Blowin' in the Wind 2018
                          
いっちゃん水戸街道を歩く・・
2018. 4.22

取手~藤代宿~佐貫    

行程 
JR取手駅~片町~利根川土手~吉田神社~水屋・道標・サイカチの木~道標(土橋)~来応寺~石仏群~馬頭観音~
   
浜街道踏切~藤代宿(相馬神社・高蔵寺・藤代宿本陣跡・愛宕神社)~文巻橋(小貝川)~十一面観音堂~道標~
    JR佐貫駅 11km


3月、4月と水戸街道、取手から藤代宿、佐貫まで歩く。取手から藤代宿の区間は見所がないと言うことであったが・・やはり、なかった。取手の街は「ひな祭り」中と、案内があったがさほどの人出はなかった。


取手駅前から

案内標識

本多重次の墓

番外(下見)で本多作左衛門の墓に行ってきた。茨城県指定史跡(昭和983日指定で)徳川家の重臣で「鬼作左(おにさくざ)」と仇名された「本多作左衛門重次(ほんださくざえもんしげつぐ)」は、徳川家康の家臣で三河に生まれ、松平清康、弘忠、家康に仕えた。
天下人となった豊臣秀吉の勘気にふれ、家康もやむなく蟄居(ちっきょ)を命じ、そのままゆるされることなくこの地で亡くなりました。
日本一簡潔な手紙「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」は、重次が、戦場から妻に宛てたといわれる手紙です。要領を得た簡潔な手紙文として余りにも有名です。晩年は下総の国相馬郡井野で過ごし文禄年(1596年)7月16日、68歳で病死した。


取手駅前(3月)

水戸海道道標

阿夫利神社入口

阿夫利神社

駅前からバスに乗車、片町まで行く。前回ゴール場所からスタート、旧水戸街道は左側となる。5~6分先の道路わきに新しいものだが「水戸街道の道標が立っている。その先を左に入ると、高台にこじんまりした社殿の「阿夫利神社」が見える。神奈川県伊勢原市の大山・阿夫利神社の分神で昭和13年(1938年)に建立された。


利根川河川敷
(吉田地区から)

吉田神社(3月)

本殿(3月)

待道神社

街道に戻る、水戸街道はどういう分けか宿場以外の所で「くの字」に曲がる箇所が多い。県道11号を横断し利根川の堤防に再接近した所から左の道に入ると、細い道の奥に「吉田八幡神社」が見える。創建は永禄元年(1558年)というから450年前。以来、営々と村人に守られてきた神社である。
参道入口に可愛らしい神社が鎮座している。その名を「待道(まちどう)神社」こんな云われがあるそうだ。
妊娠した女性とそのご主人が待ち合わせをしたが、お互いに違う場所で待っていたため逢えることが出来なかった。そのうち女性は産気づき道端で赤ちゃんを産んでしまったのだった。「道で待つ」が「待道」となったと伝わっている。


街道(吉田地区)

道標・サイカチの木

サイカチの木

サイカチの実

水屋

水屋 

暫く歩くと阿夫利神社の近くで見た道標と同じ道標が建てられている。傍にそびえている大きな木は「サイカチ」の木である。
この辺一帯は土地が低く、たびたび洪水に悩まされてきた。洪水から家財・食料を守るため、土盛りをして蔵を立てた「水屋」ができた。
洪水の時はここに避難したという。


街道とサイカチの木

サイカチの木(冬)

街道(小泉地区)

取手宿を出た後は田んぼの中の真っ直ぐな道を東進する。ほどなく「旧陸前浜街道」と記された標柱が街道際に建てられている。
明治5年(1872年)、水戸街道と岩城街道を合わせて「陸前浜街道」とする通達が出されたが、明治18年(1885年)に「国道6号」と名称変更が行われたため、今は「旧陸前浜街道」と呼ばれている。
その先は田んぼの中の一本道である。所々に家はあるが、「見渡す限り真っ直ぐな道」がどこまでも続く。耕地整理された田んぼと、所々に瓦屋根の家・・街道の風景も感じられる。、田植えの頃や実りの秋には素晴らしい景色が見られるだろう。


