「あっ!雪だ・・」スタート前の展望台である。ホテル(諏訪湖畔)からは見えた富士山も峠からは微かに見え、南アルプス、八ヶ岳も雲が覆い被さっていた。雄大な風景は少々残念だったが、思いもよらぬ「風花」の歓迎を受けた。11月も下旬になると峠や山は冬である。頂上の土は霜柱で盛上っていた。

昨日の続きで、明るい中で浅間神社と御嶽遥拝所の確認をしたが「富士浅間社」の立て看板だけであり、明治天皇が登られた記念碑が堂々と立っている。

展望台から(朝) 塩尻峠
頂上の祠

明治天皇記念碑

明治天皇記念碑

明治天皇記念碑

下山口の表示は「旧中仙道」となっている。長野に入ってからは、この「中仙道」の表示が時々見られる。
「旧中仙道」下山口から舗装された急坂を楽々と下る。5分ほど歩くと左側の少し開けたところに、立場茶屋本陣跡の民家がある。門構えは立派であり、山奥の一軒屋で現在も人の住んでいる様子である。

その斜向かいには明治天皇が塩尻峠に登った際に使ったという井戸が残っている。この井戸の水は皇女和宮も使ったという。
林の中の道を下り、右側のちょっと奥に入ったところに、天明の飢饉の時、この峠で行き倒れになった旅人を弔ったという親子地蔵があり、その脇に「伝説夜通道」の白杭の案内板が立っている。

伝説夜通道:昔、片丘辺の娘が岡谷の男に会うため夜この道を通った」と書かれている。親子地蔵とは関係なさそうである。こんな山の中の道を通ったのだからこの岡谷の男はよほど「いい男」であったのであろう・・

さらに下ると左側に、江戸日本橋から53番目の東山一里塚跡があり、対となる北塚は崩されて用水池になっている。その先で道は2つに分かれ左手を進む、分岐角に「高ボッチ高原8Km 塩尻峠1Km」案内板があり、右手の道は高ボッチ高原方面へ行くハイキング道となっている。

熊注意看板と歌碑 立場茶屋跡
御膳水井戸
親子地蔵
夜通道案内杭
東山一里塚跡

ここから左手を並行して走る国道20号線合流点東山バス停まで下って行く間に、いくつも分かれ道がある。左手の道を進む。左側下に神社のある分かれ道は、唯一右手の道を進む。ちなみに左手の下り坂を進むと国道20号線に出る。
マンホールのある分かれ道も左手を進み、次の分かれ道も左手の民家の間の細い下り坂を進む。 坂の途中の曲がり角に見逃してしまいそうな「犬養の清水の白杭の案内がある。
犬養の清水:江戸時代ある公家が旅の途中、連れていた犬が具合が悪くなり、ここの水を飲ませたら回復したという。
坂を下り切り、正面の国道20号線にかかる横断歩道橋へ進む。歩道橋下の東山バス停で20号線と合流し、塩尻峠から約30分の道のりである。


犬養の清水案内杭

犬養の清水石碑

牛馬守護塔
中山道 中山道長井坂 首塚

バス停から右折し、20号線を道なりに下り、坂の途中の東山食堂手前で、右側に入る細い坂道を上る。 その先で道は下り坂となり、木立の中、宗教団体の巨大な建物がある石垣の横の緑のトンネルを通り、下り続ける。 坂道は国道20号線で遮られ、左側に入口があるトンネルを潜って横断する。トンネルを出て、真っすぐな下りの長井坂と呼ばれている長い坂道を進む。 しばらく下り坂を進み、長野自動車道にかかる陸橋を渡り、さらに坂道を下る。

途中、右側のブロックの陰に、1853年(嘉永6年)建立の馬頭観世音がひっそりと立っている。長い下り坂は、とてもきれいに手入れされた垣根が続く柿沢集落に入る。左側に「首塚胴塚」標識があり、矢印に従い左折し、数十m行って眼下に拡がる塩尻の町を右に見て、左折すると、その先100mほどの畑の一角の奥に「胴塚」碑、手前に「首塚」碑がある。

首塚・胴塚:1548年(天文17年)甲斐の武田信玄と松本林城主小笠原長時と戦い、小笠原軍が敗れた。武田信玄は家臣の戦功を賞するため、小笠原軍の首実検をした後、その遺体を放置して引き揚げた。柿沢集落の人々は哀れに思い、放置された遺体をここに埋葬した。
元の道に戻り、反対側の丁字路角にとても古そうな夫婦道祖神がある。さらに坂道を下り右側に、道祖神があり、塩尻峠頂上から延々と続いた下り坂が終りになるころ、道路を挟んで鳥居のような鉄骨がどんと構えている。初めて目にするものである。滑車がついているので祭りの時に使うものであろう。このあたりの民家は松本平特有の切妻平屋にカラスオドシ(スズメオドシ)という特有の形の飾りを付けている。


