注:この地図の寺社・旧跡、名所等の位置は目安です。
   実際の位置は街道地図、現地案内板等で確認してください。
Blowin' in the Wind 2013
                          
いっちゃん中山道を歩く・・
妙義道追分の「郷原常夜灯」が今回のスタートである。旧中山道は信号斜向かいの坂道を下るが、途中途切れているので国道18号(バイパス)を進む。少し行くと右下に自然恵まれた旧中山道が見える。
その先、右側には広重の中山道・松井田宿の絵の碑と西南役の碑がある。西南の役の時はこの地からも多くの村人が出征したと言う。

この辺りは「みやがくぼ」と呼ばれ窪地であったが国道の建設で造成され当時の姿はない。その先の坂を「大坂」と呼んでいた。
妙義追分から1Kmほど行き歩道を左側に入ると旧街道となる。ゆるい下り坂で、どこにでもあるような田園風景だが、遠くには妙義山のシルエットが広がる。

道は突当りで車道と合流し、左折して松井田の市街へ進む。少し歩くと右側に、安中宿からお馴染の「中山道 松井田宿0.9Km 安中宿8.2Km」の「安中遠足」道標(以降「安政遠足道標」で記述)が立っている。
妙義追分・
郷原常夜灯

旧中山道
西南の役碑・
広重の碑
松井田宿
かんべや

金井本陣跡案内板

安政遠足(あんせいとうあし):安政2年(1855年)ときの安中藩主板倉勝明公は藩士の心身鍛錬を目的として五十才以下の藩士九十八名を数隊に分け5月中旬より6月初旬にかけ安中城内より碓氷峠の熊野権現まで七里余の中山道を走らせた。これを「安中御城内御諸士御遠足」と言う、日本におけるマラソンの始めである。今も、5月第2日曜日開催され、関所・坂本宿コース(20.35Km)と峠コース(29.17Km)の2種目あり、峠にはゴールの看板もあった。


旧家と松
松井田宿・旧家
道路原票

松本本陣跡案内板
不動寺・本堂 不動寺・山門

松井田宿:江戸時代に宿場が成立する以前から、古くから松井田の庄として開けていたところで、戦国時代は関東の守りの最前線という役割を担っていた。
また城下町でもあり1551年(天文20年)頃安中越前守忠政が松井田城を築城した。
宿場は本陣2、脇本陣2であったが、旅籠14軒と少なく、これは日があるうちに面倒な碓氷関所を越しておきたいと、松井田宿に泊まらず通過する大名や旅人が多かったためである。
宿場は「米宿」と呼ばれるほど、信州各藩の米が集められ、江戸へと運ばれていた。

松井田八幡宮・拝殿 松井田八幡宮・鳥居
松井田八幡宮案内板
宿場通り 補陀寺 大道寺政繁墓所

現在は、当時の面影を残す建物が多少ある程度で、本陣跡など史跡は殆ど見当たらない。道標から10数分先の下町信号交差点で、左からの県道217号線と合流して進む。
交差点を渡った左のコーナーに、「中山道 松井田宿→」道標のあるところは下木戸があった辺りで、宿場通りの始まり。下町交差点を過ぎた道の左側に信金脇の奥にあった金井本陣、右側に松本本陣があったが、その跡は見つけられない。数分先の左側の丁字路コーナーに「妙義登山口」袖看板を掲げている「かんべや」その先、左側丁字路入口に、西上州十四番札所である崇徳寺石柱が立っている。

ここで左側の道に入り、武田信玄から寺領を得て、江戸時代には徳川家光より朱印地89石を与えられて末寺17ヵ寺を有する大寺であったと言う不動寺、源頼朝が参拝に訪れたとの記録がある古社、松井田八幡宮に参拝する。代将軍徳川家光により朱印地13石6斗を賜った。古くは神仏混合で境内には六角堂が建ち当時の名残が見られた。
宿場通りはゆるい上り坂で、本陣跡、史跡など講師の説明はあったが・・案内標識もなく全然見つけることができず、街道歩きには寂しい宿場町であった。
ただ通りの両側には古い建物が残されていて、旧街道の雰囲気は味わえる。市街地を過ぎ、ゆうあい館前横断歩道橋の右橋脚のところに「中山道 松井田宿 →」道標があるところは上木戸あたりとの説明があった。宿場はここらあたりまでである。

