Blowin' in the Wind 2018

                
いっちゃん江戸城 三十六見附を歩く・・
2018. 9.22


大手門から、いざ江戸城本丸へ 6.5Km

 半蔵門外桜田門日比谷門跡馬場先門跡楠正成像―西の丸大手門坂下門内桜田門跡和田倉門跡大手門
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大手三ノ門跡中之門跡中雀門跡北桔橋門平川門

江戸城36見附もいよいよ本丸に入る。今回は半蔵門から江戸城本丸を経て平川門まで歩いた。

外桜田門は通称「桜田門」と呼ばれるが、正式名称は「外桜田門」である。万延元年(1860年)3月3日大老丼伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」の舞台である。現存する江戸城の城門では最も大きく、国重要文化財に指定されている。一度外に出る。日比谷公園に入るとそこは長州藩邸、伊達藩邸のあった所である。日比谷門の脇には伊達政宗の案内板がある。公園の入口に日比谷門の片側が残っている。


半蔵御門

県政会館

桜田門・警視庁

旧法務省

米沢藩邸跡碑

半蔵門からジョギングの人たちが行きかう遊歩道を歩く。道路反対側には憲政会館(井伊藩邸跡)・警視庁、旧法務省(米沢藩跡)と歴史を語る建物が続く。


桜田御門

桜田御門・高麗門

桜田御門・渡櫓門

皇居・城内から

外桜田門から皇居外苑へと足を踏み入れると、風景がガラリと変わる。広々とした敷地は、かつてここが日比谷入江だった事を紡彿とさせる松林が広がる。外堀沿いを歩いて江戸城本丸を目指して歩く。ここには全く違う感動の景色が広がっている。何と言っても、片や江戸時代そのままのような広大なお城、片や巨大なビルがひしめきあう丸ノ内のビル群・・この二つの間を歩くとき、まさに時代を行き来するタイムスリップの散歩である。
日比谷門は寛永6年 (1629年)伊達政宗が築いた2つの門を直角に配置した枡形門で、門前に橋がなく日比谷濠に面した部分に仕切りがないのは、櫓から攻撃して敵を濠へ追い落とす武者落しとなっている。


日比谷公園
長州藩邸・伊達藩邸跡

日比谷御門・石垣

日比谷御門

日比谷門からお堀沿いに歩くと馬場先門ノ案内板がある。馬場先門の名前は、3代将軍家光が寛永12年 (1635年)、朝鮮人の曲馬を門内の馬場で見たことから馬場先門と呼ばれるようになったという。その後、門は閉じたままで士分の通行も許さなかったので「不開御門」(あかずのごもん)と呼ばれていた。今は御門を感じさせるものはない。


馬場崎門・石垣 

馬場先門跡碑

楠正成像

レストハウスの先の、皇居外苑の美しい自然の中に、威風堂々と皇居の方向を見て立つ楠正成像・・後醍醐天皇に献身的に仕えた事からここにたてられている。


西の丸大手門

二重橋

二重橋・西の大手門

披露広場を二重橋に向かって歩くと、西の丸大手門西の丸玄関門)がある。西の丸大手門は西の丸の正門で、現在は「正門石橋」という。江戸時代は、西の丸大手門は高麗門と櫓門が同一方向に並んだ枡形構造となっていた。その枡形をUターンする形で通称「二重橋」といわれる西の丸下乗橋(現在は正門石橋という)を渡り、西の丸玄関門から西の丸に入った。この辺の縄張りは西の丸に対する防御として2代将軍秀忠が自ら行ったといわれる。


坂下門

皇居外苑 

西の丸大手門から外苑を北に歩くと、坂下門がある。坂下門は西の丸と西の丸下を結ぶ門で、坂下に位置しているので坂下門と呼ばれる。かつては高麗門と櫓門がセットになった枡形構造だった。


桔梗門

桔梗門・巽櫓

その先の内桜田門は通称「桔梗門」とも呼ばれている。太田道灌の家紋である 桔梗が使われていたことから桔梗門と呼ばれた。大名登城ルート の正式な門は大手門とこの内桜田門っとなっていた。高麗門と渡櫓門の枡形構造となっているが、蛤濠側には仕切りの土塀がなく、枡形に侵入した敵兵は身を隠すものが無いので、城内から狙われ、濠に落とされる「外枡形」 の構造となっている。


和田倉門

和田倉門・木橋

和田倉門

石垣(仕組みが見える)

