Blowin' in the Wind 2013
                          
いっちゃん東海道を歩く・・
2013. 5.14~16     東海道57次を歩く・・(後篇)
               石清水八幡宮~高麗橋               
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2013. 5.15 御殿山~枚方宿

御殿山駅がスタートである。500mほど先に進むと磯島交差点で(ここの広場でストレッチを行う・・このツアーは「歴史・街道・歩く」がテーマで必ずストレッチがある=良い事である)道が分かれ、左手斜めの細い道を200mほど進むと天野川にぶつかる、迂回するため右折して下流へ60mほど行き、天野川(天の川)にかかる鵲(かささぎ)橋を渡る。四條畷市を源流とし淀川に合流する天野川は、川の流れが美しく古くから天上の銀河と見なされ、平安貴族のあこがれる歌どころでもあったと言う。いつの頃か、この川に橋がかかったとき、天の川にかささぎの群れが集まって橋となり牽牛と織姫との橋渡しをするという中国の七夕説話にちなみ、かささぎ橋と呼ばれるようになったと言う。橋を渡り左折して川沿いの坂道を進む

磯島交差点 街道の旧家
鵲橋(天野川)
東見付跡 案内板 小野平右衛門家

枚方(ひらかた)宿:東海道56番目の宿で「岡新町村・岡村・三矢村・泥町村」の4ヵ村で構成された特異な宿駅として成立した。宿場は岡新町の東見付から泥町の西見付まで淀川に平行に1477m(13町17間)あり、1843年(天保14年)には三矢村を中心に本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠が67軒あった。
枚方宿は京都と大阪の中間にあり、 淀川の京都伏見と大阪八軒屋浜とを結ぶ三十石船(船頭4人、乗客28人)の寄港地として、また陸上の交通の要衝として重要な位置を占めて繁栄した。ただ時代とともに淀川舟運が発展し、伏見から大坂まで水路で下がる片宿が多くなり枚方宿は次第に宿の経営が困難になったといわれている。
現在も宿場通りには、当時の建物や町並みが残り宿場の面影を残している。旧東海道であることを示すために、道を色で識別していることはアイデアであり、街道を旅する人への案内となり、観光に訪れる人たちにとっても親切である。
橋から80mほど下ると丁字路になり、枚方宿東見付跡碑や東見付の説明板がある。旧東海道は天野川の対岸からこの宿場入口の東見付で合流する。丁字路を右折すると、正面には宿場通りが真直ぐ続く。ここは岡新町村の宿場通りであったところ。
通り入口の左側の2軒目に、枚方宿の問屋役人小野平右衛門家の建物がある。当家には1716年(正徳6年)建築の古図と鬼瓦が現存しているが、現在の建物は幕末期のものとの事。枚方の伝統的建物は、長い間口と出格子、漆喰塗りの連なる虫籠窓の構成で出来ている。これから通る宿場通りの古い建物には、この伝統的な構成をしたものが多くある。

街道の旧家
枚方橋跡

道標

宗佐の辻碑

常夜灯

町並

宿場通りを300mほど進み交差点に出て、直進する。交差点の左手には京阪本線「枚方市」駅が見える。道なりに進むと正面の交差点に黄色い建物が見えてくる。交差点左の理髪店角に、角野宗佐の屋敷があったのでそう呼ばれている宗佐の辻碑がある。
「送りましようか、送られましょうか、せめて宗左の辻までも」と俗謡にあるように遊郭から客が帰るときに遊女がこの宗佐の辻まで見送ったという。反対側の黄色い建物の脇に、京街道と磐船街道の追分を示す1826年(文政9年)建立の追分道標がある。正面に「右大坂みち」、側面に「願主大阪」とあり和泉屋、近江屋、錦屋、小豆嶋屋と、刻まれている。