胴塚

首塚

道祖神
カラスオドシ
(スズメオドシ)
カラスオドシの民家
鉄の鳥居

その先の下柿沢信号交差点を横断し、右角に道祖神があり、その先を直進し、正面火の見櫓のところで道は2つに分かれ、中山道は左手の細い道を進む。 数分進み、四沢川にかかる作並橋のたもとで国道153号線と合流し、右折して橋を渡り西へ進むと、右側の永福寺へ通じる小路の右角に、仲よく抱き合っている夫婦道祖神が永福寺への道標のように立っている。
永福寺:創建は
元禄15年(1702年)木曽義仲縁の地である、この地に木曽義仲信仰の馬頭観世音を本尊として朝日観音を建立したのが始まりと伝えられいるその後、社殿は焼失し安政2年(1855年)に再建され、現在の観音堂がその時のもので2代目立川和四郎富昌が棟梁として建築を指揮しました。建物は入母屋、茅葺、桁行き3間、梁間4間の妻入りで屋根上部は箱棟で正面には向拝が付き、富昌が建築途中で死去した為、遺作とされ、彫刻に未完の部分が残されている。正面にある山門(仁王門)は明治29年に建てられたもので三間一戸、入母屋、桟瓦葺き、総欅、楼門形式で、永福寺観音堂と山門は塩尻市指定有形文化財に指定されている。


道祖神
左中山道 双体道祖神
永福寺六地蔵
永福寺山門 本堂

観音堂

おびんづる様

道祖神

塩尻宿木戸跡
三州街道
塩尻口留番所跡

153号線を200mほど進んだところが仲町信号交差点で、左側の信号機の下に、巨大な道祖神、右側が塩尻宿碑でこの辺りから宿場に入る。真っすぐな153号線の宿場通りは、交通量が多く史跡・案内を見るため、写真を撮るために横断歩道でないところを横断するのは忠が必要である。
宿場通りに入りすぐ側に、松本藩塩尻口留番所跡碑が立ち、続いて右側に新しい十王堂跡碑てられている。
十王堂:仏教では、人が死ぬと地獄や極楽などの世界に行くと信じられているが、その行き先を決定するのは閻魔大王を筆頭とする十人の王たちが勤める裁判官で、この十王を祀ったのが十王堂である。
左側には古い石碑群があり、男女抱合う道祖神、念仏供養塔、庚申塔などが並ぶ。その先の右側に、明治15年の火災を免れ国指定重要文化財の元旅籠「いてふ屋」の小野住宅が残っている。今回は講師のサプライズにより建物内部を当主の案内により当時の様子を残す旅籠跡(現住)を見学できた。


十王堂跡

双体道祖神
石碑群
五千石街道
いちょう屋
いちょう屋看板

塩尻交差点の先右側に、高札場跡・下問屋跡碑が立っている。道路左側に、上問屋跡碑、続いて本陣跡碑、さらに続いて脇本陣跡碑の石柱が並んでいる。その先、左側の笑亀酒造ブロック塀脇に、塩尻陣屋跡碑があり、その塀の上に杉玉が飾ってあるが、よく見かける杉玉は軒下にぶら下がっているが、ここは外に下げてある。


いちょう屋(街道側)

上問屋跡
高札場(復元)
高札場跡・下問屋跡
本陣跡
脇本陣跡

塩尻陣屋跡

笑亀酒造杉玉

中山道鉤の手跡
阿礼神社鳥居 阿礼神社拝殿 中山道
(西の木戸口あたり)

100mほど前方の横断歩道橋手前で、153号線と分かれ右折する。 右折した左側角に、鉤の手跡碑がありこの辺りが宿場の桝形通りであったことを確認でき、宿場の出口であったことを知ることができる。