その先、民家の脇に新堀一里塚(江戸から32里)の案内板があるが塚の跡は分からない。県道217号線をしばらく進み、右側に安政遠足道標を見、坂本宿へ向けて歩く。

補陀寺・本堂 補陀寺・山門
庚申塔

新堀一里塚
旧中山道
久保宿茶屋から
旧中山道

さらに7分ほど先の右側には、庚申塔と石碑が並ぶ。その先西松井田駅前信号交差点で県道は分かれ、左折すると西松井田駅方面、中山道は直進となる。

庚申講:庚申塔(こうしんとう)は、庚申塚(こうしんづか)ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多い。塚の上に石塔を建てることから庚申塚、塔の建立に際して供養を伴ったことから庚申供養塔とも呼ばれる。庚申講(庚申待ち)とは、人間の体内にいるという三尸虫という虫が、寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くのを防ぐため、庚申の日に夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀り、勤行をしたり宴会をしたりする風習である。

三尸(さんし)虫:道教に由来するとされる人間の体内にいる虫。三虫(さんちゅう)ともいう。上尸・中尸・下尸の三種類で、上尸の虫は道士の姿、中尸の虫は獣の姿、下尸の虫は牛の頭に人の足の姿をしている。大きさはどれも2寸で、人間が生れ落ちるときから体内にいるとされる。


信号を過ぎると右側に長い石垣がありその左端に、関東一の道場という意味の「関左法窟」という額をかけた補陀寺山門。境内には松井田城主だった大導寺政繁の墓がある。寺の裏手に広がる小高い山が松井田城址である。
すぐ先の松井田警察署の手前で、217号線と分かれ、左折して細い道を下る。
人通りの皆無の道を、正面の妙義山に向かって道なり進む。ここで見る妙義山の形は、これまでより鋭角になってくる。
旧中山道は、信越本線踏切を横断して妙義山の方角へ進むが、その先は崖となり、現在は道が消滅しているので、迂回路を数分進み、突当りで右折して坂を下る。坂の上あたりに見晴らしが良かったと言われる久保宿茶屋があったと言う。田植えの最中の長閑な田圃道を歩き県道と合流、少し歩き左側の細い道(旧中山道)を登る。再度県道に出て18号線と合流し、左折する。


安政遠足道標

旧中山道

茶屋本陣案内柱
茶屋本陣・表門 茶屋本陣
茶屋本陣お東・囲炉裏

合流点手前右の三角地帯に1827年(文政10年)建立二十三夜塔などの石碑、そして「中山道 坂本宿6.0Kkm 松井田宿2.3Km」道標が立っている。
高架下を通り抜け、すぐ右折して道なり進む。集落に入り、右側に二十三夜塔と庚申の石碑が並ぶ。
その先の右側の小路を入ると、信越本線「お東踏切」を渡ると正面に、群馬県指定史跡、五料の茶屋本陣お東」石柱があり、右手奥に「お東」建物、左手へ進むと「群馬県指定史跡・茶屋本陣お西」石柱があり、赤いポスト左脇が入口となっている。

茶屋本陣お西・展示品 茶屋本陣お西・展示品 茶屋本陣お西・庭園 茶屋本陣お西・床の間 アプトの線路
踏切に
茶釜石

茶屋本陣:中山道を通行する江戸時代の大名や公家が休憩や昼食をした名主屋敷で、「本陣」のような宿泊用施設ではなかった。五料の茶屋本陣は2軒あり、両家とも中島姓であったため「お西」「お東」と呼んだ。ゆっくりと見学する。冷たい麦茶の接待もあった。
1601年(慶長6年)の記録によると、その頃すでに両家とも五料村の代々名主役(二人名主制)を勤め、1836年(天保7年)以降は一年交代で名主役を勤めている。
現在の建物は、以前大火で焼失したので、両家とも1806年(文化3年)に同時に再建したもの。

