Blowin' in the Wind 2013
                          
いっちゃん東海道を歩く・・

2013. 5.16 枚方宿~守口宿・高麗橋
陸橋の守居橋を渡りゆるい坂道を進むと、右側に近代的な義天寺の建物が現われる。この寺には大坂市野江の仕置場(刑場)にあった「南無妙法蓮華経」の題目石が置かれているとの事。さらに真直ぐ進むと道は突きあたりで右折する。
ただし旧東海道はそのまま突き当たりを進み、日吉公園西南の角に出てさらに1号線京阪本通東信号へ出ることになるが、現在は道が消滅している。突き当たりの電柱には「文禄堤」の表示があり、この辺りまで現存の文禄堤なのであろう。またこの突き当たり辺に下見付があったようで、宿場の終わりを意味する。
突き当たって右折し、50mほど行って金下町の交差点を左折して日吉公園の前を通り、公園はずれで右折(消滅した東海道は、道を挟んだ角の民家を斜めに進む)して進むと丁字路となり、左折して2つ目の交差点を右折して進み、1号線の守口車庫前信号交差点に出る。
1号線を約100m歩いて京阪本通1東交差点にくると、左側に土居商店街の入口がある。
本通1交差点・太子交差点を横断する。その先から大坂市旭区に入る。今市信号交差点の横断歩道橋のところで道は2つに分かれ、左手が1号線である。先に進むと「京街道道標」と「京街道説明碑」が並んでいる。この「京街道道標」は昭和60年に大坂市が設置したもので、これからの街道筋に要所、要所に出てきて、道案内をしてくれる。道標の側面には「大坂城京橋口まで5.4Km」と刻まれている。豊臣秀吉が淀川左岸を改修して堤防上に築いた京都と大坂を結ぶ京街道は大坂城京橋口が起点で、江戸時代に東海道57次が出来てから起点は高麗橋東詰に移された。

旧東海道(京街道)は交差点から1号線のさらに左側の細い道に入り、道なりに進む。今市1丁目、千林2丁目と進み交差点を横断し、ダイエー発祥のである千林商店街の大きなアーチのあるアーケードを通り抜け森小路2丁目に出る。

義天寺
京街道案内板
守居神社
京街道案内板

千林商店街

「京かいどう」道標

「京かいどう」道標を見ながら進む。前方に阪神高速12号守口線の高架とその下に古市橋が見えてくる。古市橋の上から左手を見ると延々と続く運河、右手には古市橋案内板が立っている。それによると、この橋が架設されたのは、昭和10年に城北運河が開削を開始した後の昭和12年との事である。
橋を渡り、1号線と163号線が合流する関目5信号の5差路に出る。「関目」という珍しい名は、この地に見張所(目で見る関所)があったことからつけられたと言われている。交差点を左折しこの地の水の守り神である野江水神社に立寄リ参拝。ここには移転(あった場所は不明)されてきた遥拝所の石柱が置かれている。
交差点で163号線を横断する。この作は関目の七曲りで、目標の無い街中を右左へと歩く。いつの間にか成育という珍しい町名の町並に入る。道を進むと、左側に「京街道」道標があり、ここでも京街道であることを確認できるが、これまでの「京かいどう」の道標と違い漢字で「京街道」と刻まれ、また石の材質も違うので道標の建立年代が違うのであろう。少しさきを右折して都島通りを進み、歩道にアーケードのあるアサヒ国道筋商店街を通り過ぎると道は2つに分れ、右手の細い道を進む。道の入口の右側には、漢字の「京街道」道標が立っている。


京街道(商店街)

高架と古市橋
古市橋案内板
「京街道」道標
野江水神社
遥拝所石柱
(移転されたもの)

道なりに進むと、城北筋の丁字路手前の左側にも漢字の「京街道」道標が立っている。丁字路を左折して進み、都島通と合流する野江4信号交差点に出て横断し、右折する。100mほど進み平耳鼻科から左折する。
細い道を南へ進み250mほど行くと道は2つに分かれるので、右手の道を進む。旧い佇まいの住宅地を進むと、通りの左側に「京かいどう」道標がある。
またこの辺りは野江仕置場(刑場)跡で、この地にあった「南無妙法蓮華経」と書かれた題目石は、先ほど通ってきた守口宿の義天寺に移されている。さらに南へ進み商店街のアーケードに入り、少しさきで道が分かれるので、右手に進む。自転車に囲まれた京街道案内碑が立っている。長い商店街を進むと商店街を抜けると、1号線と合流する交差点に出て横断、右折して大坂環状線ガード下を潜ると正面が京阪本線京橋駅の京阪モールである。京阪モールの斜向かい交差点の歩道に右京みち・左大和と書かれた、京街道の道標が立っている。
京阪モール先を西へ進み片町交差点に出る、その先、土佐堀通りを西に向かって歩いて行くと左手に大阪城が見え隠れする。
少し行くと寝屋川橋東詰交差点に出る。


