Blowin' in the Wind 2018

                
いっちゃん江戸三十六見附を歩く・・

江戸城三十六見附(えどじょうさんじゅうろくみつけ)
 江戸城門に置かれた見附(見張り番所)のうちの目ぼしい36か所を挙げたものである。

 見附とは、本来、街道の分岐点など交通の要所に置かれた見張り所に由来する言葉で、城門を警護する番兵が通行人を見張る場 所のことを言い、とくに、枡形をもつ城門の監視場所を指した。
 俗に江戸城には
36見付があったといわれ(江戸城三十六見附)、現在も四谷見附・赤坂見附など、地名として残っている。

 実際には、江戸の城門の見張り場所自体はもっと多数あったようだが(66、90など諸説あり)、枡形門を持つ見附は、幕府 作事方の資料によると外曲輪に26門あり、内曲輪にいくつあったかは明らかになっていない
 語呂の関係から、枡形の26門に、目ぼしい10門を足して「三十六見附」とし、江戸の名所として喧伝されたようである。

2018. 3.13

 第一回 江戸城の大外堀「隅田川」から「神田川」へ 6Km

   両国橋柳橋①浅草橋御門柳森神社万世橋―②筋違御門聖橋御茶ノ水橋水道歴史館忠也坂
     神田上水懸樋跡③小石川御門―飯田橋

江戸城36見附を歩く・・3月13日(火) 浅草見附から小石川御門まで

江戸時代、260年以上続いた徳川幕府の居城となった江戸城は、現在の千代田中央区のほぼ全域に渡る、巨大な城郭都市をなしていました。その広大なエリアは外堀で囲まれ、その外堀は徐々に内側へと「の」の字を描きながら入り込み、城の内郭へと続きます。その堀には橋がかけられ、袂には頑強な石垣に支えられた門が設置され、番人が詰め、往来する人々を厳しく監視し、江戸城内を護っていました。それが「見附」です。


両国駅・江戸のれん

実物大の土俵

JR総武戦両国駅がスタートとなる。歴史ある両国駅の旧駅舎に、江戸の町屋を意識した吹抜け空間が広がり・・粋な江戸の食文化を楽しむ12の和食店があります。

駅前の通りの正面には回向院がある。


回向院・三門

力塚

塩地蔵

ねずみ小僧の墓

オットセイの墓

回向院は、明暦3年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院である。明暦の大火により亡くなった多くの身元や身寄りのわから ない人々を、時の将軍四代家綱が「手厚く葬るように」と隅田川の東岸に土地を与え、「万人塚」を築いたのが始まりという。「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くもの」が回向院の理念である。
江戸後期になると、回向院境内で勧進相撲が行われ、明治末期までの76年間、いわゆる「回向院相撲」の時代を日本相撲史上に刻んだ。


両国橋脇の古建物

両国橋案内板

両国橋(両国側から)

下総と武蔵を分ける両国橋の創架年は、万治2年 (1659年)と寛文元年(1661年) の2説があり、千住大橋に続いて隅田川に2番目に架橋された。長さ94間 (約200m)幅4間(8m)あった。
名称は当初「大橋」と名付けられていた。しかし西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていたことから、俗に「両国橋」と呼ばれ、元禄6年(1693年)に新大橋が架橋されると正式名称となった。位置は現在よりも下流側であったらしい。


両国広小路の碑

柳橋

親柱

神田川(昔の面影)

佃煮・小松屋さん
両国橋を渡ると両国広小路、江戸の初めの頃は江戸城防備のため、隅田川への架橋は千住大橋以外認められていなかっ た。しかし、明暦3年(1657年)の明暦の大火(通称:振袖火事)の際に、橋が無く逃げ場を失った 多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人に及ぶ死傷者を出した。この事により、防火・防災目的のために隅田川に二番目の橋「大橋(後に両国橋となる)」が架けられ、橋の袂には火除地が設けられた。
これを「広小路」という。
ここ両国広小路には普段から人々が集まり、屋台の店や芝居小屋、土弓場(土弓を射させる遊戯場・矢場)、茶店などが開き、江戸最大の盛り場とも言われるようになった。

浅草橋(旧町名案内)

