注:この地図の寺社・旧跡、名所等の位置は目安です。
   実際の位置は街道地図、現地案内板等で確認してください。

浅間病院脇、「相生の松」のあるT字路がスタートとなる。皇女和宮が野天をした場所と言われ、現在の松は3代目である。前回は気が付かなかったが・・片方の松に生気のなさ(緑が薄くなっている:枯れそう?)を感じ少々気になった。

細い川にかかる砂田橋を渡る。左右のリンゴ畑にはゴルフボールぐらいの大きさになったリンゴが見える。その先、右側に荘山稲荷神社の一の鳥居、右に入り草の生い茂る参道の突当りの二の鳥居の右脇に、「野を横に 馬引きむけよ 郭公」芭蕉句碑がある。このあたりに一里塚があったとのことだが現在は確認できない。


相生の松
荘山稲荷神社
芭蕉句碑

馬頭観音
中佐都集落 諏訪神社

元の道に戻り、すぐ先のトンネルを潜り、中佐都集落に入る。集落を通りすぎてしばらく進んだ分かれ道は右手の154号線を進み集落に入る。古い街並みの残る根々井塚原集落を通り、一面水田景色の中を進む、その先右側には諏訪神社があり、境内には石仏・石碑が並ぶ。右にカーブする左側に2万5千年前に流出した溶岩の植えに巨大な石碑、風雨にさらされた文字は不明瞭でなんの碑か不明である。


石碑群

双体道祖神

溶岩の上の石碑
妙楽寺
駒形神社参道階段
陰陽石

道なりに進み、その先には信濃五山の定額寺、蘇民将来の祈願寺である妙楽寺がある。その分かれ道は、154号線と分かれ左手を進む。右手を進んでも、すぐ先で合流する。集落を通り、ゆるい坂を下り、左にカーブする右手下の参道入口に「重要文化財駒形神社」の石柱が見える。橋を渡り階段を登った右側には陰陽石、本殿が重要文化財の1486年(文明18年)再建の駒形神社である。


駒形神社・拝殿
鳥居(本殿側から)
右から猿・馬・鯛

旧中山道

塩名田宿・がらくたや

塩名田宿入口

塩名田神社参道から

ここの鳥居の本殿側(鳥居の裏側)には馬を中心に左に馬の守り神の猿、右に魚(鯛?)の飾りがつけられている。

その先で右からの154号線と合流して進み、ゆるい坂道を下る。154号線を10分進み、右手からの道と合流して集落を道なりに進むと塩名田宿へと入る。


塩名田神社
石碑・石仏群

石仏

てっぱ茶屋
佐野家
出桁造り

問屋・本陣跡

塩名田宿:暴れ川であった千曲川の川岸に、川留めに備えて、1602年(慶長7年)近隣の村から住民を40軒ほど移住させて設けられた宿場である。そのため、伝馬、架橋、舟渡し、連台渡し、宿泊所提供など、他の宿場とは比較にならないほどの任務を負担した。
小さな宿場にもかかわらず、本陣2軒、脇本陣1軒、計3軒もあり、問屋も2軒あった。1756年(宝暦6年)再建の丸山新左衛門家本陣が、切妻・本棟造りの堂々とした姿で残っている。
この地特有の「出桁(梁または腕木を側柱筋より外に突出して、その先端に桁を 出した構造で、江戸時代以来一般的だった町家造り)」の旧家も多く見られた。
本陣:2軒 脇本陣:1軒
国道154号線塩名田信号5差路を渡り北側に直進すると、たくさんの石仏、石碑が並び、1673年(寛文13年)正月、塩名田宿鎮護の神社として祀られた塩名田神社がある。参拝し交差点まで戻る。