現在は和田倉噴水公園の入口にもなっている、和田倉門は元和6年(1620年) 東北の諸大名により枡形構図で構築された。「和田(わた)」 とは海を指す言葉で、日比谷入江に二棟の蔵があったことから「和田倉」と呼ばれたといわれる。大正12年の関東大震災で渡櫓門は倒壊した。高麗門は無事だつたが戦後、半蔵門に移築された。木橋は戦後復元されたもので、現在の江戸城の木橋は平川門と和田倉門の二つだけです。


大手門

櫓門

下場所・番所

内堀通りを歩くと立派な大手門が見える。江戸城の正門である。大手門をくぐったら、そこは江戸城である。
大手門は江戸城の正門で、大名たちが本丸へ登城する際の正式な出入口であった。城内に入る橋の前は「下馬所 (げばしょ)」 といい、大名以外の従者たちは馬から下りなくてはならなかつた。そして次の三の門、中の門、中雀門と合計4つの門を通り本丸御殿へと向かう。それぞれ門には番所という今でいう検問所があ り、厳しくチェックされた。大手門は慶長年間に藤堂高虎が縄張りし、その後、伊達政宗が築いたが、明暦3年(1657年)の明暦の大火で焼失、万治2(1659年)に再建された。


番所

当時は三の丸前を通り、大手三之門の前で駕籠を降り、「同心番所」に刀を預け、いざ登城である。大手三の門 ここも枡形門で、当時は門の手前に濠があり「下乗橋」と呼ばれた橋が架かつていた。大手門の「下馬」 で駕籠を降りる必要のなかつた大名も、御三家と日光門主以外は、駕籠を降りなかればならなかつたので、大手三の門は別名「下乗門」とも呼ばれた。
三の門を入ると右手に同心番所がある。番所は警備の詰所の ことで、元々は門外の濠の外にあつた。同心香所は同心が詰め、おもに登城する大名のお供の監視に当 たつていた。またこの先には場内最大の検問所である百人番所がある。


中の門

大番所

江戸城最大の検間所「百人番所」を無事に通過できたら今度は大手中之門がある。その先にはもつとも格式の高い「大番所」が風格を持つて鎮座している。御三家もここで馬を下りた。


中雀門

焼けた石垣

展望台から

くねくねと曲がる坂を登ると、最後の関門中雀門跡がある。中雀門は本丸御殿に至る最後の門で、御書院門とも呼ばれていた。高麗門と櫓門を組み合わせた枡形虎口で、当時は石段となつていた。石垣の左右には各3石ずつ礎石が残るほか、切込接(き りこみはぎ)の石垣は大き さや形の異なる石材を組み合わせた意匠性の高い造りとなつている。中雀門は、文久3年 (1863年)の火災で本丸御殿が焼けた時に類焼したため、石垣の表面は熱によリボロボロになつている。


天守閣跡を展望

天守閣跡

天守閣より

大奥・中奥を望む

天守閣の石垣

それを上りきると、ついに本丸御殿です。本丸御殿は、政庁部の表、将軍の私邸の中奥、そして将軍家の子女や正室、奥女中、御殿女中たちの居所となつた大奥の三つに分かれてい。今はその名残は全く、その空間は人々の憩いの場所となっている。そんな穏やかな広場にもの先に、江戸城の本丸跡が見える。


堀と石垣(東側)

堀と石垣(西側)

西枯橋門(正面)

堀と石垣(東側)

西枯橋門(城内から)

本丸の裏側にある西桔橋門(にしはねばし)は江戸時代、本丸から外部に直接通じる門であったため、橋を桔()ねあげて遮断していた。そのため桔橋(はねばし)門と呼ばれた。本丸と吹上方面をつなぐ場所にもあり「西桔橋門」と呼ばれている。かつては渡櫓門もある枡形虎口だったが、現在は高麗門だけとなつている。ここは本丸のすぐ近く にあるため、防備を厳重にした。石垣を高くし濠も広く深くしてある。東側の平川濠に面する石垣は水面から約21メ ートもあり、石垣の高さでは、日本屈指の一つともいわれている。


平川門(場内から)

高麗門(場内から)

不浄門(平川門)

平川門

平川門・木橋

いよいよ最後の平川門である。平川門は鬼門である北東に位置し、罪人や遺体がこの枡形の北側に位置する「不浄門」と呼ばれる高麗門から出された。赤穂事件で有名な浅野長矩も、不浄門より城外ヘ出たという。また歌舞伎役者の生島新五郎とのスキャンダルで大奥を震撼させた年寄の絵島もこの門から追放された。平川門は大奥に通じていたことから「お局門」とも呼ばれ、奥女中の通用門としても使われた。大奥の春日野局が閉門時間に遅れた時も決して開けなかったたという話もある。門前の平川橋は現在、江戸城に2つ しかない木橋の一 つで、擬宝珠は西の丸大手門に使われていたものが使われている。


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