浅草見附跡

関東郡代屋敷跡

見附石垣の石

神田川に架かる柳橋を渡り、川沿いに歩くと浅草橋御門(浅草見附の碑がある。江戸の北東を守る位置にあるため、防衛上の要であり、また、日光街道や奥州街道へとつながる門であったため交通の要所でもあった。
門を構築したのは越前国福井藩主松平忠昌(徳川家康二男結城秀康の子)であった。寛永13年(1636年)に構築された。城門の中では最後にできた枡形の一つである。
浅草橋を渡ると関東郡代屋敷跡の案内板がある。郡代屋敷跡、郡代とは、幕府直轄領の行政・裁判・年貢徴収、警察までを担当する総統括である。ここは関東郡代(その他に西国郡代、飛騨郡代、美濃郡代などが置かれた)の屋敷跡がった。 関東郡代は代々伊那氏が世襲した。屋敷は、はじめは常盤橋門内にあったが、明暦の大火以降、この場所に移った現在は石碑が立っているだけである。


柳原周辺案内図

岩本町由来

呉服問屋跡案内版

柳原土手跡案内板

神田川沿いに柳原通りを西へ、柳原土手跡の碑がある。江戸城防衛や飲料水の確保、物資輸送など様々な用途のために開削された神田川流域には、 多くの荷揚場が設置され、職人や商人が集まるようになった。


柳原通り・問屋

町は次第に町人地となり、大きな賑いをみせるようになる。柳原土手には、古着市場が立ち、それは明治維新後も続き、発展し、東京の古着流通の最大の拠点と なつた。


柳森神社

拝殿

金比羅宮

力石

首都高1号線の手前下には柳森神社がある。長禄2年(1458年)太田道灌が江戸城の鬼門除として現在の佐久間町一帯に植樹した柳の森に鎮守として祭られたのがはじまりとされ、万治2年(1659年)に神田川堀割の際に現在地に移りました。柳の樹も堀の土手に移植され、江戸の名所になりました。境内の福寿社は「お狸さん」とよばれ、五代将軍綱吉の生母桂昌院が江戸城内に「福寿いなり」として創建したといわれています。


桂昌院・ 狸神社

おたぬきさん由来

桂昌院は八百屋の娘でしたが、春日局に見込まれ三代将軍・徳川家光の側室となりました。
「玉の輿」という言葉は、桂昌院(「お玉」が元の名前)が八百屋の娘から側室へとなったことが由来です。福寿神祠は、たぬきを祀っています。そのため、境内はたくさんのお狸様がいらっしゃいます。他を抜いて(たぬき)、玉の輿に乗った桂昌院の幸運にあやかりたいと大奥の女中衆はこぞってお狸様を崇拝したと言われています。
「玉の輿」以外にも、他を抜いて(たぬき)の語呂から、「出世開運」・「必勝勝負」。さらに、懐妊の狸像がご本尊なので、「玉の輿」以外にも「安産」のご利益もあるそうです。境内の13個の力石群が千代田区の有形民俗文化財に指定されています。


万世橋

神田川

交差点

昌平橋

山手線の高架をくぐり日本一賑やかと言われる秋葉原に入る。万世橋を渡ると旧の万世橋駅跡は整備されて、当時の様子がパネル展示されている。線路沿いに歩くと筋違御門跡だが、現在は案内板も取替工事中であった。


万世橋駅(パネル) 
 
万世橋駅跡付近

筋違橋御門跡
(案内板・工事中)

筋違橋御門(御成道:おなりみち) を構築したのは、加賀藩主前田利常(初代利家の息子)で、寛永13年(1636年)に枡形が完成し、その3年後に門ができた。この道は、将軍が上野寛永寺や日光に参詣する際に使う「御成道(おなりみち)」であった。
また、この道は中山道でもあり、さらに、ここは八つ小路と呼ばれ、筋違・昌平橋・駿河台・小川町・連雀町・日本橋通り・小柳町(須田町 )、柳原の“八つの回"、つまり、八方向へ行ける中継地点ともなつていたので、交通量も多く、また重要な門であったと言える。


淡路坂

一口太田姫神社

本尊

案内板

湯島聖堂から
昌平坂

昌平橋から一口(いもあらい)坂を登ると、聖橋・御茶ノ水駅である。

御茶ノ水駅の向かい側にはニコライ堂がある。この堂を建てたニコライ大主教の名前をとった呼称で、正しくは日本ハリストス正教会教団東京復活大聖堂といいます。建築の様式は、ビザンチン式が基本で、壁が厚く窓が小さく、中央にドームがあり、外からみると壮大で堅牢です。細かい部分にイギリスのロマネスク風やルネッサンス式が巧みに取り入れられている。イギリス人のジョサイア・コンドルが工事監督にあたった。


