姫様と歩く姫街道・・前半(御油追分~西気賀) 31Km
                                                                           2015.2.3~5
東海道を歩いた仲間と一緒に・・姫街道道中記・・お姫様の歩いた姫街道・・御油見附から気賀まで29Kmを歩いてきました。

2月4日(水) 当古の渡し~三ヶ日一里塚 18Km

昨日に続いて天気は良い・・今日は、いよいよ姫街道一の難所と言われる本坂峠に向かって歩きました。

当古から本坂方面 やぶ椿 柿畑 長楽一里塚
常夜灯

当古橋から長楽の一里塚跡まで約30分、本坂峠の椿も今日の見所、道路、民家脇の椿の木の藪椿がちらほらと咲いている。水仙、蠟梅//
所々には梅の花が咲き、この山里にも春の訪れを感じる。国道の右側に「右 京より3里 姫街道長楽一里塚 左 江戸より74里」と書かれた長楽一里塚が立っている。姫街道に入って初めての形が残っている一里塚であった。更に5分ほど歩く。本坂道の御油・青田方面への分岐点に
建っている常夜灯は「右豊川左豊橋」と刻まれ、文政3年(1820年)建てられた道標である。この辺りの標高は50mほどと・・さらに歩いて国道362号線から別れて嵩山(すせ)宿に入る。


石灰鉱山

筆の里
姫街道方面 国道・本坂トンネルへ
常夜灯

宿の幟旗

嵩山宿の入口で、道路の脇には幟が立っていた。嵩山宿宿成立は明和元年(1764年)、嵩山は村の周辺の山の石灰岩から造った石灰96俵を青田藩に納めていた継馬問屋のある小さな宿であったが、宝永4年(1707年)遠州灘大地震で東海道の新居~舞阪宿が壊滅したことから今切の渡しを避けた旅行客が急増し、必要に迫られてできた宿駅である。その始めは休泊のための本陣があるだけで脇本陣も旅龍もない宿であったが、幕末には交通量が増え脇本陣や旅籠屋も置かれるようになった。

常夜灯・現住の夏目家本陣跡が残っている。


本陣跡(夏目家)
蠟梅 いよいよ峠へ
峠の入口
石の道標 休憩所の案内板

夏目家は建坪およそ51坪の名主宅で大通行の節は休泊所として問屋場も兼務していた。菜の花や蠟梅が見事に咲いている。峠の登山口には立派な石柱が立っている。

元気に歩きます
嵩山一里塚

石段の道
道標 弘法水

緩やかな登りもすぐに急坂となる。椿の花や野鳥の声、が疲れを癒してくれる。入口から20分ほどに作られた休憩スペースで一服・・案内板の漫画で描かれた姫様道中に和む。杉林の坂道を5分ほど登ると江戸から73里の嵩山一里塚柱が立っている。水場・浅間神社に標識、七曲りの急登、弘法大師が峠越えの際に喉を潤したと言う弘法水などを経て峠に12時10分過ぎに到着しました。


記念写真

下りに入ります
原生林の椿 原生林の石畳 ヤブツバキ

本坂峠は三河と遠州の境にある峠で標高328.8mで、嵩山宿からは280mほどの登りです。地名の由来は①板築山に基づくもの、②舌代の穂の国へ通うための坂「穂の坂」が靴ったもの、③穂の国と接していてその境である「穂の境」が靴ったものなどの諸説がある。高さ山、99折の路、昔しう越えて峠に着く(丁己旅行記)いやになります三ケ日泊まり、一夜あければ本坂へ(僅謡)などと詠われている。

峠頂上まで約50分の行程でした。参加者全員で記念写真を撮る。本坂峠の山道は「姫街道」の案内標識の案内板が多く迷うことは無い。石畳の急道を下り、楽しみにしていた樹齢200年を超えると言う椿の原生林はまだ開花は早いような、花はちらほらでした。


