姫様と歩く姫街道・・後半(西気賀〜見付宿) 29.5Km
                                                                         2015.4.3〜5
東海道を歩いた仲間と一緒に・・姫街道道中記・・お姫様の歩いた姫街道・・西気賀から見付宿にゴールしました。

4月5日() 安間一里塚(東海道)から見付宿(見付)まで 9Km

江戸より64里目の東海道安間一里塚は、姫街道の一里塚の起点となっている。今日はここからのスタートとである。明方からの雨が降り続いている。
約200m歩くと金原明善生家がある。道の反対側に金原明善記念館があり、治水関連道具や明善ゆかりの品々が展示されている。
入場は無料である。
東海道の時に見学したところである。館主が優しく案内してくれる。

金原明善生家 記念館前
生家の灯り
庭園
中の町道標

建物の先の角に、「中ノ町村 和田村 村境」標識がある。「中ノ町」とは金原明善生家堅守の話では、ここが東海道の中間点であり「中ノ町」となっているとのこと・・ちなみに掛川は宿場の真ん中との事・・(雑学風に)
金原明善:天竜川のたび重なる氾濫で犠牲者が出るのを見て、反対する時の明治政府を説得し私財をなげうって20数年の歳月をかけ、明治33年に天竜川堤防工事を完成させた人である。

そのすぐ先に、徳川家光が浜松城主に命じて建立させた薬師堂が現存するという白い塀に囲まれた松林寺がある。

松並木跡案内板 少林寺 六所神社・道標 六所神社 舟橋跡案内板 天竜川

まっすぐな道の正面に木立が見える。その中に六社神社があり、神社脇には旧東海道道標が立っている。神社脇の階段を登り、道路に出ると神社の木立の道路脇に玉座迹の碑」「明治大帝御聖跡の石標」「船橋之記の碑」が連続して立っている。
明治元年の天皇行幸の際、急遽、村の浅野茂平が担当して78艘の舟を並べて船橋を架けたところである。

天竜川橋から下流 天竜川橋
中の渡し碑
中の渡し碑 上の渡し・歴史風景館 上の渡し跡

先に見える橋を渡ると浜松市と別れ磐田市となる。現在は渡船はないので、橋を渡ることになる。
橋は下流側に天竜川橋があり、その先に新しく出来た新天竜川橋がある。東海道を歩いた時はこの端はなく天竜川橋をバスで渡った。雨の振る中、長い長い新天竜川橋を渡る。渡った先からは東海道で歩いた道を逆に歩くこととなる。東海道の時に休憩した天目神社で同じく小休止する。ここは池田の中の渡しの場所でもある。その先、上の渡しがあり資料館がある。ここから先は池田の近道(姫街道)となる。

池田近道 熊野の長藤 案内板 熊野母娘の墓
池田近道案内板
用水路の桜

池田近道:天竜川を渡るルートは、東海道は見付宿から南下して豊田町森下付近から池田の渡船場まで北上する遠回りな経路であったため、見付宿からまっすぐ西へ出て一言坂を通り、池田渡船場まで斜めに直線的に行けるこの姫街道が好まれた。ただ、この道は徒歩の人しか通ることが出来ない細い道で、馬や荷物は東海道を行くしかなかったと言う。集落と田圃・畑の中を歩くと用水路にぶつかる。用水路脇を進むと用水路の手摺に、「池田近道(姫街道)」標識が立っている。

池田近道の姫街道は渡船場から東南に200mほど進むと道の左側には、謡曲や平家物語に登場する熊野(ゆや)御前の墓のある行興寺がある。
山門の前には、「天然記念物熊野の長藤」の案内板もある。
この長藤は熊野御前が850年ほど前に植えたと言い伝えがあるもので、国(本)と県(5本)の天然記念物に指定されている。
門を入ると正面には、県指定天然記念物熊野の長藤5本が蕾を延ばしている。左手奧には、熊野御前と熊野の母の墓が祀られている。