「京かいどう」道標
京かいどう案内板
京街道道標
(京阪モール前)
川魚市場跡
京橋
京橋からの眺め

左側の橋が京橋で大阪城京橋口の入口でもある。京橋から見る高層ビル、川面に映るビルの風景が美しい。
ここから大阪城の見学となる。
1931年(昭和6年)地上55m鉄骨鉄筋コンクリート造エレベーター付き大阪城が再建された。「大坂夏の陣図屏風」の大坂城がモデルであったと言う。

京橋口石垣 秀頼・淀殿自刃の地

大阪城:天正11年(1583年)、秀吉は石山本願寺跡に大坂城の普請(築城工事)を開始した。一般には日本のお城のシンボルは天守閣であるが、空にそびえる大天守が初めて作られたのは織田信長の安土城である。
信長の後継者を自認する秀吉は、安土城をモデルとしながらも、すべての面でそれを凌駕することをめざした。

残念石 大阪城ホール 刻印石所在地図

秀吉創建の大天守は外観5層で、鯱瓦や飾り瓦、軒丸瓦、軒平瓦などに黄金をふんだんに用いた。また、秀吉は自ら好んで多くの来客に本丸内を案内してまわり、金銀の装飾にあふれた奥御殿の内部、大天守の各階に納められた財宝の山など、空前の富の集積を誇示して来訪者を驚ろかさせた。

秀吉像

秀吉の大坂城は、本丸の築造に約1年半を費やし、その後も秀吉が存命した15年の全期間をかけて、徐々に難攻不落の巨城に仕上げられた。また、城づくりと同時に町づくりが行われ、秀吉時代の大坂は近世城下町の先駆けとなった。領主の邸宅である城を中心とした広大な領国の首都、そして政治・経済・軍事・文化の中心都市として城下町大坂が建設された。

石垣と高層ビル 石垣の復元
(日経ビル)

石垣の復元
(センタービル)

復元石垣案内板

秀吉の大坂城本丸は、現在も残る徳川幕府再築のものとは堀の形状や天守の位置も全く異なり、二重三重の複雑な石垣が立体的に構築されていた・・以上、パンフレットより・・

寝屋川東詰信号交差点歩道下には京橋川魚市場跡碑がある。石山本願寺時代に、漁民が京橋の北詰に魚を持ち寄って販売する市が起源といわれ、その後、徳川幕府に大坂で川魚を独占的に扱うことを公認された市場となった。
京橋を渡り20mほど進み、道の反対側の日経新聞社ビルの脇の細い道に入る。進んで行くと日経ビルの東北隅と、その先の左側の府立女性総合センタービル脇に石垣がある。
日経ビルの石垣は、1620年(元和6年)の大坂城再築で城北の旧大和川の左岸の護岸用石垣で、ビル工事で地下から発見されたものを移築したもの。センタービルの石垣は、1614年(慶長19年)の大坂冬の陣の講和条件として徳川家康によって取壊された大坂城三の丸の石垣で、ビル建設で地下から発見されたものを移築復元したもの。
センタービルを過ぎると、広い上町筋の通りに出る。京街道は、上町筋を斜めに天満橋ビルと大坂歯科大学の間の道に入るが、道がないので右折して土佐堀通の京阪東口信号で横断して、京街道に戻る。大坂歯科大学の脇の通りを50mほど進み、突き当たって右折し再度土佐堀通に出る。左折して土佐堀通を西へ進み、高架の下の天満橋交差点を横断し、右手のビルの、京阪電車天満橋駅の大きな看板を見て進む。
すぐ先の左側に、永田屋昆布本店の暖簾の下に、八軒家船着場跡碑がある。
この地は平安時代には渡辺(向かい側へ渡る渡し場の意)ノ津と呼ばれ、紀州熊野詣での上陸地であった。豊臣時代に天満橋、天神橋がかけられ、江戸時代には八軒家と呼ばれ、京と大坂の淀川を上り下りの三十石船の発着場として賑わった。八軒家の名は、ここに八軒の船宿や飛脚屋があったから出たものと言われている。その先の北浜東2信号のある丁字路角の福助ビル前に、熊野かいどう碑が建っている。熊野街道は、ここを起点として熊野三山へと至る。
さらに土佐堀通を西へ進み、松屋町筋との交差点の右手には、大坂の天満橋、灘波橋と並ぶ三大橋の1つで、土佐堀川と堂島川にかかる天神橋が見える。天神橋の手前にある日本郵便ビル前には前島密の銅像が立っている。交差点を横断して進み、阪神高速環状線高架下で道は分れ、右手が土佐堀通で、京街道は左手を進み、すぐ先の東横堀川にかかる今橋の手前から左折して進む。
100mほど進み右折すると、正面に阪神高速環状線高架下の高麗橋東詰(中央区東高麗橋)となる。ここが東海道57次の起点(京街道は京橋口)となるところで目的地に到着。


