Blowin' in the Wind 2017
                          
いっちゃん水戸街道を歩く・・
2017. 6. 3
2018.10.21

新治小学校入口~小岩土交差点
   

 行程 新治小学校入口(旧街道分岐)~恋瀬橋~府中宿~酒倉府中誉~北向観音~清凉寺~金比羅神社~       まちなかの登録文化財~本陣跡~照光寺~陣屋門~石岡一里塚~長屋門~加藤家復旧門・片倉宿~
    かと屋~石船神社~小岩土交差点

   

千代田一里塚を後にして、街道は新治小学校入口から分岐して旧道に入る。これまで見たことが無い石塔が2基立っている「生馬神供養塔と馬歴神」、昭和13年(1938)と刻まれている。


生馬神供養塔(馬歴神)

調べたところによると、「生馬神」とは全ての馬を慰霊する神、「馬歴神」とは中国・唐の時代に信仰された馬の守護神と言うことである。馬頭観音の代わりされたようだが一般には普及はしなかったようだ。

旧水戸街道はこの先で恋瀬橋を渡り、かつて国府があった府中宿へ入っていく。


旧恋瀬橋

恋瀬川・筑波山

恋瀬川の袂には「旧恋瀬橋」が残されている。昭和6年(1931年)に完成した橋であったが、平成13年(2001年)に、その役目を終了した。親柱と欄干の一部をこの場所に保存・展示してある。
橋の上から北西方向を眺めると「筑波山」の山容がが見える。男体山と女体山が並んで見えるが、女体山の方が僅かに高いようだ。

恋瀬橋を渡ったら国道6号を4~5分歩き、その先で国道と別れ坂道を上っていく。坂の途中からさらに左に入る道が旧水戸街道で府中宿に入ってゆく。   

常陸国の国府が置かれた場所であったことから「府中」と呼ばれていたが、慶長7年(1602年)大掾(だいじょう)政乗が1万石を与えられ府中藩を立藩してから、江戸時代を通じて府中藩と名乗っていたが、明治2年(1869年)の藩籍奉還で石岡藩に改称した。明治4年(1871年)の廃藩置県で石岡県となり、現在の石岡市に至っている。
町並みは昭和4年(1929年)の大火でほとんど焼失したが、その後に建てられた家並みが多く残っており、味わい深い町並みを見ることが出来る。


造酒屋・府中誉

表門

坂蔵

守本長郵便局手前の道を右に入ると江戸時代から続く「造り酒屋・府中誉」の酒蔵がある。安政元年(1854年)の創業というからざっと160年余りの歴史を持つ酒蔵である。東日本大震災の被害を受けたと言うが現在は復旧され操業している。
筑波山の湧き水で仕込んだという本醸造・府中誉は和釜・甑(こしき)・麹蓋(こうじぶた)・酒槽(さかぶね)という昔ながらの用具を使い、手間暇かけて醸造した酒である。


北向観音堂

本尊
 
地蔵堂
 鰐口

府中誉の隣に見えるお堂は「富田北向観音堂」である。かつては常陸総社宮の地内にあった神宮寺の観音堂だったが、元禄年間に神宮寺ともどもこの地に移された。
観音堂の先を右に入った奥は常陸大掾氏の菩提寺である平福寺がある。墓地入口には常陸大掾(だいじょう)氏墓所で五輪塔が並んでいる。常陸大掾氏は平安中頃から戦国時代にかけて常陸国で勢力を誇った豪族であったが、戦国時代の天正18年(1590年)佐竹氏の侵攻を受け滅んでいる。


青涼寺

府中藩氏の墓

佐竹藩主の墓

手塚良運の墓

街道に戻り清涼寺に参拝する。府中藩の家老や郡奉行などの墓、また、漫画家手塚治虫の先祖であり、府中藩の侍医であった手塚良運の墓もある。手塚一族の墓は東京都豊島区巣鴨の曹洞宗総禅寺にあるが、親戚筋が清涼寺の僧になった縁でこの寺に埋葬されたと推測されている。


金比羅神社・鳥居

拝殿

子規の句碑

隣に入ると石の鳥居が目に入る。金刀比羅神社の鳥居である。古代神木祭祀の時代からの由緒ある神社だが、文政10年(1827年)讃岐の金毘羅大権現の分霊を勧請し、金刀比羅神社となっている


築150年・丁子屋

店頭

店内

屋内

金刀比羅神社の隣は昭和4年(1929年)の大火で焼失を免れた「丁子(ちょうし)屋」である。江戸末期に建てられた商家建築である。現在も営業をしており、店舗内の見学も可能である。
丁子屋以外に街道時代の建物が残っていない府中宿であるが、かわりに、昭和4年の大火後に建てられた国登録有形文化財となっている商家建築(看板建築)が多く残っている。

