Blowin' in the Wind 2015
               
海抜0メートルから富士山に登ろう! 
第一回目「旅の始まり・・田子の浦から広見公園は「富士山すそ野ぐるり一周ウオーク」と重なりパス・・2回目からの参加となった。

第2回 村山古道の起点へ 広見公園から村山浅間神社
 

標高100m地点にある広見公園は芝生広場を中心に彫刻の森、全国県木の森の他に、300本以上の桜やバラ園がある。また園内には歴史的建造物や博物館、歴史民族資料館があり、数々の文化財が公開されている。
第1回のゴール地点、第2回のスタート地点となる。駐車場から階段を上り芝生広場からヨガのサークルの人たちに見送られ歩き始める。

足柄SAからの富士
日露友好の碑
富士市内を望む 公園内の古民家 タンポポ
常夜灯郡

公園を出て北に向かって歩く。天気が良ければ正面に雄大な富士山の姿が見えるのだが、富士市に入ってからは曇り空となってしまった。緩い登り坂の道の両側は工場と住宅が並んでいる、普通の風景である25分ほど歩くと交差点の角に、コース地図上の道標1が見える。標高166m地点である。

道標には、富士山を描いたと思われる山の姿と、「東三ツ倉、左むら山道」という文字が刻まれている。

住宅と茶畑が広がる登り坂を20分ほど歩くと淵穴ヶ原線の交差点の角に鬼子母神を祭る穴原釈迦堂がある。標高173m地点である。

江戸時代後期の頃、大淵の穴原に稲葉という産婦人科の医者がいた。医師などが少なかった時代であったため、人々はこの医師を頼りにし、信望を集めていた。この医師は子供の授からない人、授かっても難産で苦しんだり、幼くして亡くしてしまった人などのために、自分の家の竹林に子安堂を建て、鬼子母神を祭ったと言う。堂内には石塔1基、石造4体がある。

古道の風景 振り返ると 道標1 野生の雉 新葉の茶畑 釈迦堂

茶畑の緩やかな登り坂を歩く。「新茶品評会表彰」の看板のある製茶工場の構内には茶箱が広げられてる。すぐ先、三叉路の左側に道標2が置かれている。標高197m地点である。 山の姿と「左」と「む」の文字が刻まれている。ここまで約100m(97m)登ったことになる。5分ほどで県道の交差点に出る右側にはコンビニ跡がありここが午前にゴールである。広見公園にバスで戻り昼食(おにぎり弁当)となる。


製茶工場
道標2 古道からの遠望
元気に泳ぐ鯉幟
おにぎり弁当:完食

午後の最初の道標は標高228m地点にあった。道標の脇には開設の標柱があり分かり易い。この辺りからは住宅も少なくなり茶畑と森の中の道を歩く。登山道の趣を感じられる。15分ほど歩くとイチョウの林(銀杏の収穫をしている)の前に馬頭観音戸ならんで道標が見える。標高246m地点である。
単調な登り坂を10分ほど歩くと標高257m地点の道標が見える。右「南無妙法蓮華経」と彫られた題目塔。左が道しるべ「左 村山道」と掘られている。

山林奉行所跡
竹川本家後碑
道標3 森の中を歩く シキビの花 茶畑と・・

さらに、15分ほど歩くと、標高296m野道標がある。次郎長開墾記念碑のある白髭神社から下った交差点の右側で、右「左村山道」、左「道祖神」私道の左側にもう一基の石碑「右ぽんぷ川、左よし原」と書かれている。道路工事で反対向きに置かれているとか・・。
ここの地名は、次郎長町である。江戸時代末期の侠で、本名は山本長五郎、実父は駿河国有渡郡清水港美濃輪の舟持ち高木三寿郎で、8才のとき、その弟の米南山本次郎八の養子となる。幼くして悪党の評があり、15才のとき養母の金をもって江戸に走った。時あたかも天保の飢饉がおこり、次郎長は浜松で米を買い占め、清水港に売って暴利を得、この金で養父に謝罪したと言う。

天保6年(1835年)養父が死亡し、養母が駆落ちしたころから、ばくちに手を出し、一時は賭場の争いから仲間に重傷をおわせて他国に逃げた。

ふたたび清水に帰ったのちも喧嘩、博奕で名をあげ、黒駒の勝蔵・江尻の熊五郎など400人あまりの博徒の盟主となったと伝えられる。
明治1年
(1868年)東海道総督府判事、伏谷如水から旧悪を許され、帯刀の特権をあたえられ、街道取締りを命ぜられてからは、政府との交渉が多くなった。明治8年(1875年)次郎長は山岡鉄舟のすすめによって富士の裾野大淵村の開墾に着手した。

この事業は、明治17年に打切るまで10年間続いた。次郎長は開墾を進める人手として静岡監獄の囚人数10人を使った。腰縄をはずし、小屋に寝泊りさせ、家族との面会も自由にさせた。打切りになるまで76ヘクタールを開墾した。大淵地区では、現在の繁栄があるのは、次郎長のおかげであると、地名に次郎長町として名を残すようにした。

道標4
苔の新芽
一歩ずつ・・ 道標 道標5・道祖神

この辺りの畑には苔が植えられている。緑が綺麗である。真新しい道標があり、その先の道は細く、旧の登山道を思わせる。竹林には筍が出ている。

路傍の野仏、石仏を見ながら歩く。

茶畑の脇の標高401mには側壁に埋め込まれた道標がある。「左村山道」と書かれている。


緑の苔

道標
古道 野仏・石仏 路傍に・・

標高も高くなり空気も冷たく感じる。標高414m地点に今日のコース最後の道標がたっていた。中央植込みに番目の道しるべと教育委員会の説明がある。江戸時代になると、相模や江戸方面からの登山者が浅間神社に寄らずに、吉原宿から直接村山を目指すようになった。その人たちのために、富士山の絵と「村山道」と刻まれた道標が、横沢と石原に見られる。
ニリンソウが群生している。未知の傍らに東見付跡、道祖神と地蔵が立っている。戦国時代、村山修験が勢力を持っていたころは、ここに木戸があり、番兵が詰めて、村山への出入りを監視していた。全国どんな神社仏閣でも土足のまま昇殿を許されたという特権を利用して、一方では戦国大名・今川の軍事スパイを務めたとも言われる

ややきついアスファルト道を上り詰めた標高475m地点の村山浅間神社に到着する。


道標6
ニリンソウ 道標7 東見付跡標柱 村山浅間神社 大日堂・ミツバツツジ

明治維新の廃仏毀釈や登山道の付け替えで村山神社は衰退してしまったが、今も大日堂には市指定文化財の大日如来坐像・役行者椅像・不動尊像などがあり、周辺に水垢離場や護摩壇などが残されている。また、大日堂と浅間神社を合わせて祀る神仏習合の姿をとどめ、県指定天然記念物の大スギやイチョウが浅間神社の歴史を物語っている。村山浅間神社の社殿は大正2年(1913年)に建てられ、のち部分的に改築・補強されている。

ここが今日のゴールである。

「海抜0mから富士山に登ろう」第3回の案内人はクラブツーリズムスポーツ旅行センター山口講師でした。



                                             第3回 愛鷹山塊・越前岳へ