茶釜石:旧中山道丸山坂の上にあったもので、この石を叩くと空の茶釜のような音がすることから名付けられ、五料の7不思議となっている。ここを通った太田蜀山人が次の狂歌を作ったという。
「御料(五両)では、あんまり高い(位置が高い)茶釜石 音打(値うち)を聞いて通る旅人」

夜泣地蔵
馬頭観音

馬頭観音

妙義神社・鳥居
庚申塔・月待塔 刎石山

中山道に戻り、周囲には住宅もなくなる辺りで信越本線榎踏切を渡り坂道を上る。
急な丸山坂となり、左側に1740年(元文5年)建立の青面金剛塔と小さな石造群。その先右側に妙義山をバックにした、逆光で写真の撮り辛いの夜泣き地蔵(地蔵の下に頭だけある)と茶釜石がある。


夜泣き地蔵:昔この辺を通った馬方が荷物のバランスをとるため道の傍らに落ちていた地蔵の首を拾い、馬の背にくくりつけて深谷あたりまで行った。積荷を降ろしたのでいらなくなった地蔵の首を捨ててしまったところ、その首が夜な夜な「五料恋しや」と泣くので深谷の人がこれを哀れみ五料まで戻して、地蔵の胴の上に乗せたところ泣き止んだという。それから夜泣き地蔵と言うようになった。

石仏・石碑群 百合若大臣足跡石 風穴岳
荻野屋

二つの桃太郎旗
横川駅

上り坂を通り、下り坂となり道が2つに分かれところは、右手の下る道を進む。その分かれ道のところに、安政遠足の道標・・道なりに左回りに下って行く。左手に見る妙義山は姿を変えている。次の道標の右側草むらに「馬頭観世音」碑が建っている。

馬頭観音:近世以降は国内の流通が活発化し、馬が移動や荷運びの手段として使われることが多くなった。これに伴い馬が急死した路傍や芝先(馬捨場)などに馬頭観音が多く祀られ、動物供養塔としての意味合いが強くなっていった。


さらに下る。信越本線沿の道に出て、進む。旧中山道は碓氷神社手前から、線路の反対側にあるJA建物脇で国道18号線から分かれる細い道を結ぶ道であるが、現在は線路で分断されている。
そのまま線路沿いに進み、右側に碓氷神社鳥居。創立不祥、慶安年間(1648〜52年)に社殿を改築し碓氷峠熊野神社の里宮として碓氷神社と呼ぶようになった。
伝説・建久年間(1190〜99年)源頼朝が浅間の牧狩りの折、当神社に祈願し御所を置いたので、この地を御所平と呼ぶようになった。その先の右側に、二十三夜と庚申塔の碑が並ぶ。その先で左折し、高墓踏切で信越本線を渡り、続いて国道18号線を横断して細い道に入り突当りの白井小学校の前で旧中山道と合流し、右折してゆるい坂道を上る。

月待信仰:十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事である。江戸時代の文化・文政のころ全国的に流行した。特に普及したのが二十三夜に集まる二十三夜行事で、二十三夜講に集まった人々の建てた二十三夜塔は全国の路傍などに広くみられる。十五夜塔も多い。

小学校の門扉に「熊出没注意」さらに進み電柱に「熊出没注意」町中の通りに・・。突当りで18号線と合流し、左折する。
合流手前の右側空き地に、右から順に道祖神・道祖神・庚申の碑が並び、左手奥にのんびりと日向ぼっこしている双体道祖神がある。微笑ましい姿に心が和みます。

小山沢川にかかる小山沢側道橋を渡り、小山沢信号で18号線と分かれ左手の道を進み、ゆるい上り坂道を数分進み、突当りで再度18号線と合流して、左折する。 合流手前の右側空地に、「百合若大臣の足痕石」があるが説明がないと解らない。


百合若大臣の足痕石:空地に上がへこんだ石があるが、昔力の強い百合若大臣という大男がいて、大きな弓と長い矢で川向うの山を射抜こうとして、後足を踏ん張った時にできた踏みつぶした跡のへこみだという。このとき使った弓と矢は、妙義神社に奉納されているとのこと。