意賀美神社入口
意賀美神社案内板 意賀美神社拝殿 合戦図(学)
算額
旧家

交差点を右折して当時の岡村の宿場通りを進み、次の交差点を横断し、ビオルネ枚方商店街の中を通るビブレ歩道に入る。一直線上に色の濃い四角のブロックを敷いているのは、旧東海道の中心線を表示しているという。ビブレ歩道を過ぎてまた交差点を横断して進む。
ここの岡村の通りは、まさに当時の宿場を思わせるような情緒が一杯で、道幅も当時のまま(約4.5m)のであろう。当時の宿場通りを思わせる通りを歩く。右側には岡村と三矢村の境界にあった1829年(文政12年)建立の常夜燈、歴史を感じさせる建物がある。三矢村の通りの地名は当時のままの三矢町で、この通りが宿場の中心地でもあった。専光寺の手前を左に入り京阪のガードをくぐり琴平・意賀見(おかみ)神社に立寄る。
意賀美(おかみ)神社:通称万年寺山にある。初め、須賀神社と称し、現在地の近く三矢にあったが、1909年(明治42年)岡の日吉神社、伊加賀の意賀美神社を合祀して現社名に改め、現在地に遷座している。
起源は不明だが、872年(貞観14年)疫病が流行したとき、清和天皇が万年寺を建立した僧聖宝に命じて、牛頭天王を勧請、疫病消滅を祈らせたのが始まりで、「牛頭天王」、または「祇園社」とも称した。ここには算額が残されていた。
算額(さんがく):江戸時代の日本で、額や絵馬に数学の問題や解法を記して、神社や仏閣に奉納したものである。平面幾何に関する算額が多い。数学者のみならず、一般 の数学愛好家も数多く奉納している。


街道筋

本陣跡碑
塩熊 淨念寺 鍵屋 大広間

次の左角に(意賀美神社からはこの先に出たので少し戻った)高札場跡碑、右にはとても立派な武家屋敷を思わせる建物が残って、右側には郷土品展示物の「くらわんかギャラリー」看板と建物。ここは江戸中期から塩の商いをしていた塩熊商店の店舗で、現在は民芸品店であるが文化教室などにも開放している。
「くらわんか」とは、「食べないか」という意味で、寄港する三十石船に小舟で漕ぎ寄せ、船客相手に「さあさあ、飯くらわんかいっ!酒くらわんかいっ!あん餅くらわんかいっ!みな起きくされっ!なんじゃい、銭がのうて、ようくらわんか?」と威勢のよい売り声をかけた「くわらんか舟」は有名である。三矢村の中ほどの交差点には、右角に池尻善兵衛家本陣跡の三矢公園と本陣跡碑が立っている。徳川御三家の紀州藩主が参勤交代で宿泊し、15代将軍徳川慶喜も宿泊した本陣であった。
道路の反対側にある「塩くま」商店は前述の塩熊商店の分店で、建築資材を売っている。さらに進み駐車場の前を過ぎると突きあたり、本陣を防衛するための桝形道を右折すると、右側に1495年(明応4年)蓮如上人の弟子、岩見入道浄念の開基の浄念寺がある。

そこから左折して進み枚方パークハイツ手前の、鍵屋資料館道標のところで右折する。この辺りは当時の泥町村通りで、少し行った右側に枚方宿問屋役人木南喜右衛門家の建物がある。木南家はくわらんか船の茶舟鑑札を所持し宿駅と村の運営に大きな影響力を行使していた。建物は明治時代のもので、長い間口に出格子に虫籠窓が連なる伝統的な構成をしている。
木南家建物のはずれの塀の角に枚方船番所跡道標があり、矢印に従い右折して行くと塀の一角に2つの古い石柱と、道を挟んで工事中の「淀川舟運・枚方浜(問屋浜)跡」案内板がある。当時はこの辺りまでが淀川の浜で、船高札場もあったところ。この枚方の船番所では、淀川を往復する全ての舟の検閲を行った。
もとの道に戻り、左折して如何にも街道筋のような道を進むと右側に、「鍵屋」軒行灯を掲げた天正年間(1573~92年)創業の当時の様式を思わせる船宿・鍵屋がある。

