ひたち野うしく駅は、1985年(昭和60年)に開催された国際科学技術博覧会(科学万博)開催時の臨時駅・万博中央駅の跡地に1998年(平成10年)3月14日開設された(万博中央駅は、1985年3月14日~9月16日の間に開設された。詳しくは「つくば科学万博の交通」を参照)。牛久市と住宅・都市整備公団(現・都市再生機構(UR))が建設費用を負担した請願駅として建設された。当初、JR東日本は採算性から新駅設置には難色を示していたが、建設費用全額を牛久市および公団が負担することで、建設に合意した。

駅前は新興住宅街として開発が進んでいる。現在の駅ができるまでは、駅付近は野原であった。最も近い集落は、東大和田、中根、下根である。
駅前は広々として開放感がある駅前を北に歩くと6号線である。すぐに土浦市の標識が見える。


当時の万博駅

ひたち野うしく駅

泉の物語
(ひたち野牛久駅)
 
荒川沖一里塚

中根一里塚 

土浦市に入るとすぐ、国道の両側に一里塚がある。左側が土浦市で「荒川沖の一里塚」右側が牛久市「中根一里塚」とあって名称が違っている。日本橋から17番目の一里塚である。中根一里塚は、道の反対側の「荒川沖一里塚(土浦市)」と対になって残されている。

中根一里塚は昭和61年、江沢大輔氏より牛久市に寄贈された。荒川沖一里塚は、街道の反対側にあり。平成10年に地主の本田春義氏より土浦市に寄贈されたものである。

牛久と土浦の境目、そして、個人から市に寄贈されたと言うそれぞれの思惑、経緯もあるようで・・その名残であろう。

八幡神社・神明神社
黒塀の旧家 荒川沖天満宮

6号線を北上すると、旧道に入る道がある。街道脇の鞘堂には、八幡神社と神明神社が祀られている。乙戸川に架かる荒川橋を渡る。
水戸街道の西側、常磐高速道あたりに乙戸沼というのがあり、そこから発している一級河川である。乙戸沼の昔は大きく、この川も水量が多く荒れたらしく地名の由来にもなっている。牛久から見て荒川の先の街・・で荒川沖と呼ばれたと言う。

荒川沖宿は千住宿から9番目の宿場町で、役人宿1軒、旅籠数軒の小さなものだった。本陣はなく、その代行役はもっぱら旧家が勤め、公用役人の宿泊には名主と問屋を兼ね、川村家が担当、一般客は松屋、おきな屋、佐野屋、二六屋、鶴屋などの旅籠が役割分担した。 また、牛久宿の協力を仰ぎながら、人足四人・伝馬二疋を配備、宿継ぎを行なっていた。


荒川沖宿・旅籠佐野屋
   
鶴屋たばこ店 
 

現在、旧道筋に2棟の大きな茅葺の民家が残されている。一棟が元旅龍の佐野屋で、郵便局の隣にあり、どっしりした茅葺屋根が特徴である。佐野屋は茅葺屋根のまま残されている。棟の端に萱で「寿・水」の字が表現されているのは火事よけのまじないである。軒先は船枻(せがい)造りになっていて、軒を深くすることで見栄えが良くなっている。

松屋、おきな屋など数軒の旅籠があったが、佐野屋の建物は今も現役の住居(旅館ではない)となっている。もう一棟は商店として使われている鶴町たばこ店である。


日先大神道標(荒川宿)

日先大神道標
(鎌倉街道)
少し行き、次の交差点先の右側に「日先大神道」と刻まれた道標が建てられている。日先(ひのさき)神社への道標である。

日先神社は大喜5年、源頼義、義家父子の軍団奥州に向かう途中当地に宿営した。夜、霊夢ありて、この地で賊徒平定の大祈願祭を厳修した。康平元年(1058年)11月其処へ社殿を創建、丸四天権現宮と尊称武甕槌命、経津主命,衡立船戸大神の三神を鎮斎した。丸四天権現宮は何時しか摩利支天さまと俗称された。(神社由緒より) (街道より離れているので、寄らなかった)
明治4年、日光神社と改称後に、日先神社と改める。6号線との合流地点には大きな赤松が聳えている。松並木の名残である。交差点の近くに一里塚(原の一里塚)があったと、記録にはあるが、それらしきものは残っていない。ここらあたりから中村宿に入る。中村宿は本陣1軒、旅籠数軒、家並み65軒ほどの小さな宿場であった。
近くに中世の幹線道路である鎌倉街道が通っていたが、水戸街道ができたことで、鎌倉街道沿いの集落の住人が移り住み宿場を形成した。


松並木跡

双体道祖神

石仏.墓石群

しかし大きく発展することなく明治を向えて宿場の機能を終了している。宿場の出口には双体道祖神が二体並んでいる。宿場ので入口にあり、悪いものが入ってこないようにと祀ったと言う。また、夫婦和合を願ったものである。


