今回は水戸街道(北千住から水戸)を歩いた後、亀有から鎌倉を目指した。スタートはJR常磐線亀有駅・・少年ジャンプの人気連載漫画「こち亀の両さん」の舞台である
完歩祈願は「足腰健康・旅の安全・交通安全、健康美脚守」が人気の地元亀有香取神社に
参拝しての歩きはじめとした。駅前・神社・商店街、街角にたくさんの両さん像がある。


亀有駅前・両さん像
 
香取神社・コマ亀

香取神社・拝殿
 
香取神社・両さん像

香取神社が亀有の地に御鎮守されたのが、鎌倉時代建治2年(1276年)8月19日である。当時は下総国葛西御厨亀無村と称し、香取大神宮の神領地であった関係から分霊を迎え、村の鎮守様とした。
こち亀」にも度々登場する亀有の総鎮守で、アリオ亀有側の鳥居の下では、全国でも珍しい「狛亀」がユニークな姿で迎えてくれる。
また、境内にある道祖神社は美脚の神様としても知られ、女性を中心に人気がある。9月に行われる例大祭では、各町内の神輿が一斉に境内へ駆け込み、その姿は壮観と言われている。


中川の渡し付近

中川の渡し
対岸の西念寺
環七通り亀有2丁目の信号を南下、「亀青小東」信号を越えると中川の上手に突き当たる。中川は船で渡るが、その地点は現在の西念寺のあたりだっただろうと云われる。
亀青小学校入口の手前で左折、住宅の中を歩く、右に修徳高校がある。京成本線突き当りまで直線が続き、住宅街の道が旧街道と云われている道である。

京成本線・お花茶屋駅

宝木八幡神社 

拝殿
京成線の線路伝いに行くと「お花茶屋駅」である。手前の道は「曳舟川親水公園」と平行した道路である。踏切を渡りすぐ右折する。まっすぐに伸びた道路(街道)の商店街を進むと、宝町に入ると左手に宝木塚八幡がある。小さい神社だが、元宝木塚村といっていたこの地域の鎮守であった。まっすぐ伸びる商店街を歩く、シャッターの下りた店も多い。

天祖神社

七福神

十二支像
妙源寺から先はラッキー通りに名前が変わる。天祖神社に立寄り立派な七福神と裏手にある十二支を参拝する。街道に戻り堀切小橋を渡り、先の堀切橋を渡る。荒川の堤防を歩き、京成堀切駅先の跨線橋を水門を見ながら渡る。

綾瀬川

荒川
荒川は元々荒川放水路といい明治から昭和にかけて掘られた人工河川なので、当然昔は存在していない。この荒川により街道は切断されている。

多門寺山門

庚申塔・石造

境内と本殿

狸塚

街の総菜屋さん
線路脇を進む、10分ほどで右の入る道の先に多門寺がある。珍しい茅葺の山門が見える。ご本尊は、隅田川七福神の一つの毘沙門天、茅葺の山門は区内最古の現存建造物で墨田区の指定文化財となっている。その他、創建にまつわる妖怪狸を供養した狸塚や、東京大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨などがある。多門寺からは住宅街の中を七福神の案内を見ながら歩く。

梅若公園・榎本武揚像

梅若塚

梅若塚

梅若公園

防災高層住宅
円徳寺脇の交差点を右折すると墨堤通りに出る。墨田2丁目信号を渡ると向島である。目の前は高層の防災住宅団地を見上げる。
9号棟の前の梅若公園に移転前の梅若塚の碑があり史跡となっている。
公園の中には
榎本武揚が建っている。武揚は幕臣の子として江戸に生まれ11歳で昌平坂学問所に学び、ジョン万次郎に英語や洋学も習う。19歳のときに箱館奉行に仕え、樺太を探険した。20歳で長崎海軍伝習所に入り、勝海舟らに軍艦の操縦や航海術などを学ぶ。186226歳のとき、オランダに留学し、5年間で航海術、造船術や国際法を学び、帰国後は幕府の海軍副総裁となった。1868年、32歳のとき、戊辰戦争が始まる。旧幕府軍の敗走で、軍艦開陽丸で箱館(函館)に向かい土方歳三らと五稜郭に立てこもる。榎本は箱館に将軍を迎えて北海道を開拓して新しい国を作ろうと考えた。自らは総裁に選ばれたが、新政府軍の攻撃を受け降伏した。明治新政府では、開拓使長官黒田清隆のもとで北海道開拓に力を尽くした。1874年にはロシア駐在公使となり、翌年ペテルスブルグでロシアとの間に樺太・千島交換条約を結んだ。晩年は向島で過ごした。この銅像は大正2年5月、旧幕臣のち代議士江原素六などの発起により、府会議員本山義成らが中心となって建立されたものであり、彫刻家藤田文蔵による。