通りを進み、突当り右側に延喜式の中に名をつらね、格式高い1300年歴史を持つ阿礼神社がある。

阿礼神社に隣接した突当りの塩尻東小学校校門前に、塩尻宿碑が立ちこの辺りが桝形通りの始まりで宿場入口(出口)となる。


双体道祖神
堀内家住宅外観 堀内家住宅 石碑群 大門神社
大門神社大ケヤキ

通りはここから左折し、右側に街道で再三見かける抱合う夫婦道祖神。さらに進み右側の国指定重要文化財堀内家住宅は、約200年前の豪農・名主の本棟造建物である。正面棟端にあるスズメオドシ(カラスオドシ)と呼ばれる切妻造りの飾りは、松本平特有のものである。
道なりに左折して進み、153号線の大小屋信号丁字路に出る。丁字路左角に、左から順に蠶大神、秋葉大神、庚申などの石碑が並ぶ。蠶大神とあるのは、昔この辺りは養蚕が盛んであった証である。

丁字路を右折し、153号線を西へ進む。 田川にかかる塩尻橋を渡り、その先で、「右折:153号線松本へ、直進301号線塩尻駅へ、左折:平出遺跡」交通標識。 住宅街を進み、下大門交差点で、中山道は左折する。

旧中山道の県道305号線を2分ほど進み樹齢約300年の大ケヤキのある大門神社がある。


耳塚神社
耳塚神社(奉納皿) 平出一里塚(左塚) 平出一里塚(右塚) 桔梗が原 桔梗ヶ原(ブドウ畑)

さらにすぐ先右側に、耳の病気が治ることを祈った小さな祠の耳塚神社がある。

耳塚神社:1548年(天文17年)5月武田信玄と小笠原長時の桔梗ヶ原合戦で討死した将兵の耳を葬ったところと言われている。
明治29年野ざらしになっていた塚に祠を建て、2本の剣を御神体として祀った。耳の形に似た素焼きの皿やおわんに穴を開けて奉納すると、耳の聞こえがよくなると評判になった。
現在の祠は、昭和53年建立の3代目のものである。左側に、白壁土蔵のある由緒ありそうな上品な建物は建っている。

その先のJR中央本線のガードを潜り、右側のメタセコイア(沼杉)並木の昭和電工敷地境界を約1Km進む。 昭和電工を過ぎ、左側に当時のままに原型を留めている姿の、江戸日本橋から59番目の平出一里塚の姿を見ることができる。塚の上には美しい松が聳えている。特に右の塚の松は盆栽のように手入れされた美しい松である。

このあたりは松本盆地の南、塩尻市を流れる奈良井川とその支流・田川に挟まれた一帯が桔梗ヶ原と呼ばれ、その広さは東西に3Km、南北に5Kmである。濃厚に適さない土地であったが、明治以降開拓されブドウ、野菜などの生産地となった。

広い、広いブドウ畑と畑の先に拡がる、縞模様の山並みを見ての今日のゴールだった。



今日のコースは
塩尻峠立場茶屋本陣跡親子地蔵伝説夜通道東山一里塚跡高ボッチ高原8Km 塩尻峠1Km案内板東山食堂
 → 馬頭観世音柿沢集落「胴塚」碑「首塚」碑夫婦道祖神下柿沢交差点道祖神→(作並橋)四沢川夫婦道祖神仲町交差点
 塩尻宿碑 松本藩塩尻口留番所跡碑十王堂跡碑道祖神、念仏供養塔、庚申塔旅籠「いてふ屋」小野住宅高札場跡・下問屋跡碑
 上問屋跡碑
本陣跡碑脇本陣跡碑笑亀酒造塩尻陣屋跡碑鉤の手跡碑阿礼神社塩尻宿碑夫婦道祖神堀内家住宅蠶大神、
 秋葉大神、庚申塔
塩尻橋(田川)下大門交差点大門神社耳塚神社→桔梗ヶ原→平出一里塚


 
クラブツーリズム 「街道を歩く 中山道69次 第20回 和田峠〜下諏訪宿」 街道案内人 漆原章郎 歴史講師



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Blowin' in the Wind 2013
                          
いっちゃん中山道を歩く・・
2013.11.20 
塩尻峠〜塩尻宿・平出一里塚
    歌川広重渓斎英泉とが描いた中山道69次はこちらでどうぞ
行程
   塩尻峠  〜  塩尻宿・平出一里塚
  10Km  

  塩尻宿:中山道、伊奈街道、五千石街道、松本道の分岐点にあり、交通の要衝となる宿場町であった。
また宿名の示す通り牛馬で運ばれて来た日本海からの北塩と太平洋から南塩との、南北最終地点でもあった。
明治15年の大火で本陣など殆どの建物は焼失し、類焼を免れた国重要文化財の旅籠「いてふ屋」が残っている。今回は講師のサプライズにより建物内部を当主の案内により当時の様子を残す旅籠跡(現住)を見学できた。
本陣:1軒 脇本陣:1軒

コース図は左の地図をクリック