Blowin' in the Wind 2016
                          
いっちゃん水戸街道を歩く・・
2017.11. 8 
日本橋~千住宿
(10Km)
    日光街道(千住宿)
  行程
   日本橋~旧日光街道道標~十恩公園~横山町~両国広小路~浅草見附跡~駒形堂
   ~吾妻橋~姥ヶ池跡~浅草三座跡~待乳山聖天~山谷堀~泪橋~回向院・小塚原
   刑場跡~
千住大橋~素盞雄神社やっちゃば跡
千住宿


日本橋

日本橋から出発して最初の筋を右に曲がるとその道は「按針通り」。150m先に三浦按針屋敷跡がある。日本橋から三越前までのわずか400mの区間は中山道と同じ道・・奥州・日光道中は、そこから右に曲がる。


北町奉行所跡

日本銀行

一石橋
日本の道・起点 日本橋・キンリ像
魚河岸発祥の碑 

500m先の国道4号線を横切って、左に行ったところに宝田恵比寿神社がある。もと、皇居前広場の中央部にあった宝田村が江戸城築城でこの地に移転、家康の譜代の家来馬込勘解由が鎮守の守とともに移転してきたこの功労により家康から受けた恵比寿神を祭るといわれるべったら市が有名だが、由来は浅草大根に付いた糀(こうじ)を若い女性の着物に近づけ「ほら、べったらべったら買わないで通ると着物にくっつくよ」と戯れたことからこの名になったという


三浦按針旧宅跡

福徳神社

寳田恵比寿神社由緒

於竹大日井戸跡

寳田恵比寿神社

旧日光街道道標

小伝馬町で少し寄り道をして十思(じっし)公園に行った伝馬町牢屋敷があった所で「小伝馬町牢屋式展示館」「銅鐘石町時の鐘」「忠魂碑」「吉田松陰終焉の地」「杵屋勝三郎歴代記念碑」「吉田松陰顕彰碑」の石碑がある。小伝馬町には元吉原への入口があったという。1612年から明暦の大火(1657年)で台東区に移されるまでの間、吉原はこの地にあった。


牢屋敷展示館

出土された石垣

吉田松陰終焉の地碑

十恩公園・時の鐘
旧石町時の鐘

小伝馬町・処刑場跡

忠魂碑

浅草橋の交差点を右に行くと両国橋だ。隅田川の両岸、武蔵と下総両国を結ぶ橋としてその名がある明暦の大火(1657年)以後、防災の面から架橋された両国橋のたもとに両国広小路の由来の碑がある。明暦の大火の後延焼を防ぐ火除け地として広場をつくった


両国広小路の碑

柳橋

佃煮 小町屋

浅草見附 
 
榊神社

榊神社・浅草文庫碑跡

上野、浅草と並んで江戸3大広小路の一つ。道路を拡張して延焼を防ぐ、当時としては画期的な都市計画事業だったのだろう。

浅草橋を渡った所左手に浅草見附跡の碑がある。「江戸三十六見附」の一つである。

JR浅草橋駅の側には、人形店の秀月と久月が店を並べているその先を右に入ると榊神社と浅草文庫の碑がある浅草文庫は江戸幕府の書籍収蔵所だった
「芝五」の五叉路を右に行くと蔵前橋がある
その左側たもとに御蔵跡の碑があり、道路を隔てた反対側に首尾の松とその碑がある。
首尾の松の由来は数説あるが、隅田川の水防工事、アサクサノリのひびがよくでき糊がたくさん取れた、また、吉原に遊びに行った時の話・・とあるが、吉原の首尾を語ったというのが一番わかりやすい。

芝五の五叉路を左に蔵前橋通りに沿って行くと鳥越神社があるお神輿は千貫神輿で有名である。ここのお祭りは以前に見たことがある町中の人が楽しんで見守る中、勇壮にみこしを担ぎ練り歩く

駒形どぜう 

野村万太郎碑

駒形町一丁目にさしかかると左手に「駒形どぜう」がある。江戸時代の商家の形をそのまま店舗に使い営業している・。二階も客席であるが、二階からは外が見えないようになっている。これは江戸時代、高貴な人が通る、大名行列・参勤交代などの列を上から見下ろせないよう配慮したものである。街道の宿場でも多くみられる。店の脇には野村万太郎の碑が立っている。


