Blowin' in the Wind  東海道完歩31期の仲間たちと・・

       東京下町・武蔵野さんぽ 大江戸線ウオーク(全13回) K 
   
                                    2014年1月〜2015年2月
2015年1月9日(金) 第十二回 蔵前から森下までの3駅間

東海道31期の仲間と歩く「大江戸線沿線ウオーク」も12回となって、今回は蔵前駅から森下駅まで歩きました。

朝の風は冷たかったものの昼前からは風も収まり暖かい陽射しの中を歩いてきました。今回(その1)は24名が参加・・時間通りに集まるのが旅慣れた仲間たちです。


早く着いたので・・
吾妻橋から

旅籠の玄関
駒形どぜう
集合は大江戸線
蔵前駅
厩橋 水道局・水の蔵

厩橋西詰で準備のストレッチと、行程の説明、事務局からは今後の予定の連絡をしてスタート。


浅草御蔵跡
浅草御蔵跡碑
蔵前橋から
首尾の松
首尾の松碑
蔵前橋を歩く

西詰から幕府の米蔵跡である「浅草御蔵跡」へ向かう、米蔵は大坂、京都とここの三か所であった少し戻り、交差点を渡り米蔵後の向かいにある大川(隅田川)が台風で氾濫しそうになった時、見回りに来た三代将軍家光の前で、手綱さばきも鮮やかに、川を往復した阿部豊後守忠秋を称えた松・・七代目首尾の松は若い木であった。イチョウ・欅の古木はたくさんあるが、松の老木・古木は少ない・・松の寿命は短いのかな?


国技館・一月場所幟
庭園 石灯籠
野水仙
駒止石 震災児童弔の碑

蔵前橋を渡り、両国国技館の一月場所の幟を見ながら旧安田庭園へ入る。小規模ながら、徳川時代の典型的な池泉回遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)の大名庭園で、この園を明治22安田財閥が所有し、大正11年当時の東京市に寄贈された

花とうば置台 本堂 東京空襲犠牲者
追悼碑
復興記念館
徳川家康像
江戸東京博物館
大名駕籠

旧安田庭園前の信号を渡ると、関東大震災の身元不明の遺骨を納め、死者の霊を祀るため昭和5年に震災記念堂として創建された東京都慰霊堂がある補修工事中で建物は工事用足場で覆われていた。昭和20年の東京大空襲の身元不明の遺骨納められ、合祀、昭和26現在の姿となる。


人力車
懐かしい・・ T型フォード 家康像 屏風図 葛飾北斎生誕の地
案内板

震災堂から南へ少し歩くと江戸東京博物館の大きな建物が見える。北側の道路脇には亀に乗った大きな徳川家康像があった(これは知らなかった・・)現在、常設展示室は休室中で、通常は広い空間で模型類とともに展示されているさまざまな資料を1階の展示室に集め、その歴史的価値や魅力が丁寧に紹介されていた。江戸400年年の歴史と文化を学べる博物館である。7階のレストランで食事・・展望の良さもご馳走だった

北斎ギャラリー
野見宿袮神社案内板
歴代横綱の碑

江戸東京博物館から東方向へ行く通りが北斎通りである。通りには北斎ギャラリーが・・博物館近く通りの左側の菓子店の脇には北斎生誕の地の碑が立っている。葛飾北斎(1760年〜1849年)は江戸後期の浮世絵師で、江戸本所に生れる。葛飾派の祖である。勝川春章二入門し、春朗と号した。後に宗理・画狂人・戴斗・為一・卍など、しばしばその号を変えたと言う。代表作は「富嶽三十六景」である。

北斎通りと三つ目通りの交差点の角には、明治18年に津軽家の跡地に相撲の神様「野見宿祢」を祀り、歴代横綱の碑のある野見宿祢神社がある。長い大相撲の歴史で横綱の碑は2基となっている。一基目は初代から46代朝汐太郎、二基目は71代の鶴竜までの名が彫られている。記憶にあるのは千代の山、鏡里あたりかな・・