木母寺

旧木母寺

梅若堂

梅若像

糸坪顕彰碑
公園の中を通って行く。左手の団地は都の防災計画の沿って建てられたもので壁のように連なり、一種の防火壁の役割を果たすようになっている。隅田川の東側は下総国葛飾郡で、古代東海道が西から東へ真っ直ぐ通っていて、立石から市川へ繋がる。頼朝が挙兵時に通った道という。
公園の向かいに、木母寺(もくぼじ)がある。建物は新しく、元は団地の東側の地にあったものが地域再開発(木造の建物は建築許可が下りなかった)で現在地に移転したものである。
寺は梅若伝説で有名な梅若塚がガラスに囲われていてある。句碑・記念碑も整然と並べられている。

隅田神社

石亀

拝殿
その先、右手に隅田川神社がある。神社南側は平安時代に「隅田宿」が成立していた地域で、治承4年(1180年)頼朝が布陣した所と伝わる。この神社は隅田川宿の鎮守で、源頼朝がこの地に着いて社殿を造営させたと伝えられており、この川へ橋をかけた時大きな亀が現れたという伝説がある。社殿の前に、この伝説の石の亀が狛犬の代わりに並んでいる。
公園を出て大きな通りに出る。右側は白髭橋である。「橋場の渡し」があった場所でもあり、伊勢物語の在原業平が渡った渡しであるという。白髭橋を渡った左側には、明治年(1873年)の10月、太政大臣の要職にあった三条実美が病に倒れ別邸で静養していたので、12月に明治天皇がここを訪れ見舞った「明治天皇行幸對鷗荘遺蹟」が建てられている。三条実美の別邸對鷗荘があった所である。
交差点右側奥に見える
石浜神社に寄る。頼朝の奥州征討に際しての社殿の寄進、蒙古襲来の折の必勝祈願などを経て、中世初めには大社としての発展をしたという歴史のある神社である。
これから歩く白髭橋から先の下道は後の水戸街道の基になった道である。白髭橋西詰の先に平賀源内の墓所跡の石碑が建っている。左に入り路地に「平毛源内の墓所」がある。寺は移転したが墓所だけ残っている。

平賀源内墓所

あずまや

墓碑
平賀源内は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した発明家で、エレキテル(摩擦起電機)の復元製作や、火浣布(石綿の耐火布)の発明をした。安永8年(1779)に殺傷事件を起こし、小伝馬町の牢内で獄死、この地にあった総泉寺に葬られたといい、総泉寺が板橋区小豆沢に移転した後も墓は保存され、昭和6年には松平頼壽(旧高松藩当主)により築地塀が整備され、昭和18年に国史跡に指定された。

お化け地蔵
元の道の戻り少し行くと交差点所左側に「お化け地蔵」がある。見る角度により傘の位置が変わって見えたという。今はビルの中・・確認の方法がない。

妙亀塚

板碑
この先、少しわかりにくいが、橋場1丁目28番地先の公園に「妙亀塚」がある。
この地は、かつて浅茅ヶ原と呼ばれた原野で近くを奥州街道が通じていた。妙亀塚は、「梅若伝説」にちなんだ名称である。「梅若伝説」は、我が子を探し求めてこの地まできた母親が、隅田川岸で里人から梅若の死を知らされ、髪をおろして妙亀尼と称し庵をむすんだ、という説話である。木母寺境内の梅若塚と、この妙亀塚と相対するものと考えられている。
塚の上には板碑が祀られている。この板碑には「弘安十一年戊子五月二十二日孝子敬白」と刻まれており古いものである。しかし、妙亀塚と板碑との関係は、明らかではない。

今戸神社・拝殿

招き猫

今戸焼碑

沖田総司の碑
街道に戻り、今戸に入る。縁結びに所縁がある、今戸神社がある。夫婦の神様を祀っていることから、特に縁結びにご利益があると言われるようになりました。
今戸は、招き猫発祥の地である。お守りから絵馬、ちょっと不思議な猫の石像など、さまざまな種類の招き猫が置かれている。

