姫様と歩く姫街道・・後半(西気賀〜見付宿) 29Km
                                                                          2015.4.3〜5
東海道を歩いた仲間と一緒に・・姫街道道中記・・お姫様の歩いた姫街道・・西気賀から見付宿にゴールしました。。

4月3日() 西気賀・薬師堂から湖東(交差点)まで 13Km

姫街道を歩く現代の旅人・・私たち31期の仲間は、東下りで見付宿を目指ざしました。早朝の集合場所、時間通りの出発はいつもと同じ・・天気が心配だが、顔なじみの笑顔が嬉しい。


前回ゴールの時も雨だった・・「姫街道」の案内板に見送られてスタートとなる。
歩き始めるとすぐに人影のない道の左側に、安置されている薬師如来像台座に天保6年(1835年)と刻まれている薬師堂がある。もともとは辻堂で、引佐峠越えの旅人の休息所にもなっていたという。その隣に文化2年(1805年)建立の秋葉山常夜灯が立っている。道の分岐するところにある「姫街道道標」とお地蔵様がある。緩やかな坂道を登る。少し行くと石畳の道となる。石畳の道は見た目はよいが雨で濡れて歩きにくい・・特に雨の日は滑りやすい。 

見送られてスタート 薬師堂 峠への石畳 浜名湖を望むが・・ 祠とお地蔵様 姫街道・小引佐

ほどなく峠の頂上に着く。この辺りは小引佐(こいなさ)と呼ばれ、姫街道の中でも引佐細江(浜名湖の入り江)の景勝地として知られている。眼下に浜名湖を一望できるはずだが雨では仕方ない。(だが、翌日思わぬサプライズに参加者は感激することとなる)

舗装道路を進むと、花が供えられた道祖神・お地蔵様が祀られている。街道を進むと右側に江戸から69番目の山田一里塚跡碑がある。


雲海・・?
満開の花桃 案内板と夏みかん 山田一里塚跡
堀川上戦死者の墓

山村修理の墓

キイチゴの白い花が咲く道を、数分(4分)ほど歩くと、左側の林の入口の小さな広場に、堀川城戦死者之墓とともに山村修理の墓がある。
山村修理は、堀川城が徳川家康軍により落城したときの城将で、この場所で燃え落ちる城を見ながら切腹したという。松の古木があり、「修理殿の松」と呼ばれていた。
細江町(気賀、中川)は今川の支配地域で徳川家康遠州攻略の際の激戦があったところであり、その戦いの中心が堀川城でそちこちに史蹟がある。

緩やかな坂道を登り、街道の右側に入った所に宗良親王の妃の駿河姫を祀った二ノ宮神社がある。境内の桜は満開である。 

二宮神社
自然石の道標
小森川 呉石学校跡碑 いぐさ栽培の案内板 呉石学校跡

桜満開の小森川の小さな橋に先に「姫街道」道標がある。呉石田園公園看板があり、その一角に「呉石学校の跡」碑と人物坐像がある。建物は学校の跡かと思ったらトイレであった。「いぐさを使っ手の畳表をこの地の産業として発展させた」と案内板にある。 

5分ほど歩くと鞘堂の脇に鳥居と階段、その先右側に、石積の上の獄門畷(ごくもんなわて)碑がある。
桶狭間の戦い後、永禄12年(1569年)堀川城に立てこもった今川勢の男女2千人は、徳川家康軍に攻められ落城し、男女共皆切り殺されてしまった。
捕らえられた約700人も、この付近で首を討たれ、この小川に沿った土手に晒らしたので「獄門畷」といわれるようになった。この時家康は25歳であったと言う。堀川城はここから約1km南にあった。その先、左側の呉石バス停脇路地を入った、急坂に「犬くぐり道」の案内板がある(後述)
もとの道に戻る。右側にきれいに整備された姫街道本陣前公園がある。観光用の休憩所となっている。その先の左側の空地に、安政4年(1857年)地元の若者が40両で建立した秋葉山常夜燈が建っている。常夜燈の奧の石垣は、気賀宿西入口に設置された枡形石垣で、この上に土を盛り矢来を組み、門をもうけて外敵侵入の防御としていた。
街道から外れ、約300m南の細江図書館脇に、平成元年に冠木門・本番所・向番所(牢屋)、遠見番所などとともに等身大の人形が当時の様子を場所を変えて復元した気賀関所がある。