交差点角に「中山道塩名田宿」碑が立っていて宿場の入口となる。ゆるい登り坂の宿場通りを進むと、右側に「釜鳴屋てっぱ茶屋」看板が見える。


佐藤家住宅

旧中山道
高札場跡
正縁寺 斑神社
瀧神明社跡・不動堂

通りの両側には、当時の大きな屋号看板をかかげた住居・店舗が並ぶ。宿場の中ほど左側に、丸山善兵衛本陣跡の大井屋店の建物、右側に、丸山新左衛門本陣跡・問屋跡がならぶ。本陣、脇本陣、問屋、名主などは丸山氏の同族が主に務めた。
新佐衛門本陣跡の隣に高札場跡の公用掲示場が立っており、その左側に塩名田宿で最も古い町屋様式を伝える佐藤半佐衛門住宅がある。

その先、右に入る路地の先には、この地でなくなった旅人などを埋葬した正縁寺と養蚕が盛んな時代に信仰された斑(まだら)稲荷神社がある。


信楽寺道標

旧中山道

角屋(三階建建物)
東屋・水飲み場
三階建建物
宿場風景
(突当り:千曲川)

左カーブの手前、左側に入ったところに瀧神明社跡・不動堂があり階段を降りた所に大きな石の信楽寺道標がある。
元に戻り、新しく作られた案内板に従い、突当りの坂道を下る。 少し急な坂道を下ると、左側の三階木造建物は「休茶屋かどや跡」の角屋である。
角屋の前は瀧大明神社の境内で、ケヤキの大木(現在は枯れている)の根本から大量の清水が湧き出ていて、旅人の喉を潤していたと言い、当時の名残の新しい東屋の水飲み場がある。その左側に、1839年(天保10年)建立十九夜塔と明治20年頃建立道祖神があり、ここには、622.7mの水準点標識がある。


舟つなぎ石
千曲川 中津橋・遊歩道(右)
大日如来・漆原講師
芭蕉句碑・大日如来
一里塚碑

角屋を過ぎると、三階建ての木造建物が並び、当時の宿場を彷彿させる素晴らしい景観の通りが続き、突き当りの千曲川川岸で宿場は終わり、突当りを左折する。突当りの右手下河原に、舟つなぎ石がある。
普段はそこまでいけるようだが、前夜の雨で河原はぬかるみ水たまりとなっている。舟つなぎ石まではいけなかった。舟つなぎ石:明治6年から25年まで舟橋の台舟を繋ぎとめていた石で、上部に綱を通す穴がある。約110m巾の千曲川に、9艘の舟を繋ぎ、その上に板と滑り止めのゴザを架けて渡していた。

河の両側にはその様子を描いた案内板が断っている。 案内板から川沿いに進み、中津橋の下を潜り左折して道路沿いに進む。狭い階段を登り、道路に上がり中津橋歩道橋を渡る。

昔は暴れ川であった千曲川は、今はおだやかに流れ、そして越後の信濃川に続く。橋を渡り終え、右側の休憩所のある小さな広場前を通り、坂を下り、そして上る。突当りで右手からの車道と合流し、左折して坂道を上り、5分ほどの中山道標識の立つ斜め右の道に入り、細い道の坂を上る。このたたりの旧中山道もとぎれとぎれのようである。上り切ったところで左手からの道と合流し、右折してさらに坂を上る。 その先、丁字路の右側の高台に白い頭巾と前掛けの大日如来像、「涼しさや 直ぐに野松の 枝の形」と刻まれた芭蕉句碑が立っている。


八幡宿街道風景
石仏群
八幡神社・鳥居
拝殿 本殿 旧本殿高良社

さらに上り、左にカーブして先ほどの車道と再度合流し、右折して坂を上る。下原地区のゆるい坂道を延々と上り続け、約10分で坂の頂上となり浅科支所前信号交差点からは下り坂となり八幡宿へ入る。八幡宿あたりで日本橋から177Kmとなり中山道を1/3歩いたこととなる
八幡宿:千曲川西岸にあり、対岸の塩名田宿との距離は4Kmもなかったが、川止めになったときの待機地として、中山道開通時に周辺の3村の住民を移住してつくられた宿場である。宿場の規模は旅篭3軒と小さかったが、脇本陣が4軒もあったのは本陣が小さかったためか、宿場には、宿名の由来となった1491年(延徳3年)建立の八幡社があり、境内に朝鮮からの渡来人を祀った国指定重要文化財旧本殿高良社がある。
次の望月宿の間には、古代東山道の難所瓜生坂越えがあった。
本陣:1軒 脇本陣:4軒

