どこへ行っても「富士山」を見ると歓声が上がる・・関東に住んでいる者にとっては意外と身近に見える山である。東海道を歩いている時、いろいろなところから「富士山」を見る機会があった。それぞれの美しさがあった。

木更津からみる「富士山」は、木更津港のシンボル中の島大橋を額縁に見立てた富士、太田山からは夕日に染まった富士、東京湾アクアラインと富士、富津岬からは海に浮かぶ富士と見所はたくさんである。
「富士山すそ野一周ウオーク」どのような美しい富士山を見ることができるのであろうか・・


      
2013年世界文化遺産に登録された「富士山」・・
                      ぐるっと一周ウオーク・・富士山を360度仰ぎ見ながら歩く・・

         
Blowin' in the Wind 2015

No  1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13   14   15   16   17  星取

○or●

                      4-3


富士山すそ野ぐるっと一周・第回は「道の駅すばしり」から「樹空の森」の約12Kmを歩いてきました。 

今回は12月20日(天候不良の予報に日和っちゃいました)のキャンセルの第4回・・シリーズツアーの穴埋めである。今日のスタートは、11月27日にゴールした道の「駅すばしり・須走浅間神社」からである。

アクアラインからは富士山が眺められ「幸先良し!」での出しだったのだが・・東名に入ると富士山は雲の中、足柄SAでは雨が降り出す。スタートの道の駅すばしりで雨具を着込む・・北の空にはぽっかりと青空も見える。

雨と束の間の晴間、黒い雲からの強い雨と予報どおりの、めまぐるしい天気の予感・・が的中した1日でした。

道の駅すばしりは背後に富士山を背景とした、素晴らしいロケーションにある。須走浅間神社までは整備された遊歩道で徒歩5分ほどの距離である。

国道側の鳥居から入り参拝する。「できればこれからの旅を晴にして・・」と欲張りなお願いをする。須走浅間神社の詳細は第3回を参照してください。正面の鳥居の脇にはエゾヒガンザクラが満開であった。

遊歩道から
富士山は雲の中
・・
浅間神社前から
富士山は雲の中・・
鎌倉古道案内板 神社正面の
エゾヒガンザクラ
仁王様の代わりに
神社脇の流れ

浅間神社の参道を左に入り住宅街の中を右に曲がり10分ほど歩くと桜の木に囲まれた、真新しい拝殿と本殿の伊那神社がある。

 伊那神社は宝永の噴火被害からの当地復活の父『伊奈半左衛門』その人の遺徳を偲び、慶応3年(1867年)有志が小祠を建立、明治11年(1878年)に吉久保水神社と須走立山中腹上真地に小祠を建立、明治40年(1907年)須走字西ノ沢王子ケ池に伊奈神社を建立した。昭和32年(1979年)10月に現在地に移祭し、春と秋に大祭が行われている。境内右の一段高い所に彫刻家堤達男氏の作で、平成元年(1989年)に御殿場より移設した伊奈半左衛門像が御厨(みくりや)の町を眺めて立っている。 

宝永の噴火:宝永4年(1707年)11月23日早朝、富士山東口中腹が大爆発を起こし、その灰、砂は小山町、御殿場市北部全域は勿論、遠く神奈川、東京まで及びました。特に須走では約3m50cmの火山灰に埋没、噴火は12月8日まで続き、被災地住民(駿東59ヶ村)は大打撃を受けた。

伊奈半左衛門:家屋、田畑、山林、原野を完全に失った住民の決死の嘆願により、関東郡代であった伊奈半左衛門忠順は、幕府の命により宝永噴火の被災地支配を兼務のためこの地に派遣された。宝永7年正月、難民が出役して流砂工事に着手したが、一方飢餓に苦しむ者が続出していた。この時、半左衛門は幕府の許可を得ずに駿府紺屋町米倉を開き、一万三千石を村々に分配、半左衛門はこの罪状により御役御免となり、後に割腹して命を絶った。嶺頂院殿松誉泰運哲翁大居士 正徳2年(1712年)没 40歳

「幕府の命による切腹であれば、お家お取潰し=断絶となるが。子孫は残っているので(家は続いているので、自らの意思で切腹したのであろう)」との説明が講師からあった・・なるほど・・このような話が聞けると勉強にもなるとともに嬉しい。

枝垂れ桜(古木) 伊那神社
富士山は雲の中・・

伊那半左エ門像
伊那神社・山門より
街角の道祖神

伊那神社からR138(旧鎌倉街道)に出て、左に富士高原ゴルフ場を見ながら約1時間歩き、水土野のT字路右脇に水土野山神社がある。標高640m付近である。この山神社は鎌倉時代に創建。この地方の山仕事の人たちの神様で農作業も含まれているとの説明が講師からあった。

富士山は雲の中・・早い雲の流れに淡い期待を持ったが裾野だけ眺めた裾野のウオークも標高600~700メートルの高原では平地より2、3週間遅い春が出迎えてくれた。桜満開、春の花が民家の庭先に咲き誇っていた。