鍵屋 客室・ 街道筋 鍵屋 街道筋

淀川で京都と大坂を往復する三十石船の船待ちや街道の旅人の宿であった鍵屋は「鍵屋浦にはいかりはいらぬ、三味や太鼓で船とめる」と唄われ平成9年まで料亭として営業をしていたが、2001年7月から「市立枚方宿鍵屋資料館」として利用されている。ちなみに当時は鍵屋の裏は、鍵屋浦という淀川の岸辺であった。
先に進み交差点に出ると、右角に西見付案内板が立っている。ここで枚方宿は終わり守口宿へ向かう。枚方宿と守口宿の宿間距離は約12Km(3里)である。

西見付跡 左・京街道 水面回廊 街道・桜町 光善寺(山門) 光善寺(本堂)

交差点を左折し突き当たりで右折して、旧東海道を進む。しばらく行くと、Y字路で下り坂道と右折する道に分かれる。Y字路を左折して、元遊郭で古い建物も残っている桜町の通りを進んで行くとT字路になり、その先には景観のよい「水と歴史のふれあい広場(水面廻廊)がある。元のT字路に戻り、桜町の通りを進む。出口2丁目の段蔵のある細い道を進むと、右側に本願寺八世蓮如上人開祖の光善寺がある。1475年(文明7年)布教先の越前吉崎を退去してこの地にたどり着いた61才の蓮如上人が、淀川河畔の葦原を埋め立てて作った一宇の草庵が後に光善寺となった。


段蔵造りの蔵
蓮如上人碑 腰掛石 御旅所跡
御旅所跡石柱

柿の大木

段蔵:度々起こる淀川の氾濫対策として、洪水時家具などを避難させるために2段、3段に高さを連立させた蔵、あるいは高く積んだ石垣の上に築かれた蔵で、枚方では随所にある。さらに昔ながらの建物の並ぶ道を進む。光善寺から百数十m行くと左側に、「親鸞聖人 蓮如上人 御田地」と刻まれた大きな石碑が立ち、その奧の玉垣の中に蓮如上人が腰をかけて説法したという「腰掛石」がある。とても古そうな塀の前を通って進むと左側に蹉跎天満宮の鳥居がある。ここは蹉跎天満宮お神輿のお旅所で本宮を遥拝する神社である。さらにその先左側の建物の間に、樹齢700年以上の柿の木がありその根元に石碑が立っている。石碑に刻まれている文字は漢文で読み方がとても難しい。
http://www.246.ne.jp/~you99/image26.jpg
(辞書で見つからない)は柿と同意語らしいので、説明では次ぎのようになると言う。
「柿の木 家の傍らに自生していたので 人々は姓を呼ばないで 柿木氏と呼んだ」 柿木家石碑を後にして、400mほど進み、堤防の上に上がる。堤防はまっすぐで、車の出入を規制しているので天下の公道を悠々と歩ける。右手は淀川河川公園と、その向うには雄大な淀川の流れ。堤防上に上がって400mほど行くと、枚方市から寝屋川市へ入る。その先800mほど先、左手には大阪府太間排水機場建物と排水池があり、その先の堤防から一段下がり、木の茂った一角に、茨田(まんだ)堤と刻まれた大きな石碑がある。碑には、「日本書紀に茨田堤の築造は、仁徳天皇11年とあり、これは河川堤として日本最初のものである。」と記されている。
仁徳天皇の命により「北の河(淀川)」の改修で築かれた茨田堤は、流れが強くて堤が切れてしまう場所(絶え間)が2箇所あり、人柱に武蔵強頸と茨田衫子(まんだのころもこ)が選ばれた話が日本書紀に書かれていると言う。この辺りの太間(たいま)という地名は、この絶え間からきている。強頸は人柱となったが・・衫子は機転を利かせ助かったという。その先、堤防の下には用水用に作られた茨田樋之跡がある。また、堤防上を延々と歩く。
堤防の先には、淀川新橋が見える。さらに進むと芸術的なシルエットの鳥飼・仁和寺大橋があり、300mほど進んだところで堤防を下りて昼食となる。昼食後は1号線を600mほど歩くと、道標と常夜灯のある佐太天満宮の鳥居と参道がある。