 
旧商家家並み
火災後の昭和5年から6年にかけて建てられた登録有形文化財の建物が3軒並んでいる。

十七屋履物店(一番奥の建物)
昭和5年に建てられた木造2階建ての看板建築。この地区における看板建築の先駆けとなった

久松商店(真ん中の建物)
昭和5年頃建てられた木造2階建ての看板建築。正面外壁には銅板が張られている。


福島屋佐藤店

福島屋砂糖店(一番手前の建物)
昭和6年に建てられた木造2階建ての商家建築。大火後に伝統的商家建築の意匠で建て替えられている。


すがや化粧品店
 

すがや化粧品店
昭和5年頃建てられた木造2階建ての看板建築。古代ギリシャ建築の様式が取り入れられている。


栗山呉服店

栗山呉服店(路地を入った奥)
昭和7年頃に建てられた木造2階建て商家建築。2階正面のガラス戸に洒落た組子が使われている。


きそば・東京庵

きそば東京庵
昭和7年頃建てられた木造2階建て和風食堂建築。数奇屋風の意匠はこの地域では珍しい。


森戸文四郎商店

森戸文四郎商店
 昭和5年頃に建てられた木造2階建て看板建築。2階部分がアールデコ調の外観となっている。
この他にも登録文化財にはなってないが、金刀比羅神社前の中藤米店や、栗山呉服店の先にある菅屋など、大火後に建てられた味わい深い建物が街道沿いや裏道に沢山見られる。


喫茶四季

大和田家貸店舗(喫茶四季)
昭和5年頃建てられた木造2階建ての看板建築。コンクート様式風の柱飾りや屋根の突起物など、特異な造形である。


平松理容店

平松理容店
昭和3年に建てられた木造2階建ての看板建築。昭和四年の大火で焼失をまぬかれた建物である。


府中本陣跡

府中本陣矢口家

御幸通り角の情報センターの隣の「パンとケーキの店ヴィオレ」の付近が「府中宿本陣跡」だった。今は表示もなく痕跡も全く見られない。矢口平右衛門家が務めた本陣は水戸藩専用であった。


照光院・山門

本殿

府中藩主・松平家墓所
本陣跡の対面の土橋通りに入り、平松理容店の先、右奥の照光寺に「府中藩主松平家墓所」がある。府中松平家は水戸家と同じ定府で、江戸小石川に上屋敷があり、墓地も小石川宗慶寺であったが、大正15年(1926年)照光寺に移している。 

府中本陣陣屋門

土橋通りをさらに進むと、突き当たりに「石岡の陣屋門跡」が残されている。
陣屋門・市民会館、石岡小学校にかけては、この地の豪族・大掾氏が築いた府中城があった場所だが天正18年(1590)に落城し、この地に松平頼隆が陣屋を構えたのが元禄13年(1700年)である。
この門は文政11年(1828年)、九代藩主松平頼縄のとき建てられたもので、小石川の藩邸新築の際に余った材木で建てた物である。

石岡小学校の敷地は、八世紀初頭に常陸国の国衙(こくが)が置かれ、正平年間(1346~69年)に大掾詮国(あきくに)によって府中城が築かれ、さらに元禄13年(1700年)に松平頼隆が陣屋を置いたという、極めて稀な変遷を経た場所である。


府中国分寺

山門

本殿

六角堂

観音堂

府中国分寺・講堂跡

街道に戻り、国分町府中三丁目交差点を右へ曲がる道が旧水戸街道であるが、左へ曲がり国分寺跡へ向かう。

突き当たりに「常陸国分寺跡碑」が建てられている。国分寺跡というと、広々とした空き地を想像するが、ここは真言宗の国分寺本堂や薬師堂、墓地などがあるため想像とは違った国分寺跡であった。
薬師堂へ行く参道途中の太子堂前に「芭蕉句碑」がある。以左行ん雪見爾古呂婦所ま天 (いざいかん雪見にころぶところまで)

現国分寺の参道途中にある萱葺きの山門は、天正元年(1573年)頃に建てられた「旧千手院山門」で、千手院は大正8年(1919年)に現国分寺と合併し廃寺となっている。
現国分寺本堂横の六角堂は、江戸末期に一世風靡した寄席芸人の都々一坊扇歌を偲び、昭和8年に建立された「扇歌堂」である。
庶民に大変な人気の都々一坊扇歌
(どどいっぽうせんか)であったが、「上は金下に杭なし吾妻橋」と歌って幕府の怒りを買い、江戸追放。姉の嫁ぎ先である石岡で生涯を終わっている。

「国分尼寺跡」は広々としており、「常陸国分尼寺跡碑」と説明板のみが設置されている。
国分寺、国分尼寺は国情不安を鎮撫するため聖武天皇が天平13年(741年)に各国に建立を命じた寺院で、正式名称は国分寺が 「金光明四天王護国之寺」、国分尼寺が 「法華滅罪之寺」である。
国分尼寺は国分寺より早く衰退したことから遺跡として残るところが少ないが、手付かずで残った常陸国分尼寺跡は貴重な存在。発掘調査で建造物の位置や規模が明らかにされている。(参考文献・案内板より)