小松本陣(現住) 脇本陣 宿場風景 街道風景
祝言道祖神

旧中山道道標

住宅のまばらな田園の中の坂を5分ほど下り、左側に「重要文化財高良社約300m」の標柱がありその先で小さな橋を渡り、八幡本町地区のゆるい坂を上り、右側の八幡神社前バス亭脇に「中山道八幡宿」の碑、 左側に隣接し、参道入口に「重要文化財高良社本殿八幡神社境内」碑が立つ一の鳥居を潜り、次の八幡神社鳥居の奥に、額殿に県下最古の算額がある1843年(天保14年)建立随身門があり、その正面奥に、御牧郷の総社として1491年(延徳3年)建立国指定重要文化財八幡社旧本殿高良社がある。
高良社:周辺に定着した朝鮮からの渡来人の社で、高麗社の意味である。

宿場通りのゆるい坂を上り、右側に当時の門が残る小松本陣跡がある。道の反対側には、脇本陣、問屋などがあったが現在は全くその形跡は見られない。八幡中町信号交差点直進し、八幡入口バス停前を通り、その先右側の「中山道八幡宿」碑で宿場は終わりとなる。
街道の雰囲気が感じられた宿場通りであった。その先で左にカーブして八幡西信号丁字路国道142号線と合流し、右折して進む。ゆるい坂を10分ほど下り、百沢東信号で右折し右手から合流する県道44号線を横断して、歩道に渡る。 ここからちょっと複雑で、新しい道路ができてから旧中山道は判らなくなったようである。国道142号線沿いを歩き、当時の面影を感じる百沢集落に入る。 集落の中を上り右側の火の見櫓鉄塔下に、長野県安曇地方が発祥の道祖神で、男女が酒を酌み交わす祝言道祖神がある。
祝言道祖神:安曇系は通常神々の装束で造像されるが、この道祖神は宮廷貴族風装束の例のない珍しいものとの事。

その先の分かれ道は、左手の細い道を進み、布施温泉入口信号交差点手前に出て、道を横断する旧中山道は、布施温泉入口信号交差点から142号線を横断して反対側に出て、142号線と並行した下の道を進む。旧中山道はここでも道路造成工事で多くの部分で旧街道道が消滅しているとのことである。道なりに500mほど進むと右側に入る道があり分岐のところに中山道の案内板と「仲仙道」と刻まれた古い道標が立っている。


坂を上りきると・・
道祖神と石仏群 瓜生一里塚 旧中山道 百万辺念仏碑・
中山道瓜生坂碑

瓜生坂
瓜生坂案内版

草むらの急坂を登りきったところを振り返ると素晴らしい風景が拡がっていた。突き当りを右折すると交通量の多い142号線に出る。偶然か、運が良かったのか・・パトカーで警ら中の警察官に歩道のない場所であったが誘導していただき渡ることができた。警視総監賞まではいかないと思うが・・我々にとってはそれに勝る親切であった。

ゆるい坂道を登る、このあたりは道路工事で途中消滅している旧中山道があるが道筋は不明でである。T字路の先に望月宿の案内板と石仏・石碑、とりわけ大きな双体道祖神の並ぶ広場がある。
その先、国道142号線を少し登ったところにゴルフ場の看板の脇を入る、ほそい草むらの道がある。草を掻き分け木々の枝をよけ昔の旅人の苦労を想いながら歩く。明るい畑?に出ると、舗装道路にぶつかる。

左折すると左側に瓜生坂一里塚跡碑がある。坂道を下り明るい広場の左側に百万辺念仏塔と古代の東山道であった「中山道瓜生坂碑」がある。苔生した細い急坂を下ると、舗装道路にぶつかり、振り返ると中山道瓜生坂の案内板がある。東下りのための案内板であろう。

