木沢新田(吉田)一里塚は、日本橋から29里目にあたる。右塚の上には阿夫利神社の石碑が建っており、塚の脇には子安観音などの石仏や庚申塔なども集められている。塚の脇に立つ推定樹齢100年のエノキが幹の途中で切断されている。


吉田一里塚

一里塚碑

一里塚の先、旧街道との分岐、三叉路の真ん中に馬頭観音ならぬ「馬牛頭観世音」が鎮座?交通事故でか倒されたままでいる。数多の馬頭観音を見てきたが「馬牛」は初めてである。(平成23年11月までは立っていたと言う)


馬牛観世音

しばらく歩く、旧吉田小学校跡の碑が民家の中に残されている。

その先の薬王院は、かつて吉田神社の神宮寺で、天台宗の名刹である。平安時代の開基といわれ、第50代桓武天皇の勅願により、大同2年(807年)年に伝教大師最澄が創建したものと伝えられている。


薬王院・仁王門

山門

回向堂
 本堂
大イチョウ

本堂は、大同7(1527年)に焼失ののち、享禄2年(1529年)に再建され、さらに貞享3年(1686年)に水戸光圀が大修理を行い、昭和43年(1968年)にも解体修理された。銅版葺人母屋造で、室町期の建築手法を今日に伝え、国指定重要文化財である。


五輪塔

仁王門は寄せ棟造りで茅葺きの八脚門で、県指定有形文化財である。また五輸塔は水戸市指定重要となっている。五輪塔は松平亀千代丸のもので水戸藩初代藩主である徳川頼房の次男として生れた。

道なりに進むと吉田神社への女坂に出る。吉田神社の祭神は目本武尊で、創建は顕宗天皇(485年)~仁賢天皇(498年)の時代である。


神楽屋敷跡碑

吉田神社・鳥居

吉田神社

山門

本堂

お神酒・副将軍

日本武尊が東征の帰途、かってこの台地の下は海の入江で、そこに上陸し休まれたと伝えられ、目本武尊御着船の碑がある。全国の日本武尊を祀る神社では最も古く、鎌倉時代には「常陸第三宮」として多くの信仰を集めた。


光圀公お手植えの榊

縁結びの笹

地元では「吉田さん」の愛称で親しまれ、境内には光圀公お手植えの「榊」や「縁結ぴ笹」があり、この笹の葉を結ぶと良縁に恵まれると昔から言い伝えられている。

急な石段の男坂を下り、脇道に入ると備前堀が見えてくる。


金毘羅神社

拝殿

駒兎

手前には金比羅神社が鎮座している。寛文年間(1661~1673年)に個人の祀った神社がはじまりで、昭和9年に泉町内の管理となった。石碑では、社名の刀と比の字が上下に並んで一字のようになっていす。

狛犬ではなく兎、石碑に刻まれた社名の金の字が変わっています。


備前堀

銷魂橋・
江戸街道起点

銷魂橋・高札場跡

神社の先は備前堀である。水戸藩勧代藩主徳川頼房公の時代に潅漑用水と桜川・千波  湖の洪水防止のため、伊奈備前守忠次(ただつぐ)に命じ築かれた用水堀で、伊奈「備前」守忠次の名から「備前堀」という。全長約三里と言う。当時は千波湖から直接水を流していたが、大正から昭和にかけての千波湖改修により、桜川から取水するようになった。備前堀は現在でも農業用水に利用されており、酒門や浜田、常澄の水田地帯を潤している。

備前堀に掛かる銷魂橋(たまげばし)を渡った左手に「江戸街道起点」、右手に「高札場跡」の碑がある。「江戸街道起点」の碑には、「水戸~江戸間二十九里十九町(約116Km)」「江戸街道または水戸街道と呼ばれた。起点は江戸は日本橋、水戸はこの地点で、宿駅は19箇所、行程は通常二泊三日であった。」「ここで共に別れを惜しんだので銷魂橋と呼ばれた」と書かれている。


会所稲荷

井幸茶舗

陸前浜街道起点

浜田のかえる

ハミングロードから浜街道起点碑に向かう途中にある「井幸茶輔」の黒い建物がかろうじて昔の面影を残している。ハミングロードの終点の交差点に「旧本四町目陸前浜街道起点」と書かれた碑が立っている。ここを終点として歴史の道・水戸街道歩き旅のゴールである。

交差点の向かいにはには青銅でできた蛙の像がある。また、商店街の通りにもにもかわいい蛙があしらわいる。これは近くにある浜田小学校の敷地はもともと田んぼであった。学校を創る際に埋め立てを行った。この田んぼの蛙たちの犠牲を伴ってできた学校なので、学校では、今でも蛙を大切にしています。運動会の前には、蛙まつりをおこなっているそうです。

水戸街道のゴール後は、水戸藩の藩校として、水戸藩第9代藩主徳川斉昭公により天保12年(1841年)8月に創設された弘道館を見学した。


弘道館正面

表門

弘道館

左近桜

烈公梅

藩士に文武両道の修練を積ませるために、武芸一般はもとより、医学・薬学・天文学・蘭学など幅広い学問を採り入れた、いわば総合大学というべきものだった。当時の藩校としては国内最大規模のもので、全国各地の藩校建築に影響を与えた。


扁額
 
斉昭・慶喜親子像

「譲位」掛け軸

書院

至善堂

第15代将軍となった徳川慶喜公も、父斉昭公の厳しい教育方針で5歳の時から弘道館において英才教育を受けた。慶応3年(1867年)の大政奉還の後、謹慎した至善堂(しぜんどう)が今も残っている。


畳廊下

三の間から

庭園

弘道館は国の特別史跡になっており。幾度の戦火を免れた正庁・至善堂・正門の3か所は重要文化財に指定されています。


三の丸・大日本史
編纂の場所

大日本史

敷地には約60種800本の梅が植えられており、偕楽園とともに梅の名所となっている。また、平成27年4月には、「近世日本の教育遺産群」として日本遺産に認定された。以下、旧画像


大手門

三の丸

弘道館

弘道館表門

文武の弘道館に楽しみを目的としたのが偕楽園である。偕楽園は、水戸徳川藩第9代藩主徳川斉昭(烈公1800~1860年)が創設したもので、特に好文亭については斉昭がその位置や建設意匠を定めたと言われています。計画は斉昭が藩主になってから後、はじめて水戸に来た天保4年(1833年)に考えられた。

天保12年(1841年)4月から造園工事を行い、翌13年7月1日に開園となり、同月27日から公開された。武士以外の入園については、初めは神官・修験・僧侶など宗教関係者に限られていが、次第に庶民一般にも及んでいきましたが、他国の者の入園は許されていませんでした。

偕楽園の名称は、中国の古典である『孟子』の「古の人は民と偕(とも)に楽しむ、故に能く楽しむなり」という一節からとったもので、「偕楽園記」では「是れ余(斉昭)が衆と楽しみを同じくするの意なり」と、述べています。

好文亭は徳川斉昭自らが設計したもので、木造2層3階建ての好文亭本体と木造平屋建ての奥御殿から成り、各所に創意工夫と洒脱さを感じさせます。斉昭は、ここに文人墨客や家臣、領内の人々を集めて詩歌や慰安会を催しました。


                                                    おわり

Blowin' in the Wind 2018
                    
いっちゃん水戸街道を歩く・・
2017.11.18
2018.12.16


     吉田一里塚~水戸街道起点・陸前浜街道起点
   

 行程 吉田一里塚~馬牛観世音碑~吉田小学校跡碑~薬王院~吉田神社~金比羅神社~備前堀~~~~~  5Km