ワサビ田 裾野が・・
道標
山神社 富士山は雲の中・・
馬術スポーツセンター

「春は黄色から・・」「フジザクラはマメザクラとも」また「このはな」はサクラをさす「木花咲耶姫ゆかり・・」講師の説明に目で見て耳で聞き納得。

山神社から滝が原の馬術スポーツセンターまで真っ直ぐな道を歩く。11時55分であった。バスが迎えに来て昼食会場へ・・石狩鍋のセット(定食)であった。雨の中を歩き冷えた体に、鍋の湯気は何よりのご馳走であった。


昼食会場
昼食のお膳 熱々の鍋 さくら公園
富士山は雲の中・・
さくら公園
富士山は雲の中・・

電子基準点
地形変動の観測点

さくら公園にバスで戻る。2006年に開設された御殿場市にある公園で、その名の通り桜のソメイヨシノ・フジザクラが満開の公園であった。園内は3つのエリアに分かれておりそれぞれ特色を持っている多目的公園との事、自衛隊駐屯地・東富士演習場に隣接しているため、防衛省の基地周辺環境整騰費としての補助金が充てられ、御殿場市が管理している。桜の先に少しだけ富士のすそ野が見えた。

※東富士演習場の概要は第5回を参照してください。 

公園から400mほど歩くと、富士山の気象観測に大きな功績を残した「野中至・千代子夫妻」の顕彰碑がある。
今では、自動観測装置が設置され無人施設となった富士山測候所だが、明治28年、高山気象観測の先駆者、野中至が剣ケ峰に私設の木造観測小屋(野中観測所)を建てたのが最初だった。
当時はレーダーなどの設備はなく、全てを人の手で行わなければならなかった。野中至は、富士山の気象観測を行うべく同年10月から翌年春頃までの予定で越冬観測に入った。数日後、夫を心配した妻・千代子が合流し、劣悪な観測環境の中、重度の疾病で命の危険にさらされながらも観測を続けたが、同年12月、救援隊に説得され、夫妻は観測継続を断念し下山した。この野中夫妻の功績を新田二郎は小説「芙蓉の人」にまとめた。

桜並木の遊歩道 富士山は裾野だけ・・ 野中夫妻顕彰碑
富士山は雲の中・・
野中夫妻顕彰碑 富士山は雲の中・・ 民家の庭の枝垂桜

野中夫妻の顕彰碑から1Kmほど歩くと、沢山の杉の木に囲まれた「川柳浅間神社」の脇に出る。境内には2本の大きな杉の木が聳えたっている。この杉の木は、根元が約1mしか離れていないため、成長するにつれ根元がつながっている。明治39年(1906年)当時の海軍大将、伯爵樺山資紀氏によって「扶桑樹」と命名され、静岡県指定の天然記念物になっている。


神社の杉
扶桑樹と拝殿
扶桑樹

石碑と

仰ぎ見る

杉の大木の中に

雨が降り続いていて、時折強くなる中、30分ほど歩き、印野支所の先を右に入ると、印野の溶岩洞窟の案内板とむき出しの溶岩が見える


野仏と道祖神

双胎道祖神
雨の中を歩く・・ 弘法の井戸 印野の溶岩遂道 溶岩遂道

。富士山の周辺には200前後の溶岩洞窟が点在していて、その一部が整備・観光化されている。現在、公開されている、鳴沢氷穴・富岳風穴・西湖蝙蝠穴・船津胎内・駒門風穴などでは、富士山の成り立ちと自然の豊かさを知ることができる。丸尾エリアの国指定天然記念物「印野溶岩隧道」は、富士山の5世紀ごろの溶岩流の末端にあたる場所で、かつては大きな溶岩洞窟があったものと考えられているが、石材として溶岩を切出があった、その後、現在の形で保存されている。ぐるり一周ではいくつかの溶岩洞窟を見ることができる。
玄武岩の溶岩の先端、印野の溶岩洞窟からゴールの樹空の森までの25分間は激しい雨と雹、そして晴間と目まぐるしく変わる。この模様は画像で・・

溶岩遂道・溶岩の先端 雨と雹 15:00

ゴールの樹空の森(御殿場富士山交流センター)から御胎内温泉健康センターへ移動、アルカリ性単純泉の、大きな浴槽、露天風呂で汗を流す、一日中富士山はすそ野が見え隠れだけであったが、春の花が咲くなかを歩き、史実・歴史そして新たな知識を得たことに満足であった。

雨あがる 15:05 少し晴間が・・
15:07
あっという間に・・
15:11
東京駅八重洲口にて


「富士山すそ野ぐるっと一周」第
回の案内人はクラブツーリズムスポーツ旅行センター真田比呂美講師でした。

今回のコース 道の駅すばしり須走浅間神社→伊那神社水土野山神社さくら公園→野中到夫妻顕彰碑川柳浅間神社 →院野溶岩洞窟
          右岸遂道(丸尾エリア)→樹空の森



                                          第5回へ

第4回 道の駅すばしり~樹空の森  2015年 4月15日(水) 雨時々曇り