柿木家石碑
茨田堤碑 茨田樋之跡 鳥飼仁名寺大橋
佐太天満宮・道標
常夜灯
佐太天満宮・拝殿

佐太天満宮:901年(昌泰4年)菅原道真が太宰府に左遷され、赴任途中に当地でしばらく滞在したと伝えられ、道真は、宇多法皇の計らいで、自分の無実が証明されるかもしれないと、一縷の望みを持ち、ここで都からの沙汰を待ったが、一向にその沙汰もなく、筑紫へ下向することとなった。この地名は「佐太」はこの「沙汰」が訛ったといわれる。
道真は出立に際し、自身の木像と自画像を残し、この時楊枝を土に挿し、「わが身の無実の証拠として二葉の松となって生い栄えよ」と誓ったところ、程なく発芽し、見事な松の木に成長したと伝わる。道真が太宰府でなくなってから50年後の天暦年中(947~57年)に、里人がその徳を慕い、道真が残していった木像を御神体として祀った。

佐太天満宮・本殿 来迎寺・勅使門 来迎寺 来迎寺・本堂
幽霊の足跡

十三の塔・石塔

再度堤防の上にあがり1.3Km程歩き、優美な姿の鳥飼大橋を左斜めの坂道を進む。市浄水場の北側角の丁字路を右折し道なりに歩き、八雲北公園の西側に出てそのまま進む。公園の中ほどの丁字路で右折して進むと突き当たりに正迎寺がある。天満宮の隣には天筆如来(阿弥陀・観音・勢至の三尊のみ影)を祀っている来迎寺がある。
清和天皇の貞観元年(859年)に、奈良大安寺の行教上人が、九州は宇佐の八幡宮に国家の安全をお祈りされ、その満願の日に行教上人のお袈裟の上に、仏さまの姿があらわれたと言う。その姿を写したものが「天筆如来」で、石清水八幡宮のご神体とされた。
その後、康永元年(1342年)4月15日の夜、石清水八幡宮の宮司に夢告が、又深江の法明上人(融通念仏宗の中興)にも「天筆如来」を授けるというお告げがあり、両者が出会い、宮司より天筆如来を法明上人に渡した。その場所が枚方市茄子作一本松で、史跡「本尊掛松」又「上人松」と名付けられている。
法明上人は、弟子の実尊上人に「天筆如来」を授け、実尊上人は、自分の生まれた大庭の庄で正平2年(1347年)紫雲山来迎寺を建立した。当時は浄土依準大念仏宗の本山として守口市来迎町にありましたが、来迎寺独特の相続法により各地に移転すること二十六回、延宝六年(1678年)三十世慈光上人の時に守口市梶町から現在の地に移ったとある。


淀川渡場跡
鳥飼大橋 鳥飼大橋
正迎寺
守口一里塚
かめ橋親柱(跡)

ここで左折し前方に阪神高速12号守口線の高架を見ながら最初の交差点を横断する阪神高速12号守口線の高架の下を潜り、八雲小学校の前と八雲公園の横を通り交差点に出る。200mほど行き、左手から来る155号線と合流して進む。左側の守口東高校の前を通り、敷地のはずれから道は分れ右折して進む。山本金属の前を通り、ゆるい右カーブのところにある民家に挟まれた空地の奧に、守口宿の出入口にあった守口の一里塚がある。大名が宿泊や通過する時は、問屋や庄屋などの村役人が一里塚まで送迎した。
江戸から数えて57番目の守口宿は、1616年(元和2年)に成立し、宿場は京街道(文禄堤)に沿って南北約10町、東西約1町の規模で、本陣1軒、問屋2軒、問屋場1軒があった。
守口宿
大坂から2里の近距離にあったため旅人の宿泊は少なく、さらに時代が下がるとともに淀川舟運が発展し、交通量は少なくなってしまった。しかし、米・菜種・綿花などの農産物の集散地として重要な機能をはたし、商業活動は活発だった。
宿場通りには今でも伝統的は商家なども所々に残されていて、当時の面影をしのぶことができる。
また豊臣秀吉が文禄6年(1569年)に淀川左岸を修築して作ったいわゆる文禄堤の京街道は、その多くは消滅してしまったが、宿場通の守口市本町に今でも往時の面影をとどめている。

