「富士山すそ野一周ウオーク」を歩き終わった後に裕美さんのお友達(富士山ぐるっとで・・)と「次はどこへ行こう」との話となり、手ごろな「上州
 ぐるり一周ウオーク」が候補にあがった。「上州・・」は残念ながら3回目以降は中止になったようだった。

  次に候補になったのが浅間山で、中央分水嶺トレイルト重なったので。私たちは10月スタートとした。
  第三回は桜岩観音・冬枯れの樹林帯~六里原~東洋のポンペイ・鎌原、嬬恋郷土資料館・鎌原観音に参拝、万座鹿沢口駅まで歩いた。

 

  
Blowin' in the Wind 2016

12月14日(火) 「浅間山裾野ぐるり一周ウオーク」No4は桜岩観音から万座鹿沢口までの8kmを歩いてきました。

日陰には雪が残り気温は6℃前後、東の空には黒い雲・・前は青い空と白い雲、天気が崩れる前の様子・・時折、ぽつぽつと雨粒が落ちてくる気温が低ければ雪であろう。車窓からは雲を被った浅間山を見ることができたが、ウオーキングコースからは見ることは出来なかった。


浅間山火山観測所

旧草軽電鉄
北軽井沢駅跡

電気機関車

ジオラマ説明板

浅間山は活火山のAランクに指定されている13の活火山のひとつである。浅間山の周辺には気象庁の他、各機関を含め34箇所に観測機器を設置しているが、峰の茶屋には気象庁と東京大学も、僅かな微動でもキヤッチできる高性能の観測装置が備えて、36524時間態勢で監視している。

有史の活動は前掛け山の山頂火口から起こっており、歴史に残る大噴火は天仁、天明の噴火である。天仁元年(1108年)の噴火は大量の軽石とスコリアを北から東南方向に降らせ、北は吾妻渓谷、南は御代田まで到達したという。今日の浅間山は雲の中である。


元白根山

浅間山は雲の中

虹が・・
(中央下左より)

スタートは桜岩観音近くの「森のパン屋さん」である。桜岩観音は、中仙道の沓掛宿から吾妻・大笹方面への道は六里ヶ原の荒野で消滅し、旅人は難渋し遭難者も出た。道に迷う旅人の難渋を見かねた分去(わかされ)茶屋の助四郎は、文化5年(1808年)道標として石の観音像を置き始めた。助四郎の感化により近隣の有志からの寄進が続き、分去の基点観音から大笹、狩宿、群樹の三方向にそれぞれ33体、計百体の観音石仏が1丁(110m)に建てられた。これは丁杭(ちょうぐい)式観音と呼ばれ旅人を導いた。

年月は流れて六里ヶ原の熔岩の上に一本の山桜が生え成長した。そこに地蔵尊が祀られ「桜岩地蔵尊」として復興に励む人々の信仰を集めた。しかし、永い年月はいつの間にか丁杭式観音の多く姿を消し散逸した。明治以後残った観音像はその役目を終わり、貴重な遺跡として桜岩地蔵尊の境内に集められ、安置されて新たな旅人を迎えている。

平成2年地元の人々の熟意により遺跡保存の動きと百体観音復元が進められ、不足分を新たに作り、現在は地蔵尊の前に百体そろって並んでいる。


森の清流

嬬恋村へ・・

溶岩の灯篭

苔の花?

白く光る上越の
山並み

店の看板に
浅間山の北側は雪で白く薄化粧・・頂は雲に隠れ白いカーテンに覆われていた。眼では見えるがカメラではその姿は映らない。反対側の元白根山は、頂までその姿を見られた。雪雲からの贈り物であろうか、うっすらと尼寺が見えた。道の両側のカラマツ・ブナ、ニセアカシアの木々は全て葉を落とし、時々見え隠れする白樺の幹の白さだけが目立っている。

このあたり一帯は、天3年の大爆発によって溶岩と泥流、火山灰で埋め尽くされて草木も消えた荒野となり六里ヶ原」と呼ぱれた。


とりほぎ石
(天明の大噴火で)