龍之介生育の地
案内板
回向院
水子地蔵
杜子春の碑 勝海舟生誕の地碑

三つ目通りから京葉道路へ、道路脇には芥川龍之介生育の地の新旧2本の案内板が立っている明治25年、明石町(現在の聖路加病院近く)で生まれ生後ケ月のときに母親が精神病を患い、本所の母親の実家に引き取られた。11歳の時に母は他界その後、伯父の養子になり、芥川姓になった。地元の江東(えひがし)小学校(現在の両国小学校)、府立第三中学校(現在の両国高校)に通った。両国小学校脇に「杜子春」の文学碑が建てられている

両国駅前の回向院は、無縁寺とも呼ばれ、明暦3年1657年)の振袖火事で約10万の江戸市民が犠牲になった。そうした人々の遺体を収容し茶毘に付し埋葬、塚を築き回向したのが、この寺の始まりである

「みんなが、この前の新年会のここに来たね・・」と覚えていてくれたのが嬉しい。

両国小学校脇にある芥川龍之介文学碑、両国4丁目公園には勝海舟文政1823年〜明治321899年生誕の地の碑が建てられている。海舟はここで誕生し、幕末から明治時代に活躍した。勝麟太郎通称で、本名安芳(やすよし)である。


一茶旧居跡案内板
吉良邸案内板
上野介像
本所松坂町公園
江島神社案内板 江島神社
洞窟内部

碁盤の目のように整備された道を東に進むと、「小林一茶旧居跡」の案内板がある。一茶(宝暦131763年〜文政101827年)は故郷の信濃から、15歳の時に江戸に出て俳人となる。一茶が41歳から足かけ年住んだ借家があった所であるここら辺りは緑と言う地名である。「旧居跡は下記場所に移転しました」と書かれた何とも妙な案内板が立っていた。

来た道を戻り、本所松坂町公園の忠臣蔵で有名な吉良邸跡に戻る、忠臣蔵では悪役であはあるが地元、この地では良いお殿様であったと言う話も残っている。吉良上野介義央寛永181641年〜元禄151703年)の屋敷があったところである。当時の広さは2500あった。上野介の基中野の功運寺にある。この界隈には吉良邸関連の案内板が数多く立てられている。

両国から一ノ橋を渡り、千歳に入る。参道の奥に見える江島杉山神社は、江戸時代杉山検校が江の島の弁財天を祀った江島神社を屋敷内に作ったのが始まりである。明治になって、杉山検校を祀った杉山神社が造られ、合祀されて江島杉山神社となった。

この地で開拓と海苔の製造に従事していた小林冶郎右衛門が開基となり増上寺の源蓮社信誉重故栄松和尚(寛永20年寂)が開山に迎えて、慶長11年(1605年)創建した西光寺は立寄り。

要津寺雪中庵案内板

芭蕉翁佛塚
古池や・・

雪中庵供養碑

墓碑

雪中庵供養碑

同じ千歳にある「要津寺」は境内右手に整備された一画に基の石碑が安置されています。すべて松尾芭蕉の高弟・服部嵐雪に始まる一派(雪門)の統率者である雪中庵(せっちゅうあん)に関係してい。それぞれの石碑の概要は以下の通りである(墨田区公式ウェブサイトより)
 )芭蕉翁俤塚:芭蕉70回忌を記念して宝暦13年(1763年)に建立。
 ()松尾芭蕉「古池や」の句碑:芭蕉80回忌を記念して安永年(1773年)に建立。
 )芭蕉翁百回忌発句冢碑:芭蕉100回忌を記念して天明年(1782年)に建立。
 (4)服部嵐雪・桜井吏登墓:雪中庵世嵐雪と世吏登の墓碑。安永年(1776年)に建立。
 ()大島蓼太墓:要津寺境内に芭蕉庵を建てた雪中庵世蓼太の墓碑。天明年(1787年)に建立。
 ()雪中庵供養碑:雪中庵世から14世までの供養碑。大正年(1918年)に建立。

要津寺「芭蕉の三哲の一人、嵐雪の庵跡」を訪ね、本日の行程は無事終了・・ゴールの森下駅で解散。


今日の行程  

   蔵前駅→浅草御蔵跡→首尾の松→旧安田庭園→東京都慰霊堂→江戸東京博物館→葛飾北斎生誕の地→野見宿祢神社→芥川龍之介生育
   の地→回向院→芥川龍之介文学碑→勝海舟生誕の地→小林一茶旧居跡→吉良邸跡→江島杉山神社→要津寺(芭蕉の三哲の一人、嵐雪の
   庵跡)→森下駅



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