Blowin' in the Wind 2018

                
いっちゃん江戸三十六見附を歩く・・
2018. 5.13

 第二回 消えた溜池とお堀!お奉行様を訪ねて 5.5Km

 赤坂見附溜池⑨虎ノ御門⑩幸御門⑪山下御門⑫数寄屋橋御門南町奉行所⑬鍛冶橋御門道三堀―
 北町奉行所
⑭呉服橋御門一石橋金座跡―日本橋

赤坂見附の駅から地上に出るとすぐに外堀とおりに出る。ビルの谷間の通りは休日でも車の往来は多い。ホテルニュージャパンの跡はすっかり変わっている。10分ほど歩くと日枝神社の鳥居の前に出る。

赤坂の旧地名

ホテル
ニュージャパン跡

山王神社
(日枝神社)
日枝神社(山王社は)武蔵野開拓の祖神・江戸氏が山王宮を祀り、さらに文明10年(1478年)太田道濯が江戸城を築城するにあたり、鎮護の神として城内梅林坂に川越山王社を勧請した。
その後、徳川家康により紅葉山に移され徳川家の産土神となり、江戸城の拡張にあたり現在の国立劇場のあたりに移され、庶民もお参りできるようにいなり、「江戸郷の総氏神」「江戸の産神」として崇敬された。明暦の大火以降現在の地に移り、江戸城の裏鬼門を守っていた。

山王神社(日枝神社)
赤坂側参道

山門

拝殿

狛猿

山王夢御殿

江戸時代の狛犬
当時は目の前の山のふもとはお堀であり、間もな<溜池へと広がってい<様子を見る事ができた。

境内の神社

三門

山王鳥居
現在は、地名だけ残る溜池は、慶長11年(1606年)に大名の浅野行長が山王の麓に造成した人工湖のことである。東は虎の門、新橋、汐留、西は赤坂御門まで続く広々とした大沼で、神田上水や玉川上水がまだ敷設されていなかった頃は、この池の水を上水として供給していた、今回は江戸市民の水がめでもあった。
また、蓮の採取や江戸市民の行楽の名所としても知られた。三代将軍家光公に関しては「水泳を御自らなされ、溜池の内藤左馬助政長が家に成らせられしとき。または城溝にても度々浮遊し給ひし事あり」との記録も残されている。
承応年間(1652~1655年)から埋め立てが始まり、明治8~9年頃から水を落として干潟とするなどの工事が進み、明治43年に工事が終了し、池はすっかり埋め立てられてその姿は消えた。

蕎麦 黒澤

首相官邸

溜池山王
日枝神社を出て、国会議事堂・首相官邸の裏側に当たる道を歩く。著名人の通った老舗蕎麦屋「黒澤」の看板が似合う道である。
溜池山王の地下は地下鉄の連絡道になっている。都心環状線をくぐり左折すると榎坂・・右側にはアメリカ大使館が見える。警備は厳重で撮影は禁止となっている。国立印刷局・虎の門病院の脇を歩き外堀通りに出る。

虎の御門櫓跡碑

櫓跡

新聞創刊の地碑

石垣資料館

虎の門資料館(地上)
100mほど歩くと虎の御門櫓跡が見える。枡形の完成は寛永13年(1636年)だが、門そのものは慶長11年(1606年)の江戸普請の時に備前国佐賀藩主鍋島勝茂によって築かれている。門外には勘定奉行の役宅が置かれ、門の橋を通る道は、芝増上寺へと向かう御成道であった。
虎の門交差点を渡り虎の門駅の入口を入ると石垣資料館がある。ここの石垣は安山岩で造られている。
石垣のことは一目でわかるようにコンパクトに作られている。

虎の門から皇居方面

旧河岸石垣
(発掘展示)

旧河岸通り
 
内幸御門方面へ
外堀通りの一本皇居側の道は「旧河岸通り」で、往時は物資を積んだ船が往来していた。かつての外堀は埋め立てられたが、外堀沿いの道はそのまま残り「旧河岸通り」と呼ばれていた。ここには荷揚げ場が並び、多くの物資や人が行き来した賑やかな通りだったという。
この道はほぼ直線で幸橋へと向かっている。御門の跡はなく「幸橋」と「内幸町」の地名だけかろうじて残っている。

JRガード(内幸町)

内幸御門跡

新幸橋親柱
幸橋御門は肥後国熊本藩主細川忠利によって築かれた。枡形の完成は寛永13年(1636年)であった。外濠はこの幸橋御門で2筋に分かれる。―筋は北の数寄屋橋門から呉服橋門に向い江戸城を護るが渦巻き状の外濠でこれは現在線路沿いの道となっている。もう一筋は汐留川という川で、そのまま東に向かい浜御殿(現浜離宮)手前で江戸湊に流れた。この幸橋門の内側にある地域を内幸町と名付けている。

山下御門跡
(唯一残る跡)

JRガード
山下御門跡

数寄屋橋御門跡
 
数寄屋橋跡碑
 
若い時計台
高架線脇を歩く、数寄屋橋にで出る手前のガード下が「山下御門」跡である。讃岐国丸亀藩主生駒高俊によって築かれた。枡形の完成は寛永13年(1636年)であった。この門は枡形ではな<、まっすぐになっていた。この内側でお堀は右に曲がり、そこには日比谷門があったためと言われている。
ここは御門があったという痕跡は何もなくガードのレンガに書かかれた「ここは山下町」という文字だけが、御門のあったことを残すものである。
泰明小学校の裏を数寄屋橋交差点へ向かう。有楽町マリオン前あたりが「数寄屋橋門}があったところである。御門は寛永6年(1629年)に仙台藩主伊達政宗により築かれた。数寄屋橋という名前は、織田信長の弟の織田有楽斎(うらくさい)長益の数奇屋屋敷があったからと言われ、有楽町の名前も有楽斎からきていると言われるが、実はここに織田有楽斎がここに屋敷を構えていたという記録はない。