獄門畷案内板
堀川城将士
最期の地碑
犬くぐり道(西側)
常夜灯
桝型・常夜灯案内板 姫様道中桃太郎旗

1601年徳川家康によって設置された気賀関所。現在の建物は、当時の資料をもとに復元したものです。東海道三大関所といわれ、明治2年(1869年)まで続いた。ガイドさんの話を聞きながら見学する。ここには珍しく(関所には無い)牢屋があった。姫様道中の資料館もあり、見学する。狭い資料館ではあったが資料は充実していた。 


気賀宿関所(復元)
冠木門
本番所外観 本番所 本番所(接見) 向番所 牢屋
関所配地図 姫様用駕籠 姫様道中 正命寺 馬頭観音 鞘堂

街道に戻る。左側に、本陣中村家の菩提寺として栄えた正明寺があり、この寺は本陣が混雑したときの宿となったと言う。左側には鞘堂に収まった馬頭観音、斜向かいのNTTビルの脇に「中村本陣之址碑」その先に「気賀宿中村本陣跡案内板」が立っている。
案内板によると、宇布見村(現雄踏町)の中村家は徳川家康の三男秀康の生まれた家で、中村家次男与太夫は本多作左衛門の世話で気賀宿の代官となり、後に本陣中村家となった。本陣の中村家は代々与太夫を名乗ったと言う。 
気賀宿:気賀は天正15年(1587年)本多作左衛門によって宿場と定められた。気賀関所を東の入口として西へ5町53間(641m)の宿通りで、本陣と問屋場が各1軒、旅籠が8軒あった。関所東側から宿の南側に沿って要害堀が設けられていた。

中村本陣跡
細江神社

拝殿
歴史民俗資料館
一階展示場
歴史民俗資料館
二階展示場

犬くぐり門

その先、左側に気賀宿のほぼ中心にあり姫街道の守り神として信仰を集めた細江神社がある。4月4・5日が例大祭でその準備がされていた。大きな幟旗の立った参道を通り参拝する。

細江神社:明応7年(1498年))の大地震による大津波で浜名湖の湖口を守る神として荒井(新居)の里に祭られていた角避比古神社
(つのさくひこじんじゃ)の御神体の(すさのおのみこと)が、気賀上村の赤池の地に漂着したといわれる。

人々は初め赤池の北90m程のところに仮屋を建て祭っていたが、永正7年(1510年)この地に社殿を建てて祀った。境内には、この時以来500年の年輪を重ねた、根回り18mもある楠が林立し、歴史の変遷を静かに見守っている。また天台烏薬(てんだいうやく)など多数の植物が群生している。

神社西側に「浜松市姫街道と銅鐸の歴史民族資料館」がある。一階は浜名湖で使われた漁具、2階は発掘された銅鐸が展示されており素晴らしいものであった。
細江神社の裏手には犬くぐりの道と呼ばれていた関所の裏道がある。(前述の道である)
気賀関所は地元の人も通行手形が必要で不便であったので、領主近藤用随が犬くぐりと呼ばれる関所の抜け道を作った。道の途中にワラむしろ一枚を垂らした門をつくり「そのむしろの下を四つんばいで通るのは人間でなく犬だという解釈」で人の通行を認めるという、粋なはからいをした道である。

細江神社のすぐ先交差点の手前に「気賀関所跡」案内板が目立ちにくく(東下りでは見落としてしまう)かかっている。矢印に従い狭い路地へ入ると。突当りの右側の建物が関所の本番所建物跡(屋根が残っている)とのこと。


関屋(関所)案内板
現存する関所の屋根 気賀4丁目交差点 落合橋から 刑部城址 金山神社(刑部城跡)

気賀4丁目交差点が宿場の出口(東下り)となり、その先200mほど進み、都田川にかかる昭和51年に完成した落合橋渡る。当時は気賀関所の要害としての役割があったため、橋はなく橋の左手の渡船場から船で渡っていた。その先、道は2つに分れ左手の道を進む。右手に「金襴の池」案内板が立っている。
金襴の池:徳川軍に敗れた刑部城の城主の美しい姫が、敵の手にかかってはずかしめを受けることを恐れ、この地にあった金襴の池に身を沈め蛇に姿を変えて住んでいる、と言う伝説がある。残念ながら・・その池はもう全くない。

