注:この地図の寺社・旧跡、名所等の位置は目安です。
   実際の位置は街道地図、現地案内板等で確認してください。

旧軽井沢のバスターミナルから離山通りに入り、車の通行も少ない静な通りを数分歩き、6本の道路が交差している六本辻交差点に出る。ここから左折はJR軽井沢駅への道となる。
中山道は、正面のどこまでも続く鬱蒼としたヒバ並木の中の道を進む。右手にちらちら見えていた標高1256mの離山が、並木が途絶える軽井沢東部小学校前辺りで雑木林の向うにその全貌を現す。

まばらになった並木道を朝のすがすがしい空気を一杯吸い込んで進む。 離山をバックに建てられている洋館は絵(画像)になる。
右の道端には、排気ガスにまみれた庚申塔と5つの野仏像が黙って頑張っていました。(写真には撮りませんでした・・)

離山通り
ヒバ並木
洋館と離山
18号線と合流
雨宮邸表門 雨宮邸
その先で国道18号線と合流し、旧中山道は斜め横断して直進することになるが現在は道が途絶えているので、右折して18号線を進む。雨宮敬二郎が明治時代一代 にして財閥を築いき、軽井沢の開発者として知られる、雨宮御殿とも言われた雨宮邸、大正15年に近衛文麿が軽井沢第1号別荘として野沢源次郎から購入し、昭和7年に政治学者として近衛と親交があった市村今朝蔵が購入したのち記念館として残した市村記念館内の庭園を歩く。前庭の池越しに見る浅間山が美しい。

その先、軽井沢中前信号で左折して、しなの鉄道踏切を横断する。すぐ先の十字路で右折する道が先ほど途絶えていた旧中山道(左折側に面影が残る)で、のどかなゆるい坂道を下る。

市村記念館 浅間山 旧中山道
宮之前一里塚
浅間山としなの鉄道 中軽井沢駅

5分ほど道なりに歩き、突当りで右折して護岸改修した湯川沿いにまだ舗装新しい坂道を上がり、左折してこれも新品の前沢橋を渡る。平成13年軽井沢を襲った台風15号で、橋が壊れたため新しい橋に架け替えたもの。橋を渡り、正面の白い建物の角で右折する。 しなの鉄道ガード下を潜り、道なりに進み、ゆるい坂を登って18号線に出る。ガード手前左手に、洒落た駅舎の、しなの鉄道中軽井沢駅が見える。そのまま少し行くと民家の隣に宮之前一里塚の石碑がある。

長倉神社鳥居 長倉神社拝殿
時次郎の碑

旅籠・桝屋表札

脇本陣・蔦屋跡碑
本陣・土屋

沓掛宿:江戸日本橋から19番目の宿場で、宿場通りは中軽井沢駅前交差点を東西に550m(5町)で、特に賑わっていた宿場ではなかった。昭和26年の大火で中心部を全焼し当時の面影がなくなるとともに、町名も駅名も中軽井沢に変り「沓掛」の名前が消えてしまった。「沓掛」・・この呼び名の方が風情あるように思うのだが・・この辺りから見る浅間山の姿は素晴らしい。

本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠17軒。

沓掛の地名由来:全国の峠に多い地名で、馬(牛)のわらじを「沓」といい、坂道にさしかかるところで馬のわらじを取替え、旅の安全を祈ってその「沓」を木などに「掛」けたところ、という意味で地名になっている。
元に戻りガードを潜り、18号線に出たところの道の反対側の小さな広場に、「長倉公園案内図」案内板が立っている。広場を下り、長倉神社鳥居を潜り朱色の橋を渡って神社境内に入る。境内の左の公園の一角に、昭和28年建立の高さ3mの沓掛時次郎碑が建っている。
丁度、遠足に来ていた保育園児の遊び場になっていた。長谷川伸の小説の主人公で義理と人情に弱い架空の人物「沓掛時次郎」は中軽井沢となった「沓掛」の地名をひとり守っているようである。
「千両万両枉げない意地も 人情搦めば弱くなる 浅間三筋の煙りの下で 男沓掛時次郎」と碑に刻まれている。
元の18号線に戻り右折、この辺りから宿場通りの始まりのよう。少し先の左側に、大きな前庭のある「旅館岳南荘桝屋本店」が脇本陣跡で中に入ると何故か玄関に「脇本陣満寿屋清兵衛」立看板がある。廃業したのであろう、前庭には草が生い茂っていた。
さらに進み、中軽井沢交差点を左折すると中軽井沢駅で、中山道は直進する。その先右側の表札「本陣 土屋」の建物が、現住の土屋本陣跡・・わかりやすい表札である。建物の脇を入ると当時使っていたと言われる井戸跡と庭にあった欅の大木が聳えている。