駒形堂 


魚類殺生禁断碑

駒形橋まで行くと駒形堂がある。ご本尊観世音菩薩が示現されたといわれる隅田川の駒形橋脇に建てられ、元禄年間(1688~1704年)までは、川に面して東向きであったが、現在は川を背にして、西向きに建つ。江戸時代には舟着場があり、渡しや船宿もあって、大変賑わった。 犬公方で有名な五代将軍綱吉の時代、元禄6年(1693年)に建てられた魚類殺生禁断碑がある。碑文には「南は諏訪町(今駒形二丁目)より北は聖天岸(浅草七丁目)に至る十町余で殺生を厳戒」とある。


隅田の伝説・姥ヶ池

花川戸助六の碑

履物問屋の跡碑

浅草寺の先に「花川戸」という町名がありと花川戸公園があるここには歌舞伎18番の花川戸助六の歌碑があるまた、姥ヶ池の旧跡がある。隅田の伝説であるが、浅茅が原の一軒家に姥と娘が住んでいた旅人が宿を乞うと石の枕で寝かせ、夜中に上から石を落として殺し金品を奪っていた。ある時、観音が児に化身して泊まったところ、娘は児の美しさに心ひかれて寝床に入ってきた。姥はそれと知らず石を落としたので娘は死ん。悲しんだ姥はこの池に身を投げて死んでしまったという。


旧猿若町の碑

中村座跡

市村
座跡碑

守田座跡

言問橋西交差点の先を左に行った所に猿若町の猿若三座芝居小屋跡の碑があるこれは旧猿若帳の住人が建てたものである。


待乳山聖天

本堂
 
本堂から境内

築地塀 

待乳山聖天は、本尊は十一面観音菩薩を本地仏とする聖天様(大聖歓喜天)。浅草名所七福神の一つ、毘沙門天を祀る。古くから大聖歓喜天の伝説が残り、天安元年(857年)には慈覚大師が東国巡拝の際、この地にこもって21日の間「浴油修行」を行ったとされる。紋章の巾着と二股大根は、それぞれ商売繁盛、無病息災、夫婦和合、子孫繁栄を意味し、ご利益を願う参拝者が訪れる。参拝客の中には、お乳の出るように祈る女性が多いという
台東商高前の交差点には山谷堀がある。山谷掘は新吉原への通い道として知られていた。


今戸神社

拝殿の招き猫

銀杏と絵馬

今戸焼・沖田総司の碑

沖田総司終焉の地碑
その先都立台東商高の裏に今戸神社があり沖田総司終焉の地の碑がある。沖田総司は、当地に居住していた御典医松本良順の治療を受けたが、この地で亡くなった。また。縁結びの神としてもご利益があるようで若い女性の参拝客が多い。拝殿には大きな招き猫が鎮座している。

千住回向院

小塚原刑場跡

吉展地蔵尊

首切り地蔵
 
蘭学者解体記念碑
 
橋本景岳君の碑
明治通りとの交差点に地名だけ「泪橋」が残っているその昔、現明治通りの北側を「思川(おもいがわ)」という川が流れていたが、ここに架かる橋を「泪橋」と呼んでいた。 現在、橋はない。解説を書いた案内板がある。この先の小塚原刑場跡にひかれて行く罪人と泪の別れをした場所で、鈴が森にあるのと同種である小塚原刑場跡は、JR常磐線の南千住駅をまたいだ、すぐ左手の奥まった所にひっそりと隠れるようにしてある刑死者を弔うための「南無妙法蓮華経」と刻まれた題目石と寛保元年(1741年)造立の石造りの大きな首切り地蔵がある

戦後の代表的な誘拐事件の通称「吉展ちゃん事件」の犠牲者村越吉展(当時歳)ちゃん」の供養のためにご両親が建立された「吉展地蔵尊(よしのぶじぞうそん)」がこの寺の入り口にある。


