2018. 1.21 
金町~小金宿
    

行程 
JR金町駅~葛西神社~金町関所跡~松戸宿~竹の花~北松戸~馬橋~二ツ木~北小金 13km
   

 

松戸宿本陣絵図
松戸宿
松戸宿から江戸川を下って江戸深川あたりへ向かう川船の便があり、また、物流の中心であった納屋河岸もあって賑わった。河岸場近所の平潟町には少に船関係の人夫相手の飯盛旅籠が集中していた。

また、
水戸藩最後(11代)の藩主だった徳川昭武が、松戸の戸定ヶ丘に造った別邸、国の重要文化財「旧徳川家住宅松戸戸定邸」がある。

本陣・脇本陣各1軒、旅籠28軒(大規模8軒・中規模7軒・小規模1軒
新宿から国道6号線につかず離れず沿ってきた旧道は金町5丁目で、大通りにでる。6号線はその手前で陸橋をのぼっており、旧街道は金町駅前辺りで左に折れてJR常磐線の高架をくぐり、葛西橋の手前を右に入る道が旧水戸海道である。入口には道標が立っている。200mほど歩くと右側に「葛西神社」の標柱が見える。その先に大イチョウの木々の中に鳥居が見える。

水戸街道道標

道標

葛西神社

鳥居と大銀杏

弥栄(いやさか)銀杏

拝殿

葛西神社創建の年代は平安時代末期、元暦2年(1185年)である。当時は上葛西、下葛西合わせた三  十三郷(現在の行政区分では、東京都葛飾区、江戸川区の全域、墨田区、江東区、足立区の  一部地域にあたる)の総鎮守として葛西三郎清重(きよしげ)公の信仰により 香取神宮の分霊を祀ったのが始まりである。享保年間に葛西神社、神官能勢氏の創作した「和歌ばやし」は後「葛西ばやし」として江戸市中をはじめ近郷一帯の祭礼時には「はやし」として流行したとのことです。


大井町と鳥居(境内)

関所所跡案内板

金町関所所跡

関所碑

関所跡(河川敷)

葛飾橋(江戸川)

葛西神社から土手に上がると江戸川である。対岸は松戸市で江戸川を渡ると松戸宿の入口である。。 

葛西橋先の東京都ポンプ場前に金町関所跡碑がある、松戸にはここから渡し船で渡っていた。松戸に入り土手伝いに行くと 天領松戸宿の入り口を示す「是より御料松戸宿碑」が建っている。ロータリークラブの寄贈によるもの。

松戸に入り土手つたいに行くと 天領松戸宿の入り口を示す「是より御料松戸宿碑」が建っている。ロータリークラブの寄贈によるもの。対岸の金町関所から渡し船で江戸川を渡った旅人は下横町に上がる。ここから松戸宿となります。


江戸川と
松戸の街並み

エコロード距離標識

是より御領松戸宿碑

御領松戸宿碑

このあたりは渡船場河岸(下河岸)とよばれ、銚子から利根川をさかのぼってきた鮮魚をあつかう魚市場で賑わった。


将軍鹿狩りの話
徳川将軍が下総台地にあった官牧である、小金原で行う狩りを「御鹿狩り」という。吉宗から12代家慶まで4回行われた。鹿狩りの際は松戸の関所あたりに仮設の船橋が架けられた。嘉永2年の(1849)の船橋は大平船21艘、長さ73間(131m)幅3間(5.5m)が鎖と綱で固定された。将軍は武士団23000人余りと共に渡り小金原へと向かった。狩りには武蔵、上総などから獲物を追い込むための勢子として農民6万人余が動員されたという。いずれにしても将軍の鹿狩りに農民6万余動員とは農民にはとんでもなく迷惑なことでした。


 本陣跡碑

 本陣跡から江戸川方面

街道に戻ると、道路の左側に松戸郵便局が見える。ここが「脇本陣跡」だが往時の面影を残すものは何も無い。その先、交差点の左側堤防の手前のマンションの前庭に「本陣跡碑」がある。江戸時代後半は伊藤惣蔵家が代々務めてきたそうだ。残念なのは、慶応3年に建てられたと推定される建物が、平成16年(2004年)に解体されマンションに変わってましい、現在は跡碑が残っているだけである。
松戸宿跡は松戸駅西側に線に沿って存在している。郵便局をすぎて右手に松戸神社がある。ここは日本武尊が東征の際に従者と待ち合わせた地に建てられた祠がその発祥だという。


松戸神社鳥居
 
拝殿

『待つ郷』(まつさと)=『待土』(まつど)と呼ばれ、『松戸』の地名が生まれたと云われています。
郷土の伝承には、水戸中納言光圀公の逸話が残っています。光圀公が鷹狩でこの地を訪れた際に、神社の大銀杏に止まった白鳥へ鷹を放とうとしましたが、鷹は微動だにしない。憤慨した光圀公は、弓で射ようとするも、弓手は動かなくなり弓も中心から折れてしまった。愕然とした光圀公は、折れた弓矢を奉納し、御神前に鎮謝して帰ったと伝っています。
水戸徳川家からも崇拝を受け、数多の奉納品(御神宝)が納められました。それ以前の北条氏(小田原)、千葉家高城領主(下総)より納められた古文書等も宝蔵されたと伝わっているが、元文元年(1737年)の大火災により焼失し、その後、本殿・拝殿が再建されました。本殿・拝殿は約300年前の建築です。  


