Blowin' in the Wind 2017
                          
いっちゃん水戸街道を歩く・・
   
2017.10. 7
2018.11.18


小幡宿~長岡宿

行程 
6号小岩戸交差点~石船神社~山中薬師本堂~小幡宿~法円寺~千貫桜碑~小幡北山埴輪製作遺跡~聖徳大神
    の道標~涸沼川~小鶴集落(看板建築と旧商家)~楠公舎:水戸藩士毛塚~長岡宿・脇本陣木村家住宅~旧旅籠
   (中夷:なかえびす)みくらや~本陣跡(残っていない)~長岡一里塚(跡はない)~県自動車学校  15Km

前回ゴールした小岩戸信号がスタートである。6号線を渡り、旧街道を歩く。まわりはのどかな風景に秋の深まりを感じる。
しばらく歩くと石船神社がある。由緒書きなどはなく、地元の人に聞いても詳しいことは判らなかった。おそらく片倉宿の石船神社と同じであろう・・。


十二夜塔碑

石船神社鳥居

石船神社

庚申塔・地蔵

路傍の庚申塔・二十夜供養塔、石仏など、柿の実、栗の実を見ながら歩くと、元西郷池小学校跡・眼病に聞くと言われた山中薬師本堂がある。眼病に霊験があるお堂である。その昔、お堂のそばに池があり、その池の水で眼を洗うと眼病が治ったという伝説があり、それから眼を患う参拝者が訪れるようになつた。


芭蕉句碑

参道から

本堂

本堂脇の池

また、お堂の中には江戸末期の作の仁王像が安置されており、文化財として地元の人々に大切にされている。
入口には芭蕉句碑がある  蝶の飛ぶば可利 野中の 日陰加那   芭蕉


法円寺・山門

本堂

境内

秋の田園地帯を20分ほど歩くと、街道の左側には法円寺がある。山門の向拝は唐獅子と牡丹、本堂の向拝には龍の彫刻がある。
千葉の寺社にあるものとは形・彫り方の違いを見ることができる。

小幡宿は水戸藩領の宿駅であったが本陣・脇本陣は無く、宿の入口にある円法寺が本陣を兼ねた水戸藩の定宿となっており、その他に問屋場1軒の小さな宿場だつた。法円寺は水戸家の旅館・本陣を兼ねていたので葵のご紋が許されていた。

余り見所もなく通り過ぎてしまいそうな小幡宿であるが、「なまこ壁の土蔵」が何棟か見られる。


聖徳大神の道標
(左端)

宿場の終わりにある三叉路に聖徳大神の道標がある。右「小幡城跡」と刻まれている。ここから約1km先に、かつて「小幡城」があった場所で、室町時代あるいは鎌倉時代に築かれたとされる小幡城の跡である。白は天正18年(1590年)に落城し、その後は城が築かれていない。


千貫桜・千貫桜碑

桜並木

しばらく歩き6号線に合流すると県立茨城東高校の近くに毎年見事な花を咲かせる桜並木のトンネルがある。雨中観桜の記事「桃源遺事」によれば、水戸城より南に当たりて、小幡というところの往還の傍らに、たくいなき桜有り・・・・・その昔、徳川光圀公が千貫の価値有りと賞され、詩を詠んだとあり、その縁により、千貫桜の地名がついたといわれています。

この千貫桜は枯れ、のにち九代藩主徳川斎昭がこの遺事を伝えるため、街道添いに植樹したと言われています。

  『春風も 心して吹け散るもよし 吹かねば辛し花の木の下』


小幡北山埴輪制作
遺構

前方後円墳(復元)

6号線沿いに歩くと「小幡北山埴輪製作遺跡」がある。「製作遺跡」と言う名前も珍しい・・埴輪製作の大規模な製作所の遺跡とのことで、一周7.5Kmの公園となっている。遺跡は、涸沼川と寛政川にはさまれた標高22.5~27mの台地にあり、古くから俗に「カベッ ト山」(壁土山)と呼ばれ、良質の粘土のとれる場所として知られていた。

昭和28年(1953年)に開墾作業中に人物埴輸、円筒埴輪、馬の埴輸などが出土し、埴輸製作遺跡として知られるようになり、最初の発見から34年後の昭和62年(1987年)に西方250m地 点から、偶然、埴輸製作の窯跡が発見された。
500mほど歩くと国道から旧道の分岐に入る、奥谷の集落に入ると左側に御霊神社があり、この辺りが小堤(奥谷)一里塚があったといわれている。奥谷の交差点を過ぎ、涸沼川を渡る。


御霊神社

拝殿

涸沼川

涸沼川を渡ると小鶴集落に入る。「佐久間米店の蔵」が立派である。亀甲模様のなまこ壁が目を引くが、二階の窓が唐破風のような造りになっているのも珍しい。


佐久間米店

佐久間米店・蔵

唐派風の窓(蔵) 

看板建築
こどもや

1軒置いた先の「こどもや」は府中宿で多く見かけた看板建築である。地元の人によると昭和初期の建物だそうだ。その先左側のたかぎ呉服店も看板建築だったそうだ・・


楠公神社・鳥居

楠公神社
(水戸藩士毛塚)

小鶴の集落を出ると「井伊直弼暗殺」の決起の場となった長岡宿に入る。烈士の固い意志(髷を切った)を祀った「楠公舎:水戸藩士毛塚」が一段高い丘の上にある。天狗党の決起から長く続いた歴史の発端になったところである。天狗党の長い争いの歴史の発端の場所である。徳川幕府の大老「井伊直弼」の動きに反対した多数の水戸藩士は襲撃を企て、長岡の地に屯集した。そのうち、高橋多一郎ら17人が浪士となり大老襲撃の武芸に励み、江戸へ向かう時、髪の毛を断ち切り、決意の証として屯集地付近に埋め成功を祈った。

万延元年(1860年)3月3日、水戸浪士等らは、丼伊大老を桜田門外において狙い討つた。

後に、長岡の住民は髪の毛を天徳寺に移して、塚と社を建て楠公社と呼ぶようになつた。大正5年(1916年)4月に、長岡青年会の発起により「桜田烈士記念碑」が建てられた。


高岡神社・鳥居

拝殿

水戸街道最後の宿場である長岡宿には旧脇本陣の木村家住宅が大切に保存されている。


木村家住宅

母屋(門側から)

玄関

母屋(庭側から)

坂道を上りきった先に見える板塀は「木村家住宅の屋敷塀」である。木村家は戦国時代からこの地に住み、江戸時代には脇本陣・問屋・庄屋を務めた名家である。事前にお願いして御当主に門を開けていただき矢引内を案内していただいた。


住宅内部
   

安政4年(1857年)の大火後に建てられた「木村家住宅」は15年ほど前に数千万円を掛けて屋根の葺き替えや傷んだ箇所の補修を行ったそうだ。これだけの建物を個人の財力だけで維持するのは大変であろう。
建物右手の「土間から部屋を見ると」囲炉裏のある板の間に続き畳部屋、さらにそのずっと先に上段の間も見える。


柏屋肥料店

みくらやから数分先の大きな屋敷の古民家は「柏屋肥料店」である。いつ頃建てられたのかは不明だが、瓦の乗った黒板塀と重厚な建物が人目を引く。
旧水戸街道は6号に合流する。バス停あたりに一里塚があったらしいが、その痕跡さえ見つからなかった。北関東自動車道のインターチェンジを超えると水戸市に入る。