2つの風穴:これを見ていた百合若大臣の家来が、負けてはならないと腰にぶら下げていたおむすびを力一杯に放り投げたら、山に2つの穴があいたという。この2つの穴は現在もここから夜空の星のように見え、この険しい山を「風穴岳」と呼ぶようになった。

横川の町並 街道の旧家
横川茶屋本陣跡

碓氷関所東門址

おじぎ石

碓氷関所東門

18号線は左側にガードレールでしっかりガードされた歩道があり、安心して歩けた。
下横川信号のところに、飛脚の絵のある「旧中山道→」案内板が立っている。
案内に従い横断歩道を渡り、続いて信越本線第15中仙道踏切を渡り、道なりに左折して信越本線沿いに坂を上る。右側には、安政遠足道標・・整備された道標は頼りに時には励ましになり感謝である。

横川駅入口角には「釜めしの萩野屋資料館」、横川駅前でしばしの休憩。

長野新幹線が開通してから、信越本線はこの横川駅が終点駅となり以降は廃線となった。
駅前の小さな広場に日本最大の難所の横川〜軽井沢間を走った機関車「EF63−3号」動輪が展示されている。 駅前を直進し、峠の釜めし萩野屋」の看板のある角に出て、左折して県道92号線の中山道を西へ向かう。
少し歩いた矢野澤橋の手前右の空地に、庚申塔・二十三夜塔などの石碑群、右側に「横川茶屋本陣跡」がある。さらにその先右側のガレージ脇に、碓井関所跡東門の位置(安中藩管理)白杭碑が立ち、続いて右手高台に碓氷関所跡がある。
関所跡の門は復元された東門(実際は西を向いている)で、門柱・門扉は当時のものを使用し復元している。現地の案内人が丁寧に説明してくれた。

碓氷関所:899年(昌泰2年)碓氷峠の刎石山(はねいしやま)に群盗取締のため設置されたのが始まりで、江戸時代の元和年間(1615年〜1623年)に「入り鉄砲に出女」取締のためこの地に移され、1869年(明治2年)に廃止されるまで、東海道の箱根、新居(今切)、中山道の木曾福島と並ぶ幕府の防衛戦略上重要地点であった。碓氷関所には関門が東西にあり、西門は江戸幕府、東門は安中藩の管轄であった。


横川鉄道文化村

薬師坂石碑

川久保薬師

安政遠足道標

水神社

坂本宿下木戸跡

その先の分かれ道を直進し坂道を下り、元信越線ガード下を潜って進み国道18号線と合流して真直ぐ進む。
保薬師坂石碑の細い道に入り坂道を登る。 坂の途中の左側に薬師の湧水と刻まれた石碑と祠の川久保薬師があり下の方から水が流れている。坂の頂上で国道18号線と再度合流し、右折する。 合流点の右コーナーに、安政遠足道標が立っている。ゆるい上り坂道の国道18号線を北西に進む。「坂本宿0.5Km」道標を通り過ぎ、前方に上信越自動車道高架が見える。高架手前の左側に原村の水の神を祀った水神宮の小さな鳥居がひっそりと立っている。

街道の旧家
荻野屋

旧中山道
刎石山(正面)に
向かう街道
脇本陣みまがや跡 中澤屋

坂本宿:江戸日本橋から17番目の宿場で、成り立ちは他の宿駅のように既存の集落を整備したものではなく、1625年碓氷山麓に付近の住民を移住させ新規に道路と用水路を造成して設置された。道の両側には160軒の家々が立ち並び、間口は7間か3間半のどちらかで、平入り出梁の2階建てに切妻平屋を付した建物に統一した人工的造作の宿駅であった。