欅と井戸

草津道道標

双体道祖神

月待供養塔
旧中山道 石碑群

元に戻り、その先、まっすぐな宿場通りは正面で登り坂となり、
登り口の横断歩道手前の右側の民家敷地に寛政10年建立の側面に「くさつへ」刻まれた草津道の道標である石仏がひっそりと立っている。この辺りまでが宿場通りで、旧中山道は坂の左側の道を進む。 のどかな道の、坂道の手前右に双体道祖神が朝のぬくもりの中にひっそりたたずむ。


双体道祖神(そうたいどうそじん、どうそしん):路傍の神である。集落の境や村の中心、 村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られる神で、松尾芭蕉の「奥の細道」では旅に誘う神様として冒頭に登場する。村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されている。 古い時代のものは男女一対を象徴するものになっている。餅つきなどにもその痕跡が残る。


馬頭観音
石碑石仏群
女街道追分
女街道 遠近(おちこち)宮 山岳信仰碑

道なりに進み、坂の登りきったところで車道を横断して、ゆるい坂道を下る。18号線と平行して走っている、旧道らしい車の全く通らない、のどかな中山道をしばらく歩くと、右側の野原に大きな馬頭観音、この辺りは佐久地方最古の集落の古宿といい、その先の借宿とともに信州と上州を結ぶ物流中継基地として栄え、多くの牛馬で運搬した。そのためこの地区には多くの馬頭観世音が建てられたという。
18号線と分れてから20分程進み、再度18号線と合流して左折する。18号線と合流する手前の右側に、馬頭観世音、道祖神など石碑が並ぶ。
18号線はその先で2つに分れ、右が陸橋の上りとなる車専用道で旧中山道はその左の軽井沢バイパスガードを潜る車道の歩道を歩き、ガードを通りぬけたら左折し、左側から来る道と合流して進む。
この辺りから間の宿、借宿へ入り、青空と手入れの行き届いた樹木が並ぶのどかな中山道。 電柱脇に馬頭観世音が建つ左側の丁字路は女街道入口で新緑の中に街道が続いている。

江戸時代、関所の「入り鉄砲」「出女」取締でも、女性の出入はことの外厳しく取り締まった。従って女性は関所を通らないで裏街道を通るようになった。これを女街道という。ここの女街道はこれより中山道と分れ油井釜ヶ淵橋を渡り風越山、広漠たる地蔵ヶ原を横切り和美峠または入山峠を往来した。関所さけて女人が多く往来せし 女街道と いふは寂しも」

その先、右側に創建不詳の遠近宮は「をちこちのみや」と読み、伊勢物語の在原業平の歌「信濃なる浅間の山に立つ煙 遠近人のみやはとがめん」にちなんで名付けられたという。
境内には山岳信仰の、御嶽山神社、三笠山大神、八海山大神の石碑がある。その先、左側にとても立派な旧家、右側に西長倉村道路元標、右側の借宿公民館手前の建物の軒下に、大きな酒造家の名残のような杉玉が下っている。道はゆるい上り坂となり、右側の借宿西バス停脇屋敷に高さ4mほどの巨大馬頭観世音が塚の上に建っている。

すぐ先で国道18号線と合流し、左折して18号線を進む。すぐ先右側の民家の入口のところに、「従是左上州 くさつ   道」道標。は判読できないが、要するに草津などの上州方面へ行く街道の道標であろう。 歩道に「標高1003m」巨大看板が建てられている。左側に「追分宿」案内標識が立っている。右側のこんもりしたところに、江戸から39番目の追分一里塚跡がある。道路の反対側に南側の一里塚跡も残っている。その先を斜め右に入る道が追分宿への道で数年前に整備されたとの事できれいな道路・歩道を進む。道の入口には「追分宿」看板が出迎えてくれる。

街道の旧家 (巨大:4m)馬頭観音
(くさつ)道標
標高1003m 追分一里塚(南塚) 追分一里塚(北塚)

追分宿:浅間根越え3宿(軽井沢、沓掛、追分)の1つで、古代より交通の要衝地であった。宿の西はずれの北国街道との分岐点として賑わい、元禄時代には飯盛り女が200〜270人もいたという。また「追分」の名前は、この分岐点に由来する。民謡に多く見られる、追分節の発祥の地でもある。本陣:1軒 脇本陣:2軒 旅籠35件

追分郷土館
浅間神社・鳥居
芭蕉句碑 追分節碑 浅間神社・拝殿
昇進橋

国道18号線の一里塚跡のすぐ先の右へ入る道が旧中山道で三角地帯に「追分宿」看板が見える。
ゆるい坂道を下り、右側の「追分宿郷土館」を見学する。宿場の歴史が分かる資料が多数展示されている。特に明治期に撮影された写真には当時の様子を知るに充分である。
街道に戻ると左にカーブする。右側、追分公園の中に入ると、すぐの左側1793年(寛政5年)建立「吹き飛ばす石も浅間の野分哉」の芭蕉句碑が建っている。正面奥、軽井沢町最古の室町時代初期様式の浅間神社に参拝、本殿の右手前に、平成7年建立追分節発祥の地碑が建てられている。