平塚らいてう

「元始、女性は太陽だ つた」という言葉を残した「平塚らいてう」は、第2次世界大戦中、戦下を避 け取手市の小文間の地に疎開し、ここで約4年間を過ごし、執筆活動をつづけた。


土橋・道標

来應寺道標

来應寺山門(旧)

月光院の石碑

石碑碑文

如意輪観音・石仏群

かれこれ15分ほど歩いただろうか。橋の袂に「水戸街道道標」が建てられており、刻まれている文字は来應寺七丁、水戸一八里、江戸11里と。真っ直ぐな道は次の藤代宿まで続く。
来應寺は
江戸幕府6代将軍徳川家宣の側室で、7代将軍家継の生母・月光院ゆかりの寺と伝えられている。
本名は勝田輝子で、家宣が死去してから月光院と呼ばれるようになった。徳川吉宗の死を見届けた翌年、68歳でこの世を去り、「月光院理誉清玉智天大禅定尼」という法名が付けられた。和歌に優れた女性しても知られており、著書に歌集「車玉集」がある。


明治の道標
(清水地区)

馬頭観音

水戸海道道標
(教育委員会作成)

陸前浜街道踏切
(常磐線藤代駅付近)

取手吉田から藤代まで真っ直ぐな道が続く。清水丙、中田乙など変わった地名がある。JR線・6号線を渡り右折するところから

藤代宿に入る。JR踏切手前左側の街道脇にはひっそりと馬頭観音が立っている。踏切を渡り、国道6号を横断すると藤代宿が近い。旧山門脇にある石碑には寺の子女が側室にまでなった経過が書かれている。

藤代宿入口

坂本呉服店
 旧商家

藤代宿は他の宿場より少し遅れた天和年間から貞亨年間(1681~1688)にかけて指定されている。
JR藤代駅を挟んで西の藤代村と東の宮和田村に宿場があり、二宿で一つの宿場を形成していた。それぞれに本陣があったということだが、宮和田村の本陣については記録が見つからないため存在がはっきりしない。今の藤代町の町並みに宿場時代の面影はあまり感じられない。JR藤代駅から街道入り口の相馬神社へ向かう。街道はここで定石どおり直角に曲がっている。神社の前にあるのが坂本呉服店で昔からここで商いをしていると言うはなしである。


相馬神社

案内標柱 

拝殿

本殿・彫刻

本殿の彫刻(胴羽目)

左側の「相馬神社本殿」の彫刻が見事である。正面から見るとごく普通の神社だが裏に廻ると、慶応3年(1867年)に再建された本殿が見られる。総ケヤキ造りで、全体が彫刻で飾られているが、向拝柱(ごはいばしら)にも見事な竜が彫刻されている。

相馬神社案内標柱には建立はきわめて古く、元享(げんこう)元年(1321年)6月といわれ、安政二年(1855年)火災焼失後、慶応3年(1867年)に再建された。社殿はけやきの流造り、屋根は鋼板葺き。向拝柱 (ごはいばしら)、大床下、三方壁面 、脇障子など社殿全体が華麗な彫刻で飾られている。宿の始め枡形に屈折する所があるが、そこに神社などがあることが多い。宿の入口の監視の役目も果たしていると思われる。


高蔵寺本殿・松

薬師如来坐像案内標柱

高蔵寺(真言宗)には、16世紀後半の作とみられる薬師如来坐像がある。薬師如来は薬壺(やっこ) を持ち、あらゆる病気を治

療し、寿命をのばすことを本願とする仏でとくに眼病などに効験があると信仰を集めている。ここではご住職に本堂内を案内していただいた。
境内の松も樹齢を重ね見事みごとである。.

 
中央公民館

本陣歌碑

本陣玄関前にあった
サルスベリ

本陣玄関前にあった

鈴木眼科医院

カギの手から少し先にある、中央公民館は藤代本陣跡である。本陣は昭和30年の町村合併時に町役場建設のため壊され、現在は藤代中央公民館に変わっている。中庭に案内板があり、屋敷は木造萱葺屋根で質素であったが、唐破風造りの玄関は本陣の風格を備えていたと書いてある。サルスベリと松は本陣玄関前にあったものである。本陣は代々飯田三左衛門の子孫が管理していた。

