Blowin' in the Wind 2018

                
いっちゃん江戸三十六見附を歩く・・
2018. 3.13

いざ内堀へ!徳川の恩恵を受ける首都高速 6.5Km

 日本橋⑨常盤橋門跡竜閑橋跡鎌倉橋⑩神田橋御門跡一ツ橋門跡⑫雉子橋御門跡竹橋御門跡
 
⑭清水御門
田安門千鳥ヶ淵⑯半蔵御門


今回は、五街道などの出発点日本橋からである。この橋は慶長8(1603年)に架橋され、長さ三十七間四尺五寸(68m)、幅四間二尺五寸(8m)であった。架橋された翌年の慶長(1604)には五街道(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)の起点に定められた。

日本橋

日本橋(道路起点)

日本橋川
現在の日本橋は、明治4(1911年)に架橋されたもので、設計・建築、装飾様式は妻木頼黄(つまきよりなか):辰野金吾の後輩になる)が手掛け、方錐柱には、街道松と一里塚の榎が描かれている。

高札場

焼夷弾跡

日本橋親柱

河岸跡
今回は「熈代勝覧」を見る機会があった。「熈代勝覧絵巻」とは、文化2年(1805年)頃の日本橋から今川橋までの大通り(現在の中央通り)を東側から俯瞰し、江戸時代の町人文化を克明に描いた貴重な絵巻物(作者不明)で、原画はベルリン国立アジア美術館に所蔵されている。複製絵巻の設置により、日本でも「熈代勝覧」を鑑賞することが可能になり、約17mにわたる「熈代勝覧」の複製絵巻が、東京メトロ「三越前」駅地下コンコース壁面に設置されている。

熈代勝覧
「熈代勝覧」とは、「熈(かがや)ける御代の勝(すぐ)れたる景観」という意味で、絵巻には「熈代勝覧天」と記載されており、「天地人」の全三巻の可能性がありますが、他の巻は現在所在不明です。題字は当時著名な書家であった佐野東洲の描いたもので、絵巻には沿道にあ88軒の問屋や店に加え、行き交う1671人、犬20匹、馬13頭、牛4頭、1匹、鷹2羽ならびに屋号や商標が書かれた暖簾、看板、旗、などが克明に描かれています。
素晴しい時代絵巻を鑑賞した後は、江渡桜通りから常磐橋御門へと向かう。常磐橋は現在、改修工事中である。2020年の東京オリンピック頃には往時の姿が復元される。

日本銀行

常磐橋

江戸時代

明治時代

工事模様
江戸において、家康が真つ先に作つたと言われている常磐橋御門は、天正18(1590年)架橋したといわれ、文禄4(1595年)に家康は常磐橋門外に金座を設け、金貨幣の製造や流通を後藤庄三郎光次に命じた。寛永6(1629年)に陸奥国または出羽国の大名によって改築された。 古くは外堀の正門であることから「追手口」、また浅草へ通じていることから「浅草口」などとも呼ばれていたが、三将軍家光の命により、町年寄の奈良屋市右衛門が、自宅に寄宿していた浪人に頼んでこの名を考えたとか。名の由来には『金葉和歌集』中の「色かへぬ松によそへて東路の常磐のはしにかかる藤波」〈巻第一〉によるという説、松の常磐(常葉)の様をかけて徳川(松平)が世の続<ことを願つたという説などがある。
この門は奥州道へと通じており、田安門(上州道)・神田橋門(芝崎口)・半蔵門(甲州道)・外桜田門(小田原口・旧東海道)などと共に江戸城と街道を結ぶ要衝として「江戸五口」に数えられる。

竜閑川跡

竜閑橋案内板

竜閑橋(保存)
新常磐橋交差点の先に、千代田区、中央区の境に竜閑橋という交差点がある。竜閑橋はかつてここを流れていた、竜閑川にかかる橋でした。現在、竜閑川は埋め立てられ、竜閑橋もその役目を終えたが、交差点近くの広場に一部が保存されています。 保存されているものは大正15年(1926年)3月にかけ替えられてた鉄筋コンクリートのトラス橋で、鉄筋コンクリートの橋としては日本最初のものである。(現地案内板による)

鎌河岸橋案内板

鎌倉河岸跡案内板

鎌倉橋

402号に沿って歩くと鎌倉河岸に出る、内神田1丁目界隈にあった、江戸に最初に出来た繁華街で、大手町一丁目にあった「庄内藩上屋敷」の直ぐ隣にあった。佐伯泰英『鎌倉河岸捕物控』の舞台になっている。
鎌倉河岸は家康入城のころから、この付近の河岸には多くの材木石材が相模国から運び込まれ、鎌倉から来た材木商たちが築城に使う建築部材を取り仕切つていた。そのため荷揚げ場が「鎌倉河岸」と呼ばれ、それに隣接する町が鎌倉町と名付けられた。


神田橋御門跡
案内版

首都高の神田橋出入口の下に神田橋御門があった。寛永6(1629年)に出羽国秋田藩主の佐竹義宣が築いた。歴代将軍は上野寛永寺や日光東照宮へ出向く場合に、御成道と定められた神田橋御門から筋違橋御門へ向かった。神田橋下を流れる濠は旧平川の流れで、古<は上流が上平川、下流を下平川と呼んだ。橋のたもとの鎌倉河岸で荷揚げされた木材や築城石などの建築資材は、この河岸から江戸城に搬入された。


一ツ橋御門跡

首都高の下を歩き、一ツ橋交差点のお堀に架かる一ツ橋に御門跡がある。陸奥国または出羽国の大名によって寛永6(1629年)に築かれた。
<から丸太1本の橋があったことに由来してーツ橋と呼ぶ。八代将軍吉宗次男の宗武(北の丸西・田安門)、三男宗尹(一ツ橋門9代家重の二男重好(北の丸東・清水門)の御三卿の家名はそれぞれの見附門から名付けられた。