追分節

 浅間根腰の焼野のなかで あやめの咲くとはしほらしや
 追分桝形の茶屋で ほろと泣いたが忘らりょか
 吹飛ばす石も浅間の野分と詠んで 芭蕉翁は江戸へさる
 浅間山ではわしゃないけれど 胸に煙がたえやせぬ

 追分一丁二丁三丁四丁五丁 中の三丁がまつならぬ


夢のはこ(小図書館)
旧中山道・昇進橋 堀辰夫文学記念館
表門(旧本陣裏門)
記念館 庭園
油屋・灯篭

道に出て、坂を下り「昇進橋」を渡り、ゆるい坂を上る。すぐ左側に屋外図書ボックスがある。これは「夢のはこ」と書かれていた。この先にも数か所見る事ができた。諸注意も書かれている。坂を上り切り、続いてゆるい坂を下り宿場の中心に入ると、左側に堀辰夫の原稿・書簡・初版本・遺愛の品々が展示されている堀辰夫文学記念館の入口には旧本陣の裏門が立っている。館内・邸宅・書庫、庭園を見学(入館料は郷土館とセット)する。


堀辰夫:明治37年東京に生まれ、昭和初期に活躍した作家である。大正12年、19歳の時に軽井沢を訪れて以来、毎年のようにこの地を訪れ、軽井沢を舞台とした数々の作品を残した。昭和19年からは追分に定住し、この地に建てた家で昭和28年に49歳で亡くなった。

脇本陣油屋旅館
御膳水 旧本陣跡 高札場 旧中山道
追分宿石柱

街道に出て右側には堀辰夫が「風立ちぬ」を執筆した脇本陣油屋旅館があり、続いて右側土屋家門柱に旧本陣跡碑、隣接して左に復元された高札場が建ち、 「中山宿追分宿」行灯に宿場風情を感じる。その先、左側に下ったところに明治11年明治天皇が追分宿に宿泊した際に飲料水として使われた「御膳水」がある。
その先、右側に1598年(慶長3年)創建泉洞禅寺があり、寺の墓地の中には、堀辰夫がこよなく愛した「半跏思惟石仏(はんかしゅいのせきぶつ」がツツジの花に囲まれあった。

洞禅寺山門 本堂 稲垣黄鶴句碑・筆塚 半跏市思惟石仏 つがるや(現在) つがるや(明治後期)

道なりに進み宿場西出口の枡形跡突き当りの、追分宿信号交差点で国道18号線に合流し、右折してゆるい坂を下る。下り坂は、これ以降も佐久市の鵜縄沢一里塚跡辺りまで延々と続いている。合流点交差点手前右角に、当時枡形茶屋と呼ばれ、今も現役(?)のつがるやの建物が残っている。

分去れの碑追分
(現在)
分去れの碑追分
(明治後期)
案内板
分去れの碑

刑場跡

シャーロック
ホームズ像

200mほど先の交差点に、分去れ(わかれされ)の道標が立っている。北国街道との追分であり、道標・歌碑・地蔵・常夜灯供養菩薩等観音菩薩像等8基の塔、像が残っている。追分郷土館には明治後期のつがるや、分去れ道標の写真が残っているので現在と比べてみる。

100年の時を感じるもの、そのまま残っている物・・100年と言う時が長いのか、短いのか・・

北国街道を少し行った先、右側の道に入ると林の中に刑場跡の碑が他の石碑と並んで建っている。街道に戻ると今日のゴールである。


今日のコースは 旧軽ロータリー→六本辻交差点→ヒバ並木→軽井沢東部小学校→雨宮邸跡・市村記念館→しなの鉄道踏切→宮之前一里塚→前沢橋→
 沓掛宿→長倉神社・沓掛時次郎碑→旅館岳南荘桝屋本店(脇本陣跡)→中軽井沢駅→土屋本陣跡→石仏・道標・双体道祖神・馬頭観音→古宿→借宿→石碑群・
 馬頭観世音・道祖神→女街道→御嶽山神社、三笠山大神、八海山大神石碑→西長倉村道路元標→借宿・巨大馬頭観世音→道標→追分宿→追分一里塚跡→
 
昇進橋堀辰夫文学記念館脇本陣油屋旅館旧本陣跡碑高札場半跏思惟石仏創建泉洞禅寺分去れの碑刑場跡


クラブツーリズム 「街道を歩く 中山道69次 第16回 軽井沢〜岩村田」 街道案内人 漆原章郎 歴史講師


                                     5月24日 小田井宿

Blowin' in the Wind 2013
                          
いっちゃん中山道を歩く・・
 行程
   旧軽井沢ロータリー〜分去れの碑
 11Km  
   [軽井沢宿]     [追分宿]
離山通り
2013. 5.23 軽井沢〜追分宿    歌川広重渓斎英泉とが描いた中山道69次はこちらでどうぞ