Blowin' in the Wind 2018
                          
いっちゃん水戸街道を歩く・・
2017. 6. 3
2018. 9.16


土浦~千代田一里塚
   

行程 亀城公園~本陣跡~北門跡~常総筑波鉄道跡~善応寺~土浦第一高校~板谷松並木~板谷一里塚~中貫宿   ~稲吉宿~香取神社~馬頭観音~かすみがうら市~観音寺~長屋門~千代田一里塚~馬頭観音

今回のスタートは土浦城址から桜橋跡を経て旧街道へ入る。角の三菱UFJ銀行のある所は高札場跡ということだが今は特に何もない。


土浦城(亀城)東櫓

水戸街道

その先は土浦商工会議所で本陣大塚家跡の標柱が建っている。土浦宿にはもう一ヶ所本陣があり、山口家が本院であった。「土浦まちかど蔵大徳」の裏あたりにあった。旧街道はここで左に曲がる。その先、また、クランク状に曲がっている。その先の民家の空き地に「北門の跡」標柱が建てられている。


北門跡

北門跡碑

説明標柱

北門は松平信吉の時代に設けられ、水戸街道の北の守りとして、門内側のS字の街路とともに重要な役割を果たしたという堅牢な門であった。今はなき本陣から右左折を繰り返し、上浦の終点・新川橋の手前に建っている。門自体は明治6年に撤去されてしまったが、市指定の史跡に登録されている。


常総筑波鉄道跡

筑波山麓・筑波鉄道

街道沿いの旧家

新吾川橋を渡り350mほど先の関東鉄道本社の手前は常総筑波鉄道線が走っていた。現在は「りんりんロード」と呼ばれている。この鉄道は土浦駅と水戸線岩瀬駅とを結んでいた。その先は坂道となり、旧商屋風の黒塀の家が並んでいる


善応寺山門

観音堂

鐘楼・観音堂
 
ぼけ封じ

その先交差点の右側に善応寺の立派な山門が見える。本尊は大日如来で創建は南北朝だが寛文10年(1670年)土屋数直が土浦城の鬼門除けとして観音堂を寄進してから、真鍋観音として栄えている。伽藍には入母屋造り瓦葺、六間四面の本堂と三間四面、入母屋、瓦葺の観音堂がある

現在の観音堂は文化11年(1814年)に再建されたもので屋根の棟には土屋家の家紋である「三ツ石紋」が掲げられています。この寺からは幕末尊王倒幕運動に携った佐久良東雄(良哉)が出てい


照井の井戸

善応寺の石段の脇にある照井の井戸は、弘法大師ゆかりの「臼井鏡井」と呼ばれ、水戸街道を通る旅人ののどを潤してきた井戸で土浦城へ木樋で通水、土浦における上水道の始まりといわれています。今でも水を汲みに近所の人が訪れ一年中絶えることがないと看板に出ている。


真壁の旧家

坂道を上ると右側に明治37年(1904年)に建てられた旧制土浦中学校(現土浦第一高等学校)の校門が見える。本館は国指定重要文化財である。設計者は、東京帝国大学を卒業したての青年建築家駒杵勤治(こまぎねきんじ)で、平面は字型、左右対象をなし、建築様式はゴシック様式の瀟洒な建物である。


旧土浦中学校門

旧土浦中学校舎

記念館

耐震補強工事、改修工事で今までは見学不可であったが、近々、内覧会も予定されている。
車の通りの多い国道
を800mほど歩くと「板谷松並木」立て看板があり、旧街道は右手に入る。


板谷松並木

一里塚(右塚)
 
一里塚案内板
 
一里塚(左塚)

日立電線の工場側の道、約1.2Kmは松並木が残っている。昭和初期までは立派な並木と言われたが、国道拡幅工事で切り倒されたという。案内看板によると水戸街道各所にには松並木が作られたが、現在残るのはこの板谷地区のみである。松並木には「板谷一里塚」塚跡が残されている。

板谷の一里塚は日本橋から二十里の位置にある。かつて、土浦には南から荒川沖、原ノ前、大町、板谷の四ヵ所に一里塚があった。旧道街道で多くの一里塚が失われている中で、街道の両側に残る一里塚として板谷の一里塚は貴重である。


安隠寺

屋敷門

旧家

一里塚からいったん国道に戻り、1Kmほど先の左に入る道が、中貫宿に入る旧道である。江戸の千住から十二番目の宿場だった。ここは宿泊する本陣ではなく小休憩用本陣だった。本陣の建物は残るが元治元年(1864年)天狗党の焼き討ち後、すぐに再建されたものである。現在も住宅として使用されている。本陣は本橋家所有のものである。


脇本陣

道標

中貫本陣は富島酒店の向いにある。ここは街道を通る大名が休憩するための小休止本陣であった。元治元年(1864年)天狗党(別冊:水戸天狗党)の焼き討ちで焼失後すぐに再建された。寄棟造、茅葺き、平屋一部中2階。現在、屋根は銅葺きで覆われている。