ここは今戸焼き発祥の地で、江戸時代には今戸焼きで焼かれた「招き猫」が大ブームになりました。本殿の拝殿にあるのは、今戸焼きでできた大きなペアの招き猫。実際は670cmもあるビッグサイズである。
沖田総司終焉の地でもあり、石碑も立てられている。
薩摩軍が江戸に引き上げた時、沖田総司の肺の病はかなり進んでおり、和泉橋の松本良順の医学所で治療を受けていたが、総司を含む患者たちは浅草今戸八幡に収容された。沖田総司は松本良順宅で療養したといわれている。
街道に出てすぐのところに、今は公園となっている山谷堀の跡がある。かつてあった東京の水路である。正確な築年数は不明だが、江戸初期に荒川の氾濫を防ぐため、箕輪(三ノ輪)から大川(隅田川))への出入口である今戸まで造られた。現在は埋め立てられ、日本堤から隅田川入口までの約700mが台東区立の「山谷堀公園」として整備されている。往時は猪牙舟と呼ばれる舳先の長い船で吉原へ通うお大臣遊びが流行ったそうだ・・
山谷堀公園のすぐ右側の小高い丘には待乳山聖天がある。本尊は十一面観音菩薩を本地仏とする聖天様(大聖歓喜天)。浅草名所七福神の一つ、毘沙門天を祀る。古くから大聖歓喜天の伝説が残り、天安元年(857年)には慈覚大師が東国巡拝の際、この地で21日の間こもって修行を行ったとされる。紋章の巾着と二股大根は、それぞれ商売繁盛、無病息災、夫婦和合、子孫繁栄を意味し、ご利益を願う参拝者が訪れる。

待乳山聖典・天狗坂

築地塀

境内

拝殿
 
参道前

神社下
池波正太郎生誕の地
 
待乳山聖の西側は日光街道である。猿若町には町内有志が立てたと言う、芝居小屋跡が石碑で残されている。
江戸時代老中の水野忠邦は風紀を引き締め、幕府の立て直しを目的として天保の改革を開始した。庶民の娯楽の歌舞伎も取締りの対象となり、歌舞伎の廃止まで検討したが、最終的には、天保13年(1842年、市街地にあった芝居小屋(中村座・市村座・河原崎座)に対し、郊外の浅草への移転を命じた。

旧猿若町の碑

中村座跡

守田座跡

市村座跡
当時を代表する俳優5代目市川海老蔵(前名7代目市川團十郎)は、贅沢な小道具や衣裳など使用したことなどを咎められ、江戸から追放を命じられた。浅草に移転した芝居小屋の周辺は、猿若町と付けられるが、当初は立地が悪いこともあり、観客もなかなか集まらなかった。しかし水野忠邦が失脚すると徐々に改革の空気も緩みはじめ、猿若町も賑わいを見せ始めた。
「言問橋西交差点」で道は合流する。右からの道は旧日光街道である。右に入ると浅草寺の門が見える。履物問屋さんの前を歩くと右側に姥が池伝説の花川戸公園がある。

花川戸公園

姥が池跡

履物問屋街発祥地碑
姥が池(うばがいけ)は、昔、隅田川に通じていた大池で、明治24年(1891年)に埋立てられた。浅草寺の子院妙音院所蔵の石枕にまつわる伝説がある。
その昔、浅茅ヶ原の一軒家で、娘が連れ込む旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がおり、ある夜、娘が旅人の身代りになって、天井から吊るした大石の下敷になって死ぬ。それを悲しんで悪行を悔やみ、老婆は池に身を投げて果てたので、里人はこれを姥ヶ池と呼んだ。


浅草寺は推古天皇36年(628年月18日の早朝、檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)の兄弟が江戸浦(隅田川)に漁撈(ぎょろう)中、一躰の観音さまのご尊像を得た。郷司土師中知(はじのなかとも:名前には諸説あり)は、聖観世音菩薩さまであることを知り帰依し、その後出家して自宅を寺とした。大化元年(645年)に勝海上人がこの地に来られ、観音堂を建立した。ご本尊をご秘仏と定め、今日までこの伝法は厳守されている。



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Blowin' in the Wind 2018
                          
いっちゃん鎌倉街道を歩く・・
2018.1.6 鎌倉街道(下道編) 亀有(水戸街道)~浅草    

鎌倉街道下道(かまくらかいどうしもつみち)と定説化されている道筋は、鎌倉から朝夷奈切通を越え、六浦津より房総半島に渡り、東京湾沿いに北上して下総国府、常陸国に向かうとされている。ほかに房総半島に渡らず、武蔵国側の東京湾沿いを北上する道筋をこう呼称する場合もある。

 
第1回行程 JR亀有駅・・・(曳舟川親水公園)・・・多聞寺・・・梅若旧塚・榎本武揚像・・・木母寺・・・白鬚橋・・・明治天皇行幸
        對鷗荘遺蹟・・・平賀源内の墓・・・妙亀塚・・・今戸神社・・・山谷堀・・・待乳山聖天・・・猿若町・・・姥ケ池跡・・・
        浅草神社・浅草寺
…東武浅草駅