中村宿へ

街道風景

中村本陣跡
 
母屋

小さな町並みだったが、本陣があった戸記録にはある。しかし、住民の家計は苦しく藩から年賦金を拝借している家も多く、その返済に困る住民が13軒もあったという。宿場の終わり近く、東小学校の3軒手前の大きな屋敷が「中村宿本陣跡」だそうだが、代が変わり、住人が代わってしまったため本陣の面影は感じられない。


大聖寺
 
山門

四脚門

本堂

ひしくい

カサマツ

宿を出て、坂を下っていくと、広い水田地帯に出る。国道354号を超えると花室川を大川橋で渡る。この川の下流、霞ヶ浦に出る辺りに日本海軍の予科練があった。歩道のない狭い橋を渡る。左前方に小山があり、10分程歩くと大聖寺がある。広大な境内を持つ大聖寺の看板が出ている。真言宗のお寺で山門は茅葺き屋根である.。

大聖寺(だいしょうじ)は、長徳元年(995年)成尊の開山で、建造物の山門は薬医門型式で貞亨2年(1685年)に土浦城主松平信興の寄進、四脚門は江戸初期以前のもので控柱の面取りや彫られた唐草文、極(たるき)の端の反りなどに古い様式が残って土浦市の文化財となっている。現本尊は不動明王坐像で室町期のものである。四脚門を入った右側に土浦市指定の銘木で「大聖寺カサマツ」と命名された松がある。参道から境内に行く間に、四国八十八か所のミニ霊場の一部も見られた

たまたま葺替え工事中(2017年5月)で、その様子を見ることができた。


本堂のひしくい

山門の葺き替え

街道に戻り坂を上った先の国道6号を越えると、ほどなく国道354号に合流。暫くは国道を歩くことにる道を十数分歩いた先のセブンイレブン駐車場脇に「馬頭観音と道標」が建てられているが、ここは布施街道との追分であった。
馬頭観音は天保15年(1844年)に建てられたもので、側面に「水海道 布施 関宿 流山道」と刻まれており道標を兼ねている。下にある石は「右やたべ おばり ・・・・」と刻まれた道標である。


道標(馬頭観音)

この先500mほど歩くと国道は左に曲がっていくが、旧水戸街道は真っ直ぐ進み霞ヶ浦医療センターの前を通って坂を下っていく。

下る途中の道標は 「下高津の道標」 と呼ばれており、水戸街道と坂東街道との分岐点に設置されたもので、享保18年(1733)に東崎町女人講の人々によって建立されたもの。


軌道の旧家

下高津の道標

愛宕神社・鳥居
拝殿

街道は道標の前から左に曲がりながら下っていくが、その途中に鳥居があり、その先に上り階段が続いている。
階段を上ると文化8年(1811年)に再建された「愛宕神社」が鎮座している。平貞盛が東国平定を祈願して創建したとされており、江戸時代には土浦城主・土屋氏の庇護を受けたという由緒ある神社である。

 常福寺  
大イチョウ

神社裏の寺院は、平安時代初期に最澄の弟子である天台僧最仙の開基と伝えられる「常福寺」で、本尊は平安末期頃の作と伝えられる重文の木製薬師如来坐像だが、見学できないのが残念であった。


街道の旧家

街道に戻り、街道沿いの古商家・民家を眺めながら歩く、交差点を渡ると「銭亀橋」の袂に到着する。この橋がはじめて架橋されたのは慶長18年(1613年)、以来何度か架け替えられているが、木製の太鼓橋はなかなか美しかったそうだ。手前の川は備前川である。


銭亀橋

筑波山

桜川
 
銭亀橋の碑

旧家

銭亀橋を渡るといよいよ土浦城の城下町へと入っていく。土浦宿は土浦藩9万5千石の城下町で、江戸方の南門から城下に入り城郭の東側を迂回して北門までおよそ1300mあり。城下町・宿場町の他に霞ヶ浦を利用した水運の拠点としても栄えていた。 街道の両側には商家が隙間なく並び 、千住、水戸に次ぐ賑わいの商業都市であったという。桜川に架かる銭亀橋を渡り、土浦宿に入る。


土浦城南門解説版
 
南門の碑

南門土塁跡(東光寺境内)

城への南側の入口は南大門跡で、市指定史跡南門の跡と刻まれている。水戸街道を江戸に向かう土浦城の南門があった跡で、屋根の様に被さっているのは土浦境線という高架道路である。南門の入り口前には大きな馬出があった。
南門からすぐ、染谷石材店の所で道は右折し、すぐ左折する。城下町に多いクランク状の道路で枡形という。ここで敵の侵入の速度を鈍らせ、ここで迎え撃つことができる。


東光寺・本殿

瑠璃光殿

薬師如来像

辻玄順の墓

庚申塔

桝形の道の曲り角にある東光寺は慶長12年(1607年)心庵春伝(しんあんしゅんでん)によって開かれたと伝えられる。
境内にある朱塗りの建物で瑠璃光殿(るりこうでん)と呼ばれる薬師堂があり、小壁には方位に合わせて十二支の透かし彫りが施されている。市指定文化財の建造物である。
この堂前には二基の句碑が並んでいる。一つは芭蕉の句「八九間空で雨降る柳かな」で、嘉永51852)年の蕉翁百五十九年忌に建てられ、もう一方は、内田野帆(やはん)の句「声に身を持たせて揚る雲雀かな」である。さらに堂の左手には、乃木将軍外祖父の長谷川金太夫翁之墓の史蹟がある。境内には弁天堂もあり、享保7年(1722年)の建立である。
元文4年(1739年)建立の薬師堂は「東光寺瑠璃光殿」である。