石岡一里塚

国分町府中三丁目交差点まで戻ったら東へ向って進み、常磐線の上を越えていく道が旧水戸街道である。

府中三丁目交差点から10分ほど歩くと街道の両側に塚が見えるが、ここが「石岡一里塚」である。
両側の塚が当時のまま残っているという貴重な一里塚で、左側の塚上には当時植えられた榎が大木となっている。
残念なのは右側の一里塚。塚上には推定樹齢400年というから、塚が出来たときに植えられたと思われる榎が平成14年の台風で倒木、現在の小さな榎は塚の裾に育っていた苗木を移植したそうだ。

「古都1300年の歴史と郷に出会える街・石岡」 というだけあって天平時代から平成の世までたっぷり堪能した府中宿った。

竹原宿は、元和年間(1615~1624年)に水戸街道の付け替え工事が行われたが、その際、新設された宿場で、本陣・脇本陣無く、小規模の旅籠が十軒前後あったという小さな宿場であった。現在の町並みに宿場時代の面影は見られないが、静かな町並みである。


不動堂

長屋門

石岡一里塚から30分ほど行くと「旧水戸街道」は左の旧道に入り坂を下っていく。
坂を下りきった左奥に「不動尊堂」が見える。ここには享保14年(1729年)の作と伝わる不動明王坐像が納められている。「不動明王は神輿の中に鎮座」していると言う。まさに神仏習合となっている。

不動尊堂の先から行里川(なめりがわ)の集落となるが、屋敷塀の先に立派な長屋門が残っている。
ここに限らず水戸街道沿いでは立派な長屋門をよく見かけるが、このお宅の長屋門はずば抜けて大きく、一軒の家という感じである。


行里川・筑波山

道標

その先のT字路向こう側に「道標」が1本立っている。明和7年(1770年)の建立ということは分かったが、肝心の道標部分が読み取れない。


竹原神社・鳥居

拝殿

道路標柱

地蔵・馬頭観音

街道はこの先から坂道を上って竹原宿に入っていくのだが、途中に「竹原神社」が鎮座している。ごく普通の神社だが、アワアワ祇園のとき繰り出す神輿は総欅造りの立派なものと由緒書に書かれている。
江戸時代、神輿を担いだ男たちが「アワアワ」と口にしながら川の水で身を清め、神輿を担いだのが謂れである。
竹原宿には本陣・脇本陣が無く、問屋場が竹原上郷地区に2軒、竹原新田地区に1軒あったそうだ。
上郷地区の「いのうえ食品マート」の場所がその内の一軒の「問屋場跡」である。

旧水戸街道はこの先で国道6号に合流し左へ曲がって行く。国道6号をテクテク歩く、次ぎの宿場は片倉宿である。


街道の旧家

地蔵菩薩

道標・地蔵

牛馬供養塔

馬頭観世音、地蔵尊、地蔵菩薩が並んでいる。

山の中の路、そんな雰囲気だが、すぐ右側は国道6号。ドライブインの駐車場脇に慈母観音像が祀られてている。
大正3年(1914)とある。少し歩いた先にもう一体祀られている。
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桜並木が見えたら片倉宿が近い。現在は「堅倉」と表記されている。片倉宿は本陣が無く、脇本陣1軒、旅籠10軒ほどの中規模の宿場であった。


加藤家復旧門

街道の旧家

屋敷門

なまこ壁の蔵

旧水戸街道はこの先で、国道から離れ左へ曲がって旧宿場街へと入っていく。

ほどなく「加藤家復旧門」が見られる。説明碑によると「元治元年(1864年)天狗党の焼き討ちで母屋と門を焼失してしまったが、わずかに焼け残った前柱2本を使用して復旧させた」ものである。
加藤家の隣が本田家の屋敷で、立派な屋敷塀と屋敷門が続いている。道路を挟んだ反対側にも立派な「屋敷塀」と屋敷門があり、この一角はさながら江戸時代の屋敷町、そんな風情である。
この一角に脇本陣があったということだが、表示や痕跡が見当たらないため定かではない。


片倉宿・旅籠かと屋
 

まもなく県道59号と交差する十字路に差し掛かる。その左側の建物は「旧旅籠かと屋」である。この建物がいつの時代のものか分からないが、旅籠角屋(現かと屋)の創業は江戸末期頃だという。
旧水戸街道はかと屋にそって左へ曲がっていくのだが、真っ直ぐ進む。


石船神社

秘伝・本殿

大欅

御神木

巴橋を渡って1~2分先の十字路を右に曲がると「石船(いわふね)神社」がある。由緒書きなど無いので神社の歴史は分からないが、境内に樹齢500年という御神木の大欅(けやき)が聳えている。樹高20メートル、根回りが18メートルという。
クスノキの文字を含む神を祭神とする神社だが、ここではケヤキがすばらしい。表面には小さな瘤が多数現れているが、このようなケヤキは、「玉目」のケヤキと呼ばれ、珍重されているらしい。独特の美しい木目を有するのだろうか。


牛馬供養塔

双体道祖神


旧道をしばらく歩くと道祖神と地蔵様が道端に祀られている。その先が小岩戸の交差点である。



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