コツ商店街へ

素戔嗚尊神社
 
芭蕉句碑
 

回向院の先、吉野通りとの交差点の交番の裏に素盞雄(すさのお)神社がある。地元では天王様と呼ばれている。南千住、三ノ輪、三河島、町屋など61町にも及ぶ区域の総鎮守で、旧郷社。例祭「天王祭」は、都内でも珍しい二天棒の神輿で神輿振りをする事で知られている。6月9日に、ここ南千住ののお祭り「天王祭」がある。神輿は、国道を左に折れゆっくりと仲町通り商店街を通り南千住の大通りである。日光・奥州道中(「こづかっぱら」からきているのか「コツ商店街」と呼ばれている)を通って素盞雄神社に夕刻に宮入りする。

境内には「芭蕉句碑」がある。「行く春や鳥啼魚の目はなみだ はせお翁」 併記されている文は「千寿という所より舟をあがれば・・・・・」という旅立ちの思いを記したもの。


千住大橋(江戸側から)

街並み(昭和初期)

千住大橋・広重画

大橋公園

矢立の碑

旧日光街道はここを右に曲がり千住大橋を渡る。最初の橋は文禄3年(1594年)に架けられたが、現在の橋は昭和2年(1927年)に架橋されたもの。この橋の先はいよいよ千住宿だ。橋を渡ると、左側の大橋公園入り口に「矢立初めの地碑」が建てられており、公園の中には「奥の細道行程図」や「行く春や鳥啼魚の目は泪」の句が刻まれた矢立初の碑なども据えられている。
川岸のテラスには「芭蕉と曽良の旅立ち」の様子が壁面に描かれている。時は元禄2年(1689年)、前途三千里の思いを込めての旅立ちの場所である。ここを訪れたときは護岸補強工事が行われており、護岸の掲示物等は見られなかった。


奥の細道プチテラス

旅立ちの碑

 やっちゃば南詰
 
千住プチテラス
 
表札代わりに
屋号を掲示

旧日光街道道標

国道4号と分かれ右に入る道が旧日光街道であるが、入り口右側に、やっちゃ場ならぬ都中央卸売市場足立市場がある。

その足立市場前に「奥の細道プチテラス」が造られており、芭蕉が矢立初の句をしたためている。

ちょっと先に「此処は元やっちゃ場南詰」と記された木板が下げられている。朝早くから、せりの「やっちゃやっちゃ」という声が鳴り響ていたそうだが、今は静かな街道だ・・街道に面した家の表には級の屋号が掲げられている。一つ一つ見ながら当時も様子を思い浮かべる。

京成線のガードの先左側に「芭蕉句碑」が建てられており、「鮎の子のしら魚送る別哉 芭蕉」と刻まれている。
「行く春や・・・・」の前に作られた旅立ちの句と言われているが。
その奥は白壁のまぶしい「千住宿歴史プチテラス」開館が土日のみというのがちょっと残念である。

プチテラスの先の路地を左に入った奥の稲荷神社に「千住市場創立三百三十年碑」が建てられている。明治39年(1906年)に建てられてものだが、やっちゃ場は昭和16年まで続いていた。


千住掃部宿案内板

高札場跡

一里塚跡

貫目改所跡

森鴎外旧宅跡

江戸時代と変わらない道幅だという街道を歩き、 墨堤通りを横断し、「藝大前交差点」までくると石碑を2本見ることができる。 交差点を右方向に10mほど歩くと「一里塚跡碑」が車道際にちょこんと立っており、交差点左側には「千住高札場跡碑」が建てられている。交差点の先、芸術センター前広場の道路際に「問屋場跡」「貫目改所跡」の案内板が建てられている。


金蔵寺・供養塔

勝専寺・赤門

宿場通り商店街

足立都税事務所の場所に橘井堂(きっせんどう)跡がある。森鴎外の父静男が開業した医院跡である。脇の路地に入ってゆくと、金蔵寺がある。墓地には「悲しい歴史を持つ石塔が2基」建てられている。無縁塔には「天保八年の飢饉で、飢えて死せる者八百二十八人・・・・」と記されている。また、命を落とした遊女は無縁仏同様に葬られた。

先ほどの十字路を左に曲がると赤門寺と呼ばれる「勝専寺赤門」を見ることができる。この寺院には御殿があり、徳川秀忠・家光・家綱などがよく訪れていたそうだ。 


JR北千住駅へ野交差点が今回のゴールである。「宿場通り商店街」が千住宿の中心であった。



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