の様子、伊勢松坂商人と江戸とのかかわりがわかります。
承応2年(1653年)小津清左衛門長弘が伊勢松坂より出府し、江戸大伝馬町(現在 本社社屋の地)に紙商を開業して以来、時代とともに私たちの生活をより豊かに発展させてきた紙と小津の歴史の関わりを展示公開する「小津史料館」を本社社屋の三階に開設しいる。現在までに東京都中央区民有形文化財として登録を受けた古文書約千点の史料を順次展示公開している。
中央通りに出ると、
十軒店跡・長崎屋跡。時の鐘跡などがある。

十軒店跡(十軒棚跡)は『寛永江戸図』に「十間たな」と記された。石町二・三丁目と本町二・三丁目に挟まれた小さな町で、日本橋通りの両側に面していた。江戸時代の初め、桃の節句・端午の節句に人形を売る仮の店が十軒あったことから、この名があるともいわれている。
長崎屋跡は
江戸時代、ここは長崎屋という薬種屋があり、長崎に駐在したオランダ商館長の江戸登城、将軍拝謁の際の定宿になりました。

江戸で最初の時の鐘は、本石町三丁目(現在の本町四丁目・室町四丁目の一部)に設置された石町(こくちょう)の時の鐘であるといわれている。江戸市中に時刻を知らせた時の鐘は、市街地の拡大にともない、浅草・本所・上野・芝・市谷・目白・赤坂・四谷などにも設けられた。

日本銀行

三越・三井本館の間の江戸通りを西へ向かう、右に日本の中央銀行日本銀行、左に日銀貨幣博物館がある。

貨幣博物館
幣博物館の所蔵資料の中核は、古貨幣収集家・研究家であった田中啓文氏(1884~1956年)が収集した銭幣館コレクションである。田中氏は、わが国の古代から近代にいたる貨幣だけでなく、中国を中心とする東アジアの貨幣や、貨幣に関するさまざまな資料を収集していた。
日銀と貨幣博物館の前に常盤橋がある。古い橋は工事中である。

常盤橋親柱

常磐橋(旧)工事中

常磐橋旧親柱
常磐橋の違い(古い方が常磐橋)は常盤橋(ときわばし; 「盤」の字は「般」に「皿」)は、東京都千代田区大手町と中央区日本橋本石町との間の日本橋川にかかる橋。別名は常磐橋(読み方は同じ; 「磐」の字は「般」に「石」)。ただし、現在は上流にある人通専用の旧橋を常磐橋、その後造られた新橋を常盤橋と読んでいる。

渋谷栄一像

渋谷栄一功労碑
日本経済の父と呼ばれる渋沢栄一の銅像は、日本橋川沿いにある常盤橋公園に立てられています。戦争による金属回収で一度は撤去されたが、昭和30年に再建された。
渋沢栄一は、日本初の銀行である第一国立銀行(現・みずほ)や東京証券取引所、東京ガス、帝国ホテル、キリンビールなど500社以上の設立に関与した大実業家でした。22歳で江戸に出て、お玉ヶ池にあった玄武館で剣術修行をしている。また、神田小川町裏神保小道に住んでいたこともあった。

平将門首塚
三井物産ビルの東側に、将門伝説の首塚がの碑が建っています。平安時代、朝廷に反逆し下総で討死した平将門の首が京でさらされ、その首を所縁の人々がもらい受け、当時の武蔵の国豊島郡平川村(皇居平河門あたり)の観音堂かたわらに埋葬したとも、怨念で京から首がこの地に飛んできたものを祀ったともいわれています。13世紀になって首塚は荒廃し、将門の亡霊は大いに怒って江戸の民に祟り、また改めて手厚く供養したといい伝説があります。 将門塚(しょうもんづか)平将門の首塚(たいらのまさかどのくびづか)とは、平将門の首を祀っている塚で、将門塚(しょうもんづか)とも呼ぶ。

日本医科歯科大学
発祥の地

石碑
日本医科歯科大学発祥地は明治42年に現在の千代田区富士見1丁目に移転し、日本歯科医学専門学校を経て昭和22年に日本歯科大学に昇格しました。

東京駅
行幸通りから

東京駅丸の内側
(北・南口)天井

原首相遭難の碑
(丸の内北口)
東京駅は1872年(明治5年)新橋から横浜間で日本初の鉄道が開業。その後、1889年(明22年)には東海道線(新橋~神戸間)が、1891年(明治24年)には東北線(上野~青森間)が開通し、次々と東京の鉄道網が整備されていくなか、中央停車場という役割を担う駅を置くことが計画され1914年(大正3年)に開業した。2012年に丸の内駅舎は開業当時の姿を取り戻し、2014年に100周年を迎えた。

行幸通り
行幸通りとは、皇居前の和田倉門から東京駅丸の内口前までを結ぶ道路の名称である。都道としては「東京都道404号皇居前東京停車場線」とされている。
行幸通りの正面は皇居である。