その先で刑部川(おさかべがわ)にかかる橋を渡り、右折して川沿いに進み、川向こうには戦国時代の永禄11年(1586年)この地の今川方の内山党が、この城にたてこもり徳川家康軍と戦い敗れたところで、右手奧に刑部城跡に建てたれた金山神社鳥居に参拝する。このこんもりとした森は刑部城跡で、阿王山紫城ともよばれていた。
街道の面影を残した坂道の途中左側に、服部小平太最後の地碑と服部小平太を祀った宗安寺跡説明板が立っている。墓は細い坂道を下った先にあるとのことだが、雨の日にそこまで行く気概はない。

服部子平太は永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで、織田信長の家臣として今川義元を討った1人で、その後信長死後、徳川家康からこの地を授かった。しかし、もともと今川領だったこの地方で、小平太は恨みを買いある日この場所で何者かに討たれてしまったと言う。 

鞘堂と案内板
街道の坂道
服部小兵太の墓
案内板
老ヶ谷一里塚 千日堂
秋葉常夜灯

坂を登り終えると右側民家の敷地に、江戸か68里の老ヶ谷一里塚跡碑がある。雨が強くなる、7分ほど歩いた右側に老ヶ谷第二集出荷場の脇広場に、寛文11年(1671年)老ヶ谷原山新開発の褒章として、観音像を祀って建てられた千日堂がある。
千日堂の名の由来は、宝永年間(1704〜1710年)に千日講本尊として阿弥陀如来を祀り、千日念仏を行ったことからきているという。
左手は茶畑で、雨に濡れた黄緑色が目の保養となる。5分ほど先の分岐角に、文化8年(1811年)建立の老ヶ谷秋葉山常夜燈がある。

常夜灯から歩道を10分ほど歩くと、正徳2年(1711年)ここにあった刑場の霊をなぐさめるため建立された六地蔵がある。その脇に、「左浜松宿、右気賀宿」道標がある。

六地蔵案内板 六地蔵 三方古戦場跡碑
根洗いの松碑

根洗いの松

祝田坂道標・案内板

雨が強くなり、とりあえず湖東の交差点まで歩くこととなる。261号線を歩く、途中、市長候補の立会演説に遭遇するが聞いている人はいない・・20分ほど歩き湖東交差点脇のコンビニ駐車場ででバスに乗る。姫街道とは外れるが講師の案内で、「三法ヶ原古戦場跡」碑・「根洗いの松」を見て「祝田坂(ほうだのさか)への旧道」を少し歩き、今日の行程はここでゴールとなった。

三方ヶ原の合戦
元亀3年(1572年)武田信玄と徳川・織田連合軍が浜松市郊外の三方ヶ原台地で激突した戦いで、家康の生涯で最大の敗戦と言われています。武田軍3万人に対して家康軍はわずか1万人足らず。これでは勝負にならないと兜を脱いだ家康は、家臣に化けて命からがら浜松城に逃げ帰ったのでした。城に帰った家康は、敗戦直後の意気消沈した自分の顔の絵を描かせ、生涯この絵を大切にし、敗北を自戒したと伝えられています。
合戦の夜、家康はなんとか一矢を報いようと、三方ヶ原台地の南端にある犀ヶ崖で夜営していた武田軍を奇襲。崖に白い布を架けて橋と見せかけ、地理に疎い武田軍は次々と崖下に転落したと伝えられ、いまも「布橋」という地名が残っています。現在、犀ヶ崖では、毎年7月15日に三方ヶ原合戦の死者を供養するために「遠州大念仏」という郷土芸能が奉納され、市の無形文化財に指定されています。

犀ヶ崖には東海道を歩いた時に現地に行きました)

三方ヶ原合戦の場所は諸説あり定かではないが、現在の三方原地区を含めた台地の北部であったといわれている。市民霊園の駐車場に石碑が建てられているだけだが、武田・徳川両軍の最初の激突がこの辺りであったと言われている。
ここから約1.5Km北には祝田坂旧道碑があり、家康が“してやられた”祝田坂(ほうだざか)が位置しています。

根洗い松、祝田坂旧道
合戦の火ぶたを切ったことで知られる祝田坂へと続く旧道が、国道257号線の脇から続きます。旧道碑の向かいには根洗い松があり、現在の松はやや小ぶりの二代目で、武田信玄はこの付近に本陣を置き、物見の兵がここの松に登って見張りをしたと伝えられています。三方原台地の北端にあたる旧祝田坂は、今ではほとんど人が通ることのない山中の道となって残っている。・・残念ながら行けなかった。



                                        4月4日 湖東(交差点)〜安間一里塚