ニコライ堂

御茶ノ水の碑

御茶ノ水橋の脇にはひっそりと「御茶ノ水の碑」が立っている。
慶長の昔 この邊り神田山の麓に高林寺という禅寺があった。ある時、寺の庭より良い水がわき出るので将軍秀忠公に差し上げたところ、お茶に用いられて大変良い水だとお褒めの言葉を戴いた。それから毎日この水を差し上げる様になり、この寺をお茶の水高林寺と呼ばれ、この辺りをお茶の水と云うようになった。その後、茗渓又小赤壁と稱して文人墨客が風流を楽しむ景勝の地であった。

御茶ノ水橋を渡り神田川沿いを歩く、堀の深さがよくわかる所である。順天堂大学の前を北に向かい左側奥に入ると東京都水道歴史館がある。


東京都水道歴史館

江戸時代の水道
木樋

展示品

現代の水道管

1590年(天正18年)、徳川家康は江戸入府と同時に上水の建設を進めました。江戸・東京の発達の歴史は、水道の発達史でもあります。水道歴史館は、江戸時代の上水の歴史、明治時代の近代水道の創設、そして現在の東京都水道局の事業を、貴重な実物資料と再現模型等で分かりやすく展示しています。
東京水道400年の歴史を江戸時代と明治時代以降に分けて実物大模型や歴史資料、映像を用いて紹介している。玉川上水に関する歴史資料が非常に充実しており、閲覧室では東京都立中央図書館でも所蔵されていない、貴重な一次資料や二次資料が閲覧できるようになっている。
なお、博物館の裏手には、東京都水道局が管理する本郷給水所公苑があり、神田上水の石桶が保存されている。

水道歴史館は江戸時代からの水道の資料が豊富に展示されている。小伝馬町で見た牢屋敷跡の地かに残された水道設備跡を思い出した。


忠也坂

本郷1丁目にある忠也坂は、坂の上あたりに丸橋忠弥の槍の道場があって、忠弥が慶安事件で捕えられた場所にも近いということで、この名がつけられた。道場のあった場所については諸説がある。
"
慶安事件"は、忠弥が由井正雪とともに、慶安4(1651)江戸幕府の転覆を企てて失敗におわった当時の一大事件であった。
忠弥の名は、浄瑠璃や歌舞伎の登場人物としても有名である。
急坂を下り終わると、神田川沿いに出る。


旧水道橋跡

お茶の水分水路碑

神田上水縣樋跡碑

水道橋の碑

水道橋親柱

神田上水縣樋跡の石碑が川沿いにある。江戸時代、神田川に木製の樋(とい)を架け、神田上水の水を通し、神田、日本橋方面に給水していた。
明治34(1901年)まで、江戸・東京市民に飲み水を供給し続け、日本最古の都市水道として大きな役割を果たしました。
この樋は、懸樋(掛樋)と呼ばれ、この辺りに架けられていました。石碑は水道橋に近い下流の外堀通りに面したところにあり、写真説明のとおり、江戸時代、神田川に木製の樋(懸樋)を架けて神田上水の水を通し、神田、日本橋方面に給水していました。
神田上水は徳川家康が幕府を開いた当時、周りを海に囲まれていた江戸の井戸水は塩分を含んでおり、飲料水の確保が急務であった。家康は、大久保忠行に命じて神田上水を開削させた。
井の頭池、善福寺池、妙正寺池の湧水を水源とし、今の文京区の関口で堰き止め、上水と余水に分けた。上水は小石川後楽園の中を通り、現在の水道橋のところで堀の上を木樋で渡し、神田、日本橋方面へ供給された。

 
三崎神社
 
拝殿

飯田橋脇に、三崎稲荷神社画鎮座している。創建は建久年間(1190~1199年)以前とされる古社である。
社号は「稲荷神社」であるが、金刀比羅神社も合祀されていることから、「三崎神社」 とも呼ばれる。当初、和田倉(皇居外苑付近)にあったが、何回かの移転を経て現在地に鎮座された。参勤交代の藩主が到着、国へ帰る出立の時に参拝したという。


飯田橋

小石川御門跡

神田川(正面)
・日本橋川(右)

水道橋駅の後楽園口の先は神田川と日本橋川の分岐点があり、ここが小石川御門跡となる。ここも案内板は工事中だった。
小石川御門は、寛永13年(1636年)備前国岡山藩主池田光政によって構築された。飯田橋駅までの線路が敷かれている土手は、外堀の土塁跡である。神田川内側の飯田町遺跡の場所には、讃岐高松藩松平家の上屋敷があった。

今回は3ヶ所の御門(見附)跡を歩いた。残念ながら当時を偲ばせる石垣などはなかった・・次回以降の楽しみである。



                                                  目次へ
  次へ