藤代宿は、本陣のほか、脇本陣、問屋場、旅籠、湯屋、商家が建ち並び、結構賑わっていたらしいが、面影は残っていない。途中の医院の建物は明治の洋館風で雰囲気がある。


愛宕神社

土塀の旧家

宿場のはずれになるのであろうか、街道がくの字に曲がる所に。愛宕神社がある。この地域の鎮守社で、寛永年間に京都愛宕神社より鎮座させ、享保2年に社殿を完成させ、昭和59年に拝殿と合わせ改修したもの。社殿は覆屋でおおわれ全く中が見えないが、堅いかつお木をのせた神明式社殿である。入り口両側の石灯籠はなぜか鉄柵の中に保存されている。街道途中の民家であるが、屋根の形から見て、茅葺き屋根を改装したものであろうと思う。最近は茅葺き職人さんもいなくてなかなか維持が難しい。車道は左に曲がって文巻橋へ出る。街道の方は直進しており、道が細くなる、その先は土手で、かつて宮和田の渡し場があったところになる。


熊野神社

文巻橋

小貝川

藤代宿のつきあたりの小貝川堤防下にある熊野神社は創建は、千葉常胤説とその子孫俊胤説の二説があるが不明である。(常胤は鎌倉時代の武将、俊胤は戦国時代の武将である)奥殿の彫刻が見事とあるが、現在はトタンで囲われ見ることができない。

街道に戻り、文巻橋(ふみまきばし)を渡る。当時、小貝川は下総国と常陸国の国境で、その国境越えのための宮和田の渡し場がこの宿場にあった。 長さは140mある。作家、住井すゑの長編小説向い風のラストシーンの舞台にもなっている。 旧水戸街道は、八坂神社近くの土手から渡し舟が出ていたため、実際には利用されていななかった。


十一面観音堂

境内の鳥居と祠

石造りの祠

側面の彫刻


熊野神社の対岸に当たる所に、
小通十一面観音堂小貝川を挟んで藤代宿の熊野神社の反対側にある。案内によると、天慶年間(938~947年)に平貞盛が父国香の菩提を弔い、自領の民心を安定させるために、川原代に安楽寺を、小通の川岸に観音堂を建立したのが子通十一面観世音の始まりとされている。境内の石仏・庚申塔群の由来は不明。扉が閉じられ堂の中は全く見えない。


文巻橋

文巻橋から筑波山

文巻橋(龍ヶ崎側から)

小貝川を渡ると龍ヶ崎市に入る。郊外を歩き常磐線の高架を超えると佐貫の市街に入る。街道は馴柴(なれしば)小入口を左に入る。


道標・道祖神?

関東鉄道

馴柴の道標

馴柴小学校の脇に馴柴の道標が建っている。初期の水戸街道は、我孫子まで下り、利根川を渡って布川、須藤堀、紅葉地の一里塚を辿って若柴宿に至る街道 (布川道)と、取手宿、藤代宿 を経て小員川を渡り小通幸谷、若柴宿に入る道があった。この二つの道の合流点現在の市立馴柴 小学校の北東隅の三叉路に、この道標 (里程標)がたてられ、3面に「水戸 16里、江戸13里、布川 3里」と通ずる方角 とそれぞれへの里程が刻まれている。裏面には「この若柴駅街道の碑は文政九年(1826年)12月に建立した。三叉路で旅人が迷い易いので、若柴宿の老人が相謀り、普門品(ふもんぼん:法華経の第二五品、すなわち「観世音菩薩普門品」の略称。法華経の中でこれだけを取り出して読むことが多い。観音経)巻を読誦する毎に一文ずつ供えて積み立てた(意訳)」とあり、15名の村人の姓名が記されている。

明治5年 (1872年)に水戸街道は陸前浜街道と改称され、明治15年(1882年)11月には、牛久沼淵の道路が開通した。そのため台地を通る街道はさびれ、若柴駅(宿)も宿駅としての機能を失った。この道標は若柴駅(宿)街道の碑として、往昔の陸上交通の盛んであった面影を偲ばせるものである。
道標を後にして佐貫駅に向かう。交差点を直進すると道が水戸街道で先の小高い丘が若柴宿である。


水戸街道と若柴宿(3月)

佐貫駅前

佐貫駅前(3月)



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