椿の原生林入口
(本坂宿側)
鏡岩 三ヶ日のミカン畑 名残のミカン 弘法堂

椿の原生林を過ぎると鏡岩です。大きな一枚岩は光ってはいません。昔、この岩は光っていたので、通行の女性はその姿を映して化粧直しをしたといわれる。浜名湖が陥没した際の地殻変動によりこうした滑らかな平面の岩ができた。
何度か車道を横断しながら下って行く。この辺りは有名な三ヶ日のみかん畑を一望できる場所です。収穫はほとんど終わったのか、ミカンの木にはほとんど実は着いていませんでした。坂を下り切ると国道に出る。国道のわき道に一際目立つ赤い弘法堂がある。木製の祠の前には幕が張られ、中に2体の石像が安置されている。案内板には金銅製の弘法大師像もとあるが、これは確認できなかった。明治時代のもの・・と書いてあった。

ちくわ稲荷(弁当) 一里塚(このあたり?) 鞘堂
橘神社

筆塚
本坂関所跡

街道の面影を残す本坂宿には鞘堂・常夜灯が残っている。一旦国道に戻り筆塚のある橘神社に向かう、

橘神社は三筆のひとりで唐に留学したこともある橘逸勢(たちばなのはやなり)を祀った。逸勢は敬遠天皇の子孫である橘氏の出で、唐より帰朝後、伴本(とものこれみね)等と、皇太子恒貞親王を奉じて謀反を企てた罪によって伊豆へ流される途中、枚築(ほうづき)駅で病死した。「かくはしき木の実ありてぞ橘の枯木をもとにうつされにけり」(昭憲皇太后)と読まれている。
街道に戻ると旧街道を思わせる通りには、気賀に関所が出来て役目は終を終えたと言う本坂関所跡の案内板が民家の庭に立っている。

馬頭観音 本坂一里塚 板築駅跡 華蔵寺山門 立春大吉(千社札) 華蔵寺本堂

国道に戻り、左側の旧街道を少し登ると、馬頭観音、本坂の一里塚がある。東下りする者にとっては案内がないので判り辛いが、一里塚の特徴がはっきり残している。街道歩きにとってはこのようなはっきりと形の残った一里塚に出会うのは嬉しい。

少し歩いた国道の右側には板築(ほうずき)駅跡の案内板がある。その先には朱色の山門に「立春大吉」の札をはった華蔵寺がある。

菜の花畑 三ヶ日・鞘堂 早春・梅 殿畑遺跡案内板
本陣跡

ありました・・

ここでしばしの休憩・・華蔵寺を過ぎて、しばらく歩くと街道は国道から左に分かれて三ケ日高校の向かいには鞘堂に収まった秋葉常夜灯、その先緩い坂道を下り交差点の先右側には肥料とミカンの集荷場があった。ここでしばしの休憩・・接待のミカンが喉を潤してくれた。道路右側に入ると殿畑遺跡の案内板が立っている。殿畑遺跡は、1925年(大正14年)温室経営をはじめようと準備していた石原光氏が、土器片や石器を採集されたのが、その存在を知られるきっかけとなった。後1960年(昭和35年) 耕地整理事業で土器石器が出土したので 、町教育委員会では、浜松市博物館、向坂鋼二氏らに調査を依頼し、報告書を作成した。出土した土器は、水神平式土器、遠賀川系土器の見られる例で、 遠州以東には珍しい縄文晩期から弥生初期にかけての遺跡である。石鏃 、石剣、石棒なども多数出土した。(町教育委員会資料より)

三ヶ日一里塚 天竜浜名湖線
三ヶ日駅

Sさんの誕生会

旧道に戻り、少し行くと岡田医院の看板の下に三ヶ日宿本陣跡の案内板がある。三ケ日宿ができたのは本坂通の交通が激増した宝永4年(1707年)10月の東海道大地震以後と考えられる。これより60年後の明和元年(1784年)ようやく実情が理解され伝馬宿次御用を命じられている。全国を調査して歩いた伊能忠敬は文化2年(1805年)この本陣に泊まり「小家なれ共家作りよし。酒造をなす。と「浜名湖測量日誌」に書いている。宿駅の西には本坂峠もあって交通上の要地として人馬の需要が多く、宿内は家が立ち並び商人の活動も活発だった。三ケ日には「脇本陣無し」とある、公式認可のものでなく本陣の控えとして石川家が務めていたという
緩やかな坂道を歩き、町の中心地当たりと思われるところに江戸より71番目である三ヶ日一里塚跡の石碑が建っている。大正元年(1912年)まではこの辺りは松林だったと言う。
今日のゴールはこの一里塚である。


                                             2月5日 三ヶ日一里塚~西気賀