式台付き玄関などが見え本陣建築が見事である。水戸街道は取手の染野家とここと稲吉の坂本家の三カ所のみが残るのみである。

旧街道と国道が合流するあたりから「かすみがうら市」に入る

霞ヶ浦に面した市、いわゆる「平成の大合併」にで、新治郡霞ヶ浦町千代田町の合併によって2005年(平成17年)に誕生した市で、市名標記としては長い。


厳島神社

拝殿

向拝の彫刻

国道を数分歩いた先の公民館脇に厳島神社の小さな社殿がある。拝殿の向拝は「蛇」が彫ってある。ここの「本殿脇障子」が素晴らしい。いつ頃の作か分からないが、かなり傷みが激しいのが残念である。
清水・上稲吉などの町を見ながら国道2Kmほど歩くと稲吉宿への入る。本陣や木村家住宅の案内看板などがあるここで、国道から分かれて斜め左に入って行く。


下稲吉一里塚

標柱

宿場風景
 
稲吉坂本本陣

本陣・玄関
 
本陣跡碑

江戸から二十一里目の一里塚である。国道から左へ入る道の土手上に「下稲吉の一里塚」と案内板がある。塚は半分削り取られ、無残な一里塚だが、かろうじて一里塚の形態が残って、案内板があるのは救いである。稲吉宿は当初からあったわけではなく、旅人の往来が多くなった万治年間(1658~1661年)に創設された宿場で、最盛期には本陣・脇本陣・問屋が各1軒、旅龍17件という中規模の宿場に発展していった。

本陣の坂本家は旗本の本堂家の領内で稲吉宿本陣を代々担った坂本家も本堂家と係わりが強かった事から家紋である「笹りんどう」が玄関屋根の上部に掲げられている。長塀は石垣の上に設けられ桟瓦葺、壁面は真壁造、白漆喰仕上、腰壁は下見板張縦押縁押えである。表門は切妻、桟瓦葺、薬医門となっている。稲吉宿本陣は数少ない本陣建築の遺構として貴な事から昭和46年(1971年)、かすみがうら市指定有形文化財に指定されている。


旅籠皆川屋

出征兵士慰霊碑 

坂本家の隣 「旅寵皆川屋」は江戸時代末期の建築で、水戸街道に残るの旅龍一つである。旅龍皆川屋は木造2階建、寄棟、桟瓦葺、桁行8間、平入、L字型に下屋庇が設けられ、2階正面の多くの面が格子戸、1階は向かって右側が出格子で他は開口部、外壁は街道から目立つ部分は真壁造、白漆喰仕上げ、見えない部分は下見板張縦押縁押えである。江戸時代後期に建てられた数少ない旅龍建築の遺構として貴重なことから昭和49年(1974年)に茨城指定重要文化財に指定されている。


旧家屋敷門

道標

街道に並ぶ黒板塀が切れた先に「道標」が1本。「清水中貫真鍋ヲ経テ土浦町ニ至ル 土田市川ヲ経テ  石岡町ニ至ル」 と読める。石岡というからには明治以降の道標である。

道標と反対側の道を入ると鳥居の先に杉並木の参道が続き、彼方に「香取神社」が見える。由緒書きが無いため神社の歴史は分からないが杉並木の参道がなんとも味わい深い。杉並木の先、境内手前を右に入ると「芭蕉句碑」が見られる。


香取神社参道

拝殿

芭蕉句碑

古の阿多利 眼爾見由類毛の 皆涼し 者せ越翁 (このあたりめにみゆるものみなすずし はせおう)


御手洗池

香取神社から街道に戻り坂道を下っていくと、神社下には御手洗池、その先には、その名も「天の川」という川を渡る。名前の云われは分からない。街道はその先で、かすみがうら市千代田庁舎横の坂道を上っていく。

上り切った右上に「馬頭観音」が2基立っている。かつては馬頭観音の前が水戸街道だったのだろう。今は道路拡張工事の際に、切通しとなってしまったため取り残されてしまったようだ。


馬頭観音
 
長屋門
 
観音寺山門
 
六地蔵

千代田支所から少し歩くと観音寺がある。山門の両脇に並んだ六地蔵が出迎えてくれる。境内左手の「不動堂」には鎌倉時代の作と推定される不動明王像が鎮座しているのだが、残念ながら拝観する事が出来ない。観音寺横の交差点際に「夫婦道祖神」が立っている。

 
谷戸のはす田

旧家・長屋門
 

坂道を下りきった所に谷戸があり、田んぼが広がっている。ほどなく上土田の集落となる。時代劇の一場面を見るような長屋塀と立派な長屋門、なまこ壁の蔵が見られる。

 
千代田一里塚入口

一里塚碑

一里塚遠望

旧街道から国道に出てインターチェンジの側道に入る。千代田一里塚は常磐自動車道千代田・石岡IC入口にあり、江戸時代のはじめ頃につくられたもので、当時一里毎に道の両側に五間(一間=1,820mm)四方・高さ一丈(一丈=十尺=3030mm)を基準として土盛りし、榎を植えて、旅人の便に供したというインタチェンジの中に残る一里塚である。一里塚(片側の実だが・・を壊さずに道路を作ったようだ。



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