坂川の歴史の碑

宝光院

旧商家

 旧家(ガ造り)

松戸宿案内板

松戸宿鎮守北上していくが、宿場らしい旧家は2軒残っていた。
西蓮寺の横を左に入ると江戸川の堤防に突き当たる。この辺りは納屋川岸(なやがし)があった場所である。江戸川舟運の舟問屋及び名主として松戸の繁栄に貢献した青木源内家の黒板塀が僅かに往時の繁栄ぶりを偲ばせてくれる。江戸川堤に上がると、上流彼方に「常夜灯」が見える。かつて、「通運丸」という客船が就航していたそうだが、舟運復活を願って常夜灯を設置した。


納屋河岸跡

松戸宿の北端、松の木橋と一平橋、坂川と平潟河岸に囲まれた区域に平潟遊廓があった。平潟には平潟河岸と、後にできた納屋河岸(上河岸)を中心として、材木・鮮魚を扱う商人や水運業者があつまり、彼らを相手とする飯盛女を抱える旅篭が数多くできた。それらが発展的に遊廓を形成していった。

 
雷電神社
 
首切地蔵

松戸駅の先で跨線橋を越え、上本郷で6号線に合流し直進する。北松戸を過ぎ馬橋にはいる。松戸宿を出たあとは見所が少なく、この間、街道には見る物もなくなく、黙々と歩く。街道際に「雷電神社の鳥居」がある。正面階段を上った高台にこじんまりした社殿が鎮座している。馬橋近くの街道脇には首切り地蔵がひっそりと立っている。由来は不明である。
旧街道はほどなく国道6号に合流する。30分ほど歩き、中根立体入口交差点を渡り、左に曲がると小さな橋が見える。


馬橋

馬橋案内標柱 
馬橋の地名の起こりになった馬橋という橋が。長津川にかかる旧水戸街道のこの橋には多くの人が往来したが、大雨のたびに流された。そこで、萬満寺と縁のあった良観上人が、馬の鞍の形をした橋を架けさせたところ、それ以後流されることはなくなった。以来、この橋は「馬橋」と呼ばれるようになった。この橋は、馬橋という地名の元になった橋でもある。

栢日庵立砂旧宅跡

馬橋の油屋平右衛門こと栢日庵(はくじつあん)立砂(りゅうさ)( ~1799年)東葛地方の俳諧人として有名でした。親子ほど歳の差があった一茶から爺と慕われ彼のよき理解者であり、また庇護者でもありました。
大川立砂の師匠は、後の今日庵森田元夢、当時は老我と称して布川にいたそうだ。立砂が松戸周辺の俳諧の頭領となるのは、栢日庵(はくじつあん)の庵号を得て、立机記念に「はいかいまつの色」を出版した天明2年(1782年)頃から。
 ありて人の目につく紅葉かな 素丸
 二三尺たつ秋見たりをみなへし 雪中庵蓼太  「はいかいまつの色」
から
安永6年(1777年)春、一茶は15歳で江戸に奉公に出る。天明2年(1782年)、一茶20歳の頃には馬橋(現・松戸市)の油商を営む俳人大川立砂の許に奉公しながら俳諧の道に入った。天明8年(1788年)、森田元夢の出した句集
俳諧五十三駅に一茶の句が載る。「淋しさはどちら向ても菫かな」この頃、立砂は一茶を知ったようだ。
当時一茶は菊明を名乗っていた。


栢日庵立砂旧宅跡

万満寺 山門

阿・仁王像
 
吽・仁王像

馬橋駅入り口から八ヶ崎交差点まで、旧道は駅に立ち寄りするように「く」の字に迂回する。その奥まったところに万満寺がある。立派な大門を通って、仁王門をくぐると左手に水掛不動三尊像がある。金剛力士像などが国指定の重要文化財に指定されている。。



万満寺

本堂

不動明王像

どんぐり型の
びっくり柿

萬満寺の山門を過ぎると、かつて「富士見坂」と呼ばれた坂道が続く。坂を登り、八ヶ崎交差点で再び国道6号線と合流。
この八ヶ崎交差点は印西道との追分けで、文化3年1806)年に造立された庚申塔という比較的大型の道標が残されている。その道標の南側面には「右 印西道」、西側面には「左 水戸街道」、北側面には「總州葛飾郡馬橋村」と刻まれている。


水戸 街道道標

左 水戸街道
 
一里塚跡

八ケ崎交差点で6号線に出て、少しで左手に蘇羽鷹神社(そばたか)がある。ここは前回歩いた時に気になっていた所なので入ってみる。
この地には戦国時代初期の武将である千葉孝胤(1443年~1505年)が治めた三ヶ月(みこぜ)の馬橋城が建っていた。孝胤が文明年間(1469年~1487年)に酒井根合戦で太田道灌に敗れたため、馬橋城も廃城となり、その跡地に千葉氏の加護を受けて蘇羽鷹神社が創建されたという。