天満橋交差点

八軒屋船着場跡
熊野古道案内板
前島密胸像

里程元標跡碑
高麗橋案内板

品格のある高麗橋の東北コーナーに、里程元標跡碑と高麗橋案内碑がある。
この里程元標は、東京日本橋の里程元標と対をなすもので、明治時代に高麗橋東詰に設置され、西日本の主要道路の距離計算はここを起点として行われた。東横堀川は大坂城築城のとき外堀として改修され、高麗橋はその頃にかけられたという。江戸時代の高麗橋は幕府管理の12公儀橋の中でも最も格式が高く、西詰には幕府のお触書を掲示する制札場があったほか、諸方への距離を測る起点にもなっていた。
1870年(明治3年)大坂最初の鉄橋として架け替えられ、さらに1929年(昭和4年)に現在の鉄筋コンクリートアーチ橋にかえられた。欄干の擬宝珠や西詰にあった櫓屋敷を模した柱は昔をしのぶ姿となっている。
ここで東海道の街道歩きは終了・・高麗橋から東横張堀川の下流を眺めると澱んだ緑色の水面であった。
この後、バス移動で四天王寺に参拝する。


四天王寺:1400年前の推古天皇元年(593年)物部守屋と蘇我馬子の合戦に勝利したことを受けて、聖徳太子が四天王を安置するために建立したと伝えられる、日本初の本格的な仏教寺院である。

その伽藍配置は大陸の影響を色濃く受けた「四天王寺式伽藍配置」といわれるもので、南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む形式。日本では最も古い建築様式のひとつである。

仏教の根本精神の実践の場として、中心伽藍の北には、仏法修行の道場である「敬田院」、病者に薬を施す「施薬院」、病気の者を収容し病気を癒す「療病院」、身寄りのない者や年老いた者を収容する「悲田院」の四箇院が設けられている。

幾度の戦禍と災難によって伽藍は焼失へ。現在の伽藍は昭和38年(1963年)当初の建物を厳密に再興したものである。全敷地面積33,000坪、甲子園球場の3倍の広さをもつ四天王寺の境内には、聖徳太子を祀っている「太子殿」や、近畿三十六不動尊第一番の霊場の「亀井不動堂」、日本庭園の「極楽浄土の庭」など、たくさんの見どころがあり、また毎年4月22日、聖徳太子を偲んで行われる「聖霊会舞楽大法要」では、国の重要無形民俗文化財である「天王寺舞楽」が舞われている。

今日のコースは 守居橋義天寺日吉公園陸路管道路第一の駅守口文禄堤金下町交差点日吉公園守口車庫前信号交差点土居商店街
 太子交差点大坂市境界標識京街道道標・京街道説明碑今市1丁目・千林2丁目・渡辺病院前地千林商店街森小路2丁目東洋家政高等専修学校
 
古市橋古市橋案内板関目・見張所(目で見る関所)旭区・城東区関目5南信号交差成育都島通京街道道標アサヒ国道筋商店街道標
 
京街道道標野江4信号京かいどう道標野江仕置場(刑場)跡京街道案内碑京橋駅京阪モール東野田公園片町信号交差点土佐堀通
 
(大坂城天守閣)寝屋川東詰信号交差点京橋川魚市場跡碑京橋(寝屋川)日経新聞社ビル府立女性総合センタービル脇石垣天満橋ビル・大坂歯科大学
 土佐堀通京阪東口信号天満橋駅永田屋昆布本店八軒家船着場跡碑福助ビル前・熊野かいどう碑松屋町筋今橋(東横堀川)高麗橋東詰
 東海道57次の起点(京街道は京橋口)里程元標跡碑・高麗橋案内碑
  


クラブツーリズム 「街道を歩く 東海道57次 後編 枚方宿~守口宿・高麗橋 街道案内人 根津信年 歴史講師
 

2013. 5.14~16     東海道57次を歩く・・(後篇)
               石清水八幡宮~高麗橋               
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