清流に氷が・・

靄の煙る山並み

双体道祖神

鎌原観音堂は大同元年(806年)創建と伝えられ、本尊は十一面観音を安置している。長暦3年(1039年)近くに延命寺が創建され、観音堂はその一角に納まった。

林道脇の林の奥には別荘と民家が点在している。集落がみえてくる。東洋のポンペイと言われ天明の浅間山大噴火で埋もれた鎌原(かんばら)の集落である。 天明の大噴火の土石流は6、7mの高さであったという。現在の鎌原の集落は、その上に出来た大噴火では570余名が犠牲になり、助かった93名が当時の村長の采配で、新しい家族を作ったと言う。


歌碑・石碑群

嬬恋郷土資料館

浅間山大噴火の記録を残した嬬恋郷土資料館は昭和59年に開館した。ビデオと地元ガイドさの説明があると聞いたが、時間の関係かビデオは見られなかった。資料館はコンパクトにまとめられて短時間の見学でもある程度内容は見ることが出来た。鎌原は交通・交易の中心であったと言う。資料館には当時の珍しい、伊万里焼の食器やギヤマンの鏡などの日用品が見られた。


鎌原観音

観音堂

説明板

発掘跡

本堂
 
ご本尊

鎌原観音は歴史のある観音様である。かんのん堂の十一面観音にお詣りし、地元の人達の接待のお茶と手作りの漬物をいただく。


観音堂

延命寺跡石碑

竜と狛犬の額

馬頭観音群

天明3年月に小さな爆発を始めた浅間山は、6月18日大笹、鎌原方向に火山彿を降らせ約10cm積った。7月になると更に爆発が続き、8日午前10時頃北東側に大量の溶岩流を噴出した。高速で流れる熔岩は中腹の柳井沼を埋め、その水と相まって巨大な土石雪崩、泥流、岩屑流となって猛スピードで山麓を襲った。これは後に「鎌原火砕流」と呼ばれている。


人面の石碑

馬頭観音(寛政年間)

馬頭観音(天明2年)

鎌原神社

道しるべ・道祖神

火口から13Km鎌原村は全118戸が埋め尽くされ、延命寺も流失した。人口570人のうち死者・行方不明477人、生存者は高台の観音堂に避難した93人のみであった。他にも近隣の55ヶ村で1151戸が流失・埋没し、死者1624人に及んだ。また、成層圈にまで達した噴煙は何時までも広く灰を降らせ、高崎、伊勢崎付近でも10cm積ったという。この噴煙は長時間陽射しを遮り、冷害による天明の大飢饉の一因となった。

観音堂に避難して奇跡的に助かった93人は、その後新たな縁を結んで家族を作り、復興に向けて備いた。そしてこの観音様を厄除観音として深く信仰した。平成4年の210回忌には、犠牲者の冥福を祈るとともに近隣の人々の援助に感謝し、「謝恩彿」を建てて謝意を表した。

観音堂の石段は昭和54年に発掘調査され、その段数は50段あって、下部の35段が埋没し、その厚さは約6mと判明した。その時石段の途中に重なった2体の女性の遺骨が発見され、娘が母を背負って逃げる途中、或いは若い嫁が姑を負ぶって、ようやくこの石段までたどり着いたところではないかと推測され、新たな涙を誘った。これらの詳細な記録や発掘された出土品などは観音堂に隣接する嬬恋郷土資料館に晨示されている。

観音堂には地元の老人が交代で堂守をしており、参詣者に湯茶の接待をしている。

お湯は囲炉裏で沸かし、漬物は大根と白菜・・お母さんたちの手作りである。観音堂の脇には馬頭観音がたくさん並べられていた。近郷から集められたと言っていた。「天明」と彫られた物もあった。


吾妻川・鹿沢口

万座鹿沢口

町の辻には双胎道祖神、道しるべが残されていた。


今回のコースは天明の大噴火で大きな災害と被害をもたらした記録と、静かで美しい姿の浅間山とを見比べ、冬枯れの道を歩く裾野ウオークだった。



「浅間山すそ野ぐるり一周ウオーク」第3回(本人参加)の案内人はクラブツーリズムスポーツ旅行センター杉本講師でした。


                                          第4回へ

第7回 勢子辻~村山浅間神社  2015年 3月26日(木) 快晴