南門土塁跡(東光寺境内)

本堂裏の墓地南東隅の一段高くなったところがあり、土浦城南門の土塁の遺構が一部残っている。また、土浦藩主の侍医を勤めた辻玄順(花岡青洲の弟子)の墓があり、土塁と共に土浦市指定史跡に指定されている。

寺を出ると大手町という地名になる。


等覚寺

梵鐘

案内版

大手門跡(路地突き当り)

等覚寺境内の銅鐘は、鎌倉時代作の常陸三古鐘のひとつで、国指定重要文化財です。建永年間(1206年~1207年)に八田知家が極楽寺に寄進、のち土浦城に移され、明治17年(1884年)に極楽寺ゆかりの等覚寺に移された。
街道は右折し、左折する。2番目の枡形となる。中城通りとい 通りに入るが、地名は中央1丁目という味気ない名前。この通りには歴史的な建造物が集積している。


山口薬局

蕎麦・吾妻庵

庵看板

右手に壁はタイル貼りではあるが古い建物の山口薬局があり、江戸時代に使われた道具、家財が展示されている。その先は明治初期に営業を始めた蕎麦屋吾妻庵総本店がある。一階に格子窓、二階に庵看板(いおりかんばん)が残っている。予科練の兵隊が面会に来た家族などと食事をした場所でもあった。


矢口酒店(復元)

その隣は矢口家住宅(酒店)である。土蔵造りで、店蔵(主屋)と袖蔵、別に建てられた奥の元蔵よりなる。街道に面した店蔵・袖蔵の間口は合わせて7間半あった。土浦城下の土蔵造りは、天保12年(1841年)の大火後、瓦葺などとともに防火の備えとして取り入れられたもの。建築年代は、店蔵と袖蔵が嘉永2年(1849年)元蔵が慶恵年間(1865~1867年)で、県内に現存する土蔵造りの商家建築の中では特に貴重なものとなっている.


まちかど蔵・大徳

房州石の塀
 

主人の間

控えの間

まちかど蔵・野村

酒店の隣は「まちかど蔵大徳」で、見世蔵・袖蔵・元蔵・向蔵の四つの蔵で構成され、現在、土産品の販売・資料の展示などが行われている。建築時期は、元蔵が天保13年、2回は明治時代に作られたもので、当時の贅をつくした造りの部屋を見ることができる。大正時代は呉服屋・大徳として非常に栄え、中城地区でも有数の豪商だった。


土浦城・高麗門

案内版

櫓門

掘割
(2017年5月)

本丸の塀

平城の名城と言われ、江戸時代に築かれた土浦城のうち、本丸・二の丸跡にあたる部分が亀城公園として整備され残されている。

城跡には櫓(矢倉)門が威風堂々と残っている。現存する櫓門としては関東地方唯一のもので、公園の象徴になっている。かつては水城と言われた土浦城は、何重もの掘り割りの中の本丸が水に浮かぶ亀の姿に似ていたので「亀城」とも呼ばれた。


西櫓

東櫓

シイの古木

霞門

外敵からの攻撃の防御のため湿地に壕を巡らし亀の甲のように見えたと言う。山城から生活に便利な平地へ降りてきた、先人の知恵を

ほかに復元された東・西櫓や本丸広場、県指定天然記念物のシイの木などがある。平成29年(2017年)4月に続日本100名城に選ぱれた。
城跡から駅に向かうと旧街道にぶつかる。当時は旅籠であったと思われる「ほたて屋」が当時のままの姿で営業している。店の角に「市指


ほてい屋

桜橋・親柱

案内版

なまこ壁の蔵
 

定史跡桜橋の跡」と書かれた案内標柱がある。旧桜川は、ここを流れ、ここに架かっていた桜橋の親柱である。川は暗渠になってしまい、昔の面影はない。なまこ壁の蔵を見ながら駅に向かう。


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Blowin' in the Wind 2017
                          
いっちゃん水戸街道を歩く・・
2017. 5. 6
2018. 6.17

ひたち野牛久~土浦
    

 行程 JR ひたち野牛久駅~中根・荒川沖一里塚~八幡神社~荒川橋~荒川沖宿~旅籠佐野屋・鶴屋たばこ店~
    日先大神道標~一里塚~中村宿~双体道祖神~本陣跡~大聖寺~馬頭観音~下高津の道標~愛宕神社・
    常福寺~銭亀橋~土浦宿・南門跡・東光寺・等覚寺から土浦宿の街並み・大手門跡・矢口酒店跡・まちかど蔵
    大徳・亀城櫓門~桜橋跡~ほたて屋~JR土浦駅