熊野御前:平安時代末期、池田庄、庄司の藤原重徳の美しい娘で、遠江の守平宗盛(平清盛の息子)の寵愛を受けて都に上がる。その後母が病気になるが郷里に帰ることを許してもらえず、宗盛が桜見物に清水寺へ熊野御前を連れて行った折「いかにせむ都の春も惜しけれど なれし東の花や散るらん」(京都の春の桜も惜しいけれど、こうしている間に住み慣れた遠州の藤の花と「母の命」も散ってしまいそうです)の一首を宗盛に奉げた。
この歌に心うたれた宗盛から郷里に帰ることを許された熊野午前は、必死になって母の看病をしたが、その甲斐もなく母は亡くなってしまう。
また宗盛も壇ノ浦の戦いで源氏に捕らえられ、近江で処刑される。ひとり残された熊野御前は尼となるが、33才の若さで死んでしまう。

なお、「ゆや」という名は、父重徳が紀州熊野権現へ祈願をかけ授かった娘であったので、熊野(ゆや)という名が付けられたと言われている。

十字路の右側に祠の石仏がある。街道を歩く旅人を見守っていたのであろう。道標・案内標識の無い、集落・田圃、畑の中の道(農道?)を歩く・・秋葉神社御神燈の十字路を直進する・・案内人か正確な地図がないと歩けない街道である。
磐田バイパスガード下)をくぐり、豊田交番の脇を左折する。農道を進み、桜堤の豊田4号橋を渡り少し歩くと木立の奧に、山門が旗本の皆川歌之助の陣屋門を移築したと伝えられる智恩斎がある。
その山門の西側(左側)には、一生に一度だけ願いが叶えられるという一言観音が祀られている観音堂があり、武田信玄に戦いに敗れた徳川家康が戦勝の一言を願ったという。


智恩斎入口石碑
山門 本堂 観音堂
一言観音
一言坂

田圃の中の道を進む、相変わらず標識・案内板の類は無い・・菜の花の咲く用水路を渡ると一言坂を登る道となる。昔の道を想わせる細い道を登り、坂道の突当りの丁字路を左折して、ゆるい右カーブの坂道を登る。曲り角の途中に琴平神社跡石段の脇に、一言坂戦跡説明板が立っている。

一言坂へ 一言坂 一言坂案内板 一言坂の戦い
案内板

一言坂の戦い
案内板

鞘堂

一言坂の戦い:元亀3年(1572年)に甲斐国の武田信玄に攻め込まれた遠江国領主の徳川家康が、三方ヶ原の戦いで破れ浜松城を目指して敗走したとき、この一言坂で追いつかれ再度合戦となった。これを一言坂の戦いという。このとき家康の家臣本多平八郎忠勝が、大槍を振り回してひとり大奮戦し、枯草に火を放ちその煙の中に見事徳川軍を退却させた(正確な史実はたくさんあり不明である)と伝えられている。

市街地に入り、道なりに進むと磐田警察署があり、その先、左側の木々の茂る一角は陸上競技場などのある「かぶと塚公園」で、中央に公園入口がある。園内の「しじまの森」には、直径80m、高さ8mの円型古墳がある。
かぶと塚の名の由来:案内板には「古墳の形が兜を伏せた状態に似ている」ことからとあるが、武田軍との戦いで「徳川方の本多平八郎忠勝がこの円墳の松の木に兜をかけた」ことからきている、という説もある。


常夜灯
西光寺山門 楼門 楠の巨木 樹齢500年 姫街道木戸

公園のさき三叉の道路の左手を進み下る。その先の秋葉山常夜燈のところから道路を渡ると、見附宿の 南本陣・神谷家、北本陣・鈴木家の墓所がある樹齢500年を越すと言われる楠の巨木のある西光寺がある。

西光寺では偶然にもご住職がおいでになり寺の中を案内してくれた。外観は新しいが、内部は江戸時代の寺の形を残してあり、貴重なものを見ることが出来た。また、東海道の時に聞いた「日限地蔵尊(ひぎりじぞうそん)」、ご本尊も拝観できた。寺の内部も詳しく説明しいただき、姫街道フィナーレにありがたいお話も聞くことができた。感謝・感謝である。

東海道木戸
見付宿西木戸
赤松家門 案内板

常夜灯まで戻り通りに出ると、右側の理容店角に「遠州見付宿 これより姫街道 三州御油宿まで」道標があり、姫街道東下りのゴールである。右に進み、加茂川にかかる河原橋を渡ると西光寺山門があり、見付宿西木戸となる。

煉瓦造りの旧赤松家を見学して、昼食・・二泊三日・・西気賀から見付宿までの姫街道東下りの旅は心の中にいろいろな思いを残しゴールした。

 



                                        無事完歩しました