有楽町交番交番

数寄屋橋御門跡

南町奉行所跡碑

南町奉行所跡
(発掘石垣)
有楽町中央口前が大岡越前で有名な南町奉行所跡である。石垣の一部と案内板がある。
町奉行は、「老中」の配下にあり、三奉行の一つである。三奉行は「寺社奉行」「町奉行」「勘定奉行」だが、寺社奉行は大名役なので、少し格上。南町奉行の有名人と言えば大岡忠相、町奉行として、八代将軍吉宗公の享保の改革を支えた功績が評価され、大名へと出世した人物である。

旧商家

京橋親柱

京橋交番

京橋親柱

江戸歌舞伎
発祥の地碑
有楽町駅から外堀通りに出て、東京駅に向かうと鍛冶橋交差点にぶつかる。ここに鍛冶橋御門あり、現在は案内板が残っている。

千葉定吉道場跡

道三堀跡

鍛冶橋御門跡
この御門の枡形を完成させた大名は陸奥か出羽と言われているが不明である。外堀の外側が鍛冶屋職人の住む鍛冶町であったことから名付けられた。まさし<職人街と城を結ぶ橋だったといる。江戸屈指のお抱え絵師狩野探幽は京都から家康に招かれ、鍛冶橋門外に屋敷を拝領し鍛冶橋狩野家をおこした。
この先にはかつては人工の運河があった。道三掘と呼ばれ、天正18年(1590年)、徳川家康の命により、江戸城へ物資を運ぶ船入り堀として、日比谷入江に流れ込む平川(日本橋川)の河口部から呉服橋門まで開削された運河である。人工の水路として江戸に初めて造られた堀である。南岸に幕府の侍医、曲直瀬道三家の屋敷があったことから、道三堀と呼ばれた。
江戸城への輸送路として活用されたが、明治43年(1909年)に埋立てられた。

北町奉行所跡碑

北町奉行所跡
(発掘石垣)
長い年月を経て改装された東京駅にも多くの遺構が残されている。北町奉行所跡もその一つである。江戸町奉行所は南北2ヶ所あり、月番制によって交互に業務を行っていた。これは民事訴訟の受付を北と南で交替で受理していたことを指すものであり、月番でない奉行所は、月番のときに受理して未処理となっている訴訟の処理等を行った。ただし、商業に関することだけは南北で窓口が分けられており、呉服・木綿・薬種問屋の案件は南町奉行所、書物・酒・廻船・材木問屋の案件は北町奉行所といったようにそれぞれ違う業種を受け持っていた。

呉服橋交差点
東京駅を出ると呉服橋交差点に出る。ここにあったのが呉服橋御門で、寛永6年(1629年)に陸奥国または出羽国の大名によって枡形門が築かれた。呉服橋門は濠の外域に幕府御用達の呉服商が多<住んだことで名付けられた。ここに屋敷を構えていた後藤家は、徳川家康が岡崎城に在住当時から呉服御用達を勤め、また家康の側近として緒事御用を勤める特権商人であったとしている。三代将軍徳川家光の時代、寛永4年(1627年)に二代目後藤忠正の次男益勝が縫殿助(ぬいのすけ)を名乗り四代目となり、以後代々縫殿助を襲名した。
残念ながら呉服橋門跡を示す遺構は何も無い。日本橋方面と大手町を結ぶ永代通りの交差点と、首都高速の呉服橋ランプに名を残すのみである。

日本銀行
呉服橋の先には、貨幣博物館・日本銀行がある。日本銀行はかつての金座跡に建っている。
江戸幕府の金貨鋳造所で、勘定奉行の管轄下にあった。文禄4年(1595年)徳川家康が後藤庄三郎光次を江戸に招いて小判を鋳造させたのに始まり、駿府・京都・佐渡にも設けられたが、その後、江戸に統合された。明治2年(1869年)造幣局の設置に伴い廃止された。
日本銀行本店本館は、小判を造っていたこの金座の跡地で、現在は紙幣の発行元の日銀になっている。

日本橋
 
 
江戸桜通りを歩き、その先に日本橋がある。慶長8年3月3日(1603年4月14日)着く側家康の全国道路網整備計画に際し、初代の橋(木造の太鼓橋が架けられた。日本橋川に架かる国道の橋である。現在の橋梁は1911年に完成し、国の重要文化財である。また、日本の道路元標があり、日本の道路網7路線の起点として、橋の中央に「日本国道路元標」が埋め込まれている。
現在の橋は19代目または20代目にあたるとされる。明治36年(1903年)の市区改正計画により、幅6間以上の橋梁は鉄橋もしくは石橋を架設することに定められたため、木造だった以前の橋(明治5年築)に替わり、大都市東京にふさわしい新たな橋として明治41年(1908年)に着工、明治44年(1911年)に完成した。
石造二連アーチ橋で橋の長さ49m、幅27m、設計は米本晋一、橋柱の銘板にある「日本橋」の揮毛(記号)は徳川慶喜のものである。
北側部分を原寸で復元したものが江戸東京博物館に展示されている。

 



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