蘇羽鷹神社鳥居

拝殿

庚申塔群

ここの向かい側を国道6号から斜めに入っていく道が旧街道です。武蔵野線ガードを潜り、道を下がり上がりしてまた、6号線に出て小金宿へ入る。古街道の名残ある旧水戸街道を進む。


水戸街道案内杭

醤油壺の土留め
万上みりん

一月案内杭寺

この街道筋で面白いモノを発見なんと、カラの土瓶を埋めた石垣ならぬ土瓶垣である。これは一見の価値有り、敷地の土止めとして使われていました。数えてはいないけれども、多分500本以上だと思います。みりんを貯蔵するのに使われていたものです。その証拠が敷地の土止めに使われた壷のひとつにありました。壺には「万上」と浮き彫りされています。
大量の土壷がある訳は、松戸市の隣の流山市がみりん製造の発祥地だったからのようです。


一月寺

旅籠・玉屋

案内板

東漸寺・三門
山門  薬師堂・枝垂桜


一月寺
現在は日蓮宗であるが、江戸時代は普化宗金竜山一月寺といっていわゆる虚無僧の総本山であった。虚無僧とは武士の平服に紺黒五条の袈裟をかけ、深編み笠をかぶり、尺八を吹きながら行脚、托鉢をする半俗半僧をいう。門左の標柱が残るだけだが「普化宗金竜山一月寺は、鎌倉時代金先禅師によって創建されたといわれています。江戸時代には青梅の鈴法寺と一月寺が触頭として関東地域の普化宗諸派の寺院を統括しました。明治4年の太政官布告によって普化宗は廃止されます。」と記されてあった。
旧家・旅籠
小金は戦国時代、高城氏一族の小金城下町として発展した。徳川時代に小金宿が設けられ、また軍馬を育成する小金牧が開かれていた場所でもありました。大きな門構えと広い庭を持った旧家が目立つ。すぐ右手が永妻家です。小金宿での古い歴史のある飴の製造販売業者であった。先祖は俳人で、小林一茶と親しかった。左手が、千本格子が見事な鈴木家の旅籠玉屋で、徳川時代後期の旅籠の原型をとどめている。


本堂

東漸寺・本堂

マツキヨ資料館

街灯に

小金宿

宿の歴史

東漸寺
創建は戦国時代の文明13 (1481)、 浄土宗増上寺の音誉の門下の経誉によって根木内に開かれ、後に小金大谷口城の完成とともに出城としてこの地へ移転したという。浄土宗の信者であった徳川家康によって保護され、江戸時代の格式は高く、関東十八檀林の一つであった。天狗党事件のとき、 水戸浪士千名近くが集結し江戸の様子をうかがったそうです。

1864年(文久3年)8月水戸藩の尊皇攘夷派天狗党が筑波山に挙兵した事件である。1864年(文久3年)8月18日の政変を機に、水戸藩では保守派の諸生(しょせい)党:【水戸藩の保守・門閥派】が実権を握り、これと対立する天狗党はついに朝廷の攘夷延期不満を掲げて挙兵、流血の党争を続けたが,幕府の追討を受けて敗走、一橋慶喜をたよって上洛の途中加賀金沢藩に降伏した。

文久の政変,8月18日の政変とも言われる。文久3年(1863年)8月18日公武合体派が,それまで優勢であった尊攘派を京都から追放,実権を掌握した事件。長州勢を中心とする尊攘派は孝明天皇大和行幸を機に天皇を擁して討幕軍を起こす計画を立てていた。



案内板

街道の歴史

水戸街道道標

本土寺道標

水戸街道道標
JR
常磐線北小金駅入り口にある「サティ」ビルがあり、道路の角に道標が二基ありました。一つは右水戸道中、もう一つには右水戸海道と刻まれている。旧水戸街道はここから直角に右折して6号国道へと向かう。

小金駅前の十字路には小金宿の案内板が両側に建って、街道の案内と宿場の案内が書かれている。また、「水戸街道道標」「東禅寺道」の道標が建っている。「東漸寺道」道標のほうが大きいのは東漸寺の重みを感じる。



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Blowin' in the Wind 2016
                          
いっちゃん水戸街道を歩く・・

広重 小金牧
小金宿

宿の規模は松戸宿の半分、家数は江戸後期に約150軒とさほど大きいものではないが、江戸まで約一日の行程であった事、また周辺に鷹場が設けられていたことから、水戸藩は重要視していた。このため水戸藩専用の本陣も置かれ、戦国時代に当地の豪族で小金城主であった高城(たかぎ)氏の家臣であった日暮玄蕃の子孫が代々経営にあたっていた。

本陣1軒、 脇本陣1軒、ほかに水戸家専用旅館があった。松戸の出口からは勘定奉行の支配になる