往時のままの詩型を残す和田倉門は元和6年(1620年)に構築され「蔵の御門」とも呼ばれ、士衆通行の橋とされていた。和田「わた」とは海の名称で「わたつみ」と同じ意義で、日比谷入江に望んで倉が並んでいたことで、慶長12年頃から和田倉と呼ぶようになった。江戸湊からの船荷を道三濠の辰ノ口で荷揚して和田倉で集積保管していた。警備は二、三万石の譜代大名が担当、鉄砲十挺・弓五張・長柄槍十筋・持筒二挺・持弓一組を常備していた。

和田倉噴水公園
 
和田倉門(門外から)
 
和田倉門(門内から)
現在の和田倉噴水公園あたりが、かつての会津藩上屋敷のあった場所である。和田倉噴水公園は、天皇陛下皇后の御成婚を記念して造られた公園である。公園辺りが会津藩上屋敷で、3代藩主松平正容から9代藩主容保(かたもり)が、江戸での政務にあたった。
和田倉門の西側に桔梗門(内桜田門)である。江戸城桔梗濠に面した門が桔梗門(ききょうもん)で、「桜田門外の変」で井伊直弼(いいなおす け)が暗殺された外桜田門に対して、内桜田門とも呼ばれています。
坂下門は内濠の蛤濠と二重橋濠の間に架かり、皇居外苑から皇居(旧江戸城西丸)に通じる土橋である。門内の近くに宮内庁があり、江戸城西丸造営直後に造られたと伝えられています。

桔梗門

二重橋

加藤清正像

西丸大奥に近く、西丸の通用門として利用されていましたが、今は宮内庁の出入口として利用されています。文久2年(1862年)1月、老中安藤対馬守がこの門外で水戸浪士に襲われた「坂下門外の変」は有名です。
「東京だよおっかさん」で有名な二重橋の先は、
桜田門外の変有名な桜田門だ、江戸城(現在の皇居)の内堀に造られた門の一つ。桜田堀と凱旋堀の間にある。昭和36年(1961年)に「旧江戸城外桜田門」として国の重要文化財(建造物)に指定された。
桜田門と内堀通りを挟んだ向かいにの
松原つづく外苑の一角に建武中興の忠臣・楠木正成公(楠公)の銅像があります。二重橋を正面に見据えるこの像は、楠木正成公が1333年(正慶2年)隠岐の島から還幸途次の後醍醐帝を兵庫の道筋で迎えた折の勇姿を象ったものです。

大手門
祝田橋は内濠に架かり、皇居外苑南側から霞が関一丁目と日比谷公園の間に通じる土橋です。明治39年(1906年)、日露戦争勝利記念の凱旋道路開通の際、架けられました。

米沢藩邸跡
桜田門のすぐそばにあった米沢藩上杉家江戸藩邸は法務省旧館レンガ、ここに米沢藩上杉家の江戸屋敷があった。米沢藩上杉家跡地を示す記念碑がある。幕末には有名な「桜田門外の変」がすぐ目の前で起こっている。

日比谷公園・水飲み場
祝田橋を渡ると日比谷公園である。ここには、長州藩上屋敷があったが・・元治元年(1864年)7月19日、京都での政界復帰をねらう長州藩は、兵力をもって強引に京都御所へ押しかけ、これを阻もうとする宮門警備の諸藩と交戦になった(禁門の変)。この騒動を受けて、幕府は全国各地の長州藩出先機関の没収・取り壊しを命じ、この長州藩桜田藩邸も翌8月に消滅してしまった。明治36年(1903年)に、ドイツ様式の近代公園として日比谷公園が誕生した。徳川家康が江戸入府したころ、現在の日比谷公園から有楽町駅の西側あたりまでは、日比谷入江という海だった。今では東京駅からまっすぐ皇居に道が続いているが、ここも海で分断されていた。家康は大工事を開始してこの入江を陸地に変えた。

伊達政宗終焉の地
江戸時代、全国の諸大名は幕府より江戸城下やその周辺に広大な居住地を与えられ、藩邸を設けていた。仙台藩江戸屋敷は、慶長6年(1601年)、仙台藩祖伊達政宗が徳川家康より江戸屋敷を与えら、その屋敷が外桜田上屋敷だった。政宗の時代には、徳川家康が三度、二代将軍秀忠と三代将軍家光はそれぞれ四度ここを訪れもてなしを受けたことが記録に残っている。伊達政宗は、寛永13年(1636年)5月、ここで70年の生涯を閉じた。「伊達政宗終焉の地」案内板が、日比谷見附跡の近くに立てられている。

日比谷御門・見附跡

日比谷見附跡は江戸城を囲む「江戸城三十六見附」のひとつで、日比谷御門があったところである。この日比谷御門だけが橋のない枡形門で、大名小路への出入り口でしたが、明治初期に撤去され、現在は石垣と塚跡が残っている。


                                          
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Blowin' in the Wind 2018
                          
いっちゃん鎌倉街道を歩く・・
2018. 2. 3

 鎌倉街道下道編 浅草~日比谷公園
    

 
第二回行程 浅草駅…駒形堂…鳥越神社…郡代屋敷跡…小伝馬町牢屋敷跡…十間店跡…日本銀行…東京駅…
         貨幣博物館…行幸通り…東京駅…松平肥後守邸跡…伊達政宗終焉の地…有楽町駅