難所の碓氷峠、厳しい碓氷関所を越してきた旅人で、旅籠は盛況で宿場は賑わったという。

本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠40軒


まっすぐな宿場通りは、そのまま国道18号線として使われている。
高架から数分歩くと、左側に「坂本宿」標柱が立ちその脇に「下木戸跡」案内板。ここから約710mあまり(713m?)の宿場通りが刎石山(はねいしやま)に向かって真直ぐ伸びている。
当時は道幅14.8mあり中央に巾1.3mの用水が流れ、その両側に本陣、脇本陣、旅籠、それに商家160軒が屋号看板をかかげ賑わっていたという。
宿場通りは庭先・道端にたくさんの花が咲き乱れ目を楽しませてくれるとてもきれいな通りである。 通りの右側に並ぶ「米屋」「中澤屋」などの屋号看板のかかった当時の面影が残る建物が残っている。奥まったところにある古そうな土蔵、通りの左側には本陣が並び「金井本陣跡」・坂本小学校発祥碑が並ぶ「佐藤本陣跡」・「脇本陣みまがや跡」と並んでいる。
金井本陣は、1861年(文久元年)11月9日徳川家に降嫁する皇女和宮が宿泊したところで、
付添、迎えの人たち3万人の人出で坂本宿は溢れかえったという。
皇女和宮の詠歌「都出て幾日来にけん東路や思えば長き旅の行すゑ」 通りの中ほどの坂本信号交差点右側に、皇女和宮の宿泊当時の「坂本宿屋号一覧」看板がある。現在は当時あった位置にある建物に全ての屋号看板を復活させている。
街道の正面に見えている標高810の刎石山頂、碓氷峠へ登る途中に通ることになる。通りの右側には脇本陣が並び、信号手前に「永井脇本陣跡」続いて公民館となっている「酒屋脇本陣跡」続いて坂本宿の代表的な旅籠の面影を残す「かぎや」の建物は、上品でスケールの大きさを感じさせる。


永井脇本陣表門
永井脇本陣跡 かぎや
坂本宿上木戸跡

芭蕉句碑
坂本八幡宮
双体道祖神

宿場通りはずれ右側に、上木戸跡の黒い「坂本宿」標柱手前に石碑が2基並び、その先の芭蕉句碑は、刎石山頂から移設したもので、
「ひとつ脱てうしろに負ひぬ衣かへ」と刻まれている
続いて鳥居の前に双胎道祖神が2基並ぶ坂本八幡宮がある。 

「小諸34Km軽井沢17Km」交通標識を通り過ぎると18号線は右にカーブする。浄水場脇の左カーブの先に力餅の玉屋ドライブインが今日のゴールである。お疲れさま・・

皆さんは「力餅」のお土産を予約・・いっちゃんは団子よりビール・・缶ビールをお買い上げ・・

今日のコースは 郷原常夜灯→安政遠足(標識)→石碑群→妙義山案内標識→松井田宿→下木戸→かんべや→崇徳寺石柱→上木戸→庚申塔→
 補陀寺山門(関左法窟)→二十三夜塔→二十三夜塔・庚申塔→高札場跡→五料の茶屋本陣お東→五料の茶屋本陣お西→丸山坂→石仏群→夜泣き地蔵
 →茶釜石→馬頭観世音→碓氷神社→道祖神・庚申塔→百合若大臣の足痕石・2つの風穴→妙義神社→横川駅→
萩野屋→矢野澤橋→庚申塔・十三夜塔
 →横川茶屋本陣跡→碓氷関所跡東門→碓氷関所跡→川久保薬師坂→水神宮→坂本宿標柱→下木戸跡→金井本陣跡本陣・佐藤本陣跡・脇本陣・みまがや跡
 →永井脇本陣跡・酒屋脇本陣跡→かぎや→上木戸跡・常夜石碑・坂本宿標柱→芭蕉句碑→坂本八幡宮
→18号線(玉屋ドライブイン、浄水場脇)



 クラブツーリズム 「街道を歩く 中山道69次 第15回 安中〜松井田」 街道案内人 大野正實 歴史講師

                                      5月26日 碓氷峠・軽井沢宿へ

2013. 5.25 松井田〜坂本宿    歌川広重渓斎英泉とが描いた中山道69次はこちらでどうぞ
 行程
   妙義道標(郷原常夜灯)〜 碓氷峠入口
 12Km  
                [坂本宿]