長坂石仏群 長坂石仏群 島田屋 両澤本家 懐かしい看板
松井屋看板

さら右カーブを下り、左カーブのコーナーに「中山道望月宿方面」案内標識従い脇の坂を下る。石畳の直線的な急な坂道を下る。突当りで右折し、さらに坂を下り、右折したところの右側に「長坂石仏群」があり馬頭観音、道祖神などが並ぶ。道なりに坂を下り、突当りには中山道長坂分岐点の案内板がある。左折してすぐ鹿曲川にかかる長坂橋を渡る。
初期の中山道は、長坂橋を渡らず鹿曲川沿いに進み、中之橋を渡り、現望月宿入口信号から右折して宿場に入っていたが、1743年の洪水で現在の道に移転した。橋を渡り坂を下り、続いて上り、分岐は右手の坂を進み、左側旅館島田屋の角で県道166号線との交差点に出て、明治初期に建てられた両澤本家の建物と左に見て右折し望月宿に入る。各家の玄関、商店の玄関先には屋号の描かれた大きな木の看板がかかっている。


大阪屋
井出野屋旅館 望月歴史民俗資料館
囲炉裏(資料館内)
木樋(水の分配用) 宿場通り

望月宿:蓼科山の裾野にあって、平安時代から馬の名産地で知られ、馬の売買で賑わった宿場である。
旧暦8月15日の満月の日に、朝廷に馬を献上したことから、満月を意味する「望月」の名がついた。現在の街並には、二階が一階より前にせり出している「出桁造りの家」やうだつ(防火用の壁)を残す家、京風の格子戸など、今もなお、町のあちらこちらに往時の面影をひっそりと残っている。
望月地区は、古くからの原始信仰である野仏像や道祖神が3000基以上残っていると言わる石仏の里でもある。
逢坂の関の清水に影見えて今やひくらむ望月の駒  紀貫之に代表される望月を詠ん古歌は78首あると言う。
本陣:1軒 脇本陣:1軒 問屋:3軒

宿場通りの166号線の坂道を下り、左側に犬神家一族の撮影現場ともなった旧旅籠井出野屋旅館、道を挟んで右側に旧旅籠山城旅館、さらに左側に、門が再建されている本陣跡の望月歴史民俗資料館、隣接して大森小児科医院に「御本陣」の看板がある。資料館と小児科医院の敷地が当時、本陣があった所である。資料館を見学して今日の行程は無事終了。



今日のコースは 相生の松浅間病院西交差点砂田橋荘山稲荷神社・芭蕉句碑石碑駒形神社塩名田神社塩名田宿釜鳴屋てっぱ茶屋
 
丸山善兵衛本陣跡丸山新左衛門本陣跡・問屋跡高札場跡佐藤半佐衛門住宅→正縁寺・斑稲荷神社→瀧大明神社跡・不動堂→信楽寺道標→休茶屋
 かどや跡・道祖神
舟つなぎ石(千曲川)→中津橋→中山道標識→・大日如来増・芭蕉句碑→八幡宿碑→高良社→小松本陣跡→脇本陣、問屋跡→百沢集落→
 祝言道祖神→布施温泉入口→旧中山道→望月宿入口→瓜生一里塚→瓜生坂・瓜生坂碑→長坂石仏群→長坂橋(鹿曲川)→旅館島田屋→旧旅籠井出野屋旅館
 →旧旅籠山城旅館→望月歴史民俗資料館本陣跡

 
 クラブツーリズム 「街道を歩く 中山道69次 第17回 塩名田宿〜芦田宿」 街道案内人 漆原章郎 歴史講師

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Blowin' in the Wind 2013
                          
いっちゃん中山道を歩く・・
 行程
   相生の松  〜  望月歴史資料館
 10Km  
   [岩村田]      [望月宿]
2013. 6.27 相生の松〜望月宿    歌川広重渓斎英泉とが描いた中山道69次はこちらでどうぞ