※地名が「一ツ橋」と表記されるのに対し、御三卿の家名は一般に「―橋」と表記される。


平川門

500年記念碑

竹橋御門

一つ橋御門の先には竹橋御門が控えている。元和6(1620年)に東北の諸大名によって枡形が作られたという。この地は旧平川の流路で日比谷入江から内陸奥の船着き場で、そこに竹で組んだ竹舟橋と呼ぶ桟橋を設えたことに由来する。また梅と竹との象徴的な意味から、梅林坂近<の橋という事で竹橋となったとも言われる。明和(1769年)落雷によって竹橋門が火災を起こした記録がある。


雉子橋

雉子橋石

雉子橋御門日本橋川に架かり、一ツ橋の上流約300mの所にあった。九段南1丁目と一ツ橋1丁目の間から一ツ橋2丁目へ南北に通じている。創架年代は定かではないが、慶長期にはすでに存在していたという。枡形は陸奥国または出羽国の大名によって寛永6年に築かれた。
家康が朝鮮の来聘使を饗応するために雉子を囲った鳥小屋の所在から門名に名付けた。雉子橋御門は、入るとすぐに清水御門となっており、江戸時代より警備が厳しかった事から『雉子橋でけんもほろろに叱られる』(今井卯水)と読まれた。濠はこの先の堀留橋まで通じていた。その先は埋め立てられていたが、明治になって掘り返され小石御川門で神田川と合流し、日本橋川は運河として利用されている。


清水御門

桝形

高麗門

北の丸から

内堀通りからりっぱな清水御門が見える。寛永元年(1624年)助役大名、浅野長晟により建てられた枡形の城門で、扉釣具の銘には万治元年(1658年)とあるが、これは江戸城の総曲輪の大工事を行ったついでに、この門を修復した年であると考えられている。
名前の由来は、昔この辺りに清水が湧き出ていたというものと、その昔、天台宗山門派の祖といわれる慈覚大師が関東に下向途中、平川のほとりに寺を建立し、清水寺と名付けたとも言われている。宝暦9(1759年)九代将軍家重の第二子重好をして、この門内にー家を創立させて門名にちなんで清水家となったという。昭和36(1961年)6月7日に国指定重要文化財に指定される。
北の丸公園を歩く。武道館の建っているあたりが、田安家のあったところである。」その先には田安御門がある
田安御門
寛永6年(1629年)に松平伊予守忠昌が築いた。門内にあった田安大明神(築土明神)から名付けられた。高麗門の扉の釣金具に寛永13(1636年)の職人の銘「九州豊後住人御石火矢大工(大砲鋳造者)渡辺石見守康直」と刻まれていて、大修復工事のあったことが推察できる。<は田安門の辺りは、「田安口」、「飯田口」と呼ばれ、上州方面へ通じる道があったといわれている。
築城後、この田安台は北の丸と称し代官屋敷や大奥に使えた女性の隠遁所であり、家康の近親者の千姫、春日局、側室英照院などの屋敷もあった。享保15(1730年)八代将軍吉宗の第二子宗武は、北の丸西側―帯を所有し田安家を興した。
宗武の七男松平定信はこの屋敷で生まれた。昭和38年に田安門の修復が行われ重要文化財に指定されている。


高燈篭

大山巌像

千鳥ヶ渕

田安門を出ると内堀通りである。靖国時神社の向かいに高燈篭(常燈明台)が聳えている。

靖国神社正面の常夜灯として明治4年(1871年)に建設された。当時、九段坂の上からは、遠く筑波山や房州の山々まで見渡すことができ、品川沖を行きかう船にとっては大変良い目印として灯台の役目も果たしていた。
当初は靖国通りをはさんで反対側に建てられていましたが、道路の改修に伴い昭和5年(1930年)に現在地に移転しました。

坂を少し上った九段坂公園には大山巌像が建っている。大山巌は天保13年(1842年)の生まれで薩摩藩出身。元帥陸軍大将日露戦争では陸軍司令官、初代の陸軍大臣となり、その後参謀総長、内務大臣を勤め元老となった。九段坂を登りきると千鳥ヶ淵の展望が開けてくる。桜の時期とは全く趣は違う。


半蔵門

案内版

遠望

千鳥ヶ淵沿いの遊歩道を歩く、戦没者墓苑、千鳥ヶ淵交差点、英国大使館脇を歩き、千鳥ヶ淵公園の先に半蔵門が見える。 
半蔵門の枡形は元和6(1620)に陸奥・出羽の大名によって築かれたと言われている。その後寛永4(1627)に修築されている。大手門(追手門)と正反対の裏手に位置する搦手(からめて)門として建造された。名称については、この門の警固を担当した徳川家の家来服部正成・正就父子の通称「半蔵」の組屋敷が門前にあり、与力三十騎、伊賀同心二百名を支配していたことから、とする説と、山王祭の山車の作り物として作られた象があまりにも大きかったために半分しか入らなかったことに由来するという説がある。

半蔵門は江戸城防備の搦手門であり、かつ甲州街道(国道20)の起点である。すなわち、江戸城が有事の際に幕府の天領である甲府城へ向かう退路となる。幕府はこの麹町大通り沿い一帯に旗本屋敷を配備し、半蔵門および四谷門の濠を深くして防備を厳重にした。警備では鉄砲10挺、弓5張、長柄10、持筒2、持弓1一万石の譜代大名格が勤務、番士は4名となる。現在の門は、和田倉門の高麗門を移築してきたものである。

大手門


高麗門
大手門経由で東京駅まで戻る・・意外と距離があった。次回は総武快速・半蔵門線経由で半蔵門が良いだろう。


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