本陣1軒、問屋2軒、問屋場1軒

盛泉寺
東海道・森口宿・道標

難宗寺・道標
難宗寺・本殿 難宗寺・玉座
(明治天皇)
錦の御旗(難宗寺蔵)

さらに進み1号線の浜町信号交差点を斜めに横断し、浜町1丁目の町並みを南へ進むと左側に1606年(慶長11年)に教如上人が開基した、松の木を配した落ち着いた雰囲気を感じる盛泉寺がある。本堂は1835年(天保6年)に再建されたもので、寺院には大塩平八郎直筆の書簡が保存されている。
寺院を過ぎるとすぐ広い竜田通りの交差点に出る。横断して交差点の左角に、枚方市出口に光善寺を創建した蓮如上人が、1477年(文明9年)に建立した難宗寺がある。
周りを築地塀で囲み、寺院塀に、左から順に「左京 すぐ京」、「すぐ守口街道」と刻まれ傾いた2つの小さな古い道標と、その隣には多分明治天皇行幸時の「御假宿所」、「御行在所」の2つの大きな石碑が立っている。また山門・鐘楼・本堂などがあり威厳を感じさせる境内には、大坂府天然記念物の樹齢500年で高さ約25mの大きないちょうの木がある。境内は自転車で埋め尽くされていた・・聞けば婦人会の総会との事、丁度閉会の時間であった。お寺のご好意により、このお寺に残る「明治天皇の玉座」と「錦の御旗」を見学させていただいた。共に貴重な物であったが快く見せていただいたお寺の方に感謝であった。


難宗寺・大銀杏
難宗寺・本堂 難宗寺・山門 文禄堤 文禄堤・旧家 文禄堤跡・右淀川
(守口橋)

難宗寺を出て左折した先の駐車場脇に白井家、大塩平八郎縁の書院跡がある。竜田通りを右折すると、八島交差点に出る。すぐ左側の斜めの道に入りゆるい坂道を登る。道はすぐ丁字路になり、その左側に「文禄堤」案内板がある。この堤は豊臣秀吉が淀川の治水と京街道の整備を目的として淀川左岸を修築した堤防で、1569年(文禄5年)に修築したので、「文禄堤」と呼ばれている。その多くは消滅してしまったが、守口市にはその一部がまだ残っている。
信号を左折してから道が着色されている。文禄堤を示している。竹で巻かれた電柱には「文禄 堤」の表示がされ、また古い商家の建物なども所どころに残っていて、昔の名残を感じさせるとても美しい町並みとなっている。所々の民家・商家の間には下へ降りる狭い階段が見える。これも堤の跡を思わせるものである。

着色された道を歩き、先ほど見えた本町橋から左手に守口市駅を眺めて進む。この辺りの文禄堤の京街道の道幅は狭いが古い建物もあり、なんとなく情緒がある。陸橋の守居橋を下りると文禄堤の形状を橋の下で見る事ができる。ここが今日のゴールである。

今日のコースは 御殿山駅磯島信号交差天野川(天の川)・(鵲橋)枚方宿東見付跡碑・東見付岡新町村・宿場通り枚方宿の問屋役人小野平右衛門家
 
枚方橋跡碑角野宗佐屋敷・宗佐の辻追分道標ビブレ歩道常夜燈高札場跡碑池尻善兵衛家本陣跡・三矢公園・本陣跡碑塩くま商店桝形道浄念寺
 
枚方宿問屋役人木南喜右衛門家枚方船番所跡道標淀川舟運・枚方浜(問屋浜)跡案内板船高札場船宿・鍵屋(市立枚方宿鍵屋資料館)→
西見付案内板
 
桜町(水面廻廊)段蔵光善寺柿木石碑腰掛石淀川堤防茨田堤淀川新橋仁和寺大橋鳥飼大橋浄水場八雲北公園八雲小学校
 
守口東高校守口一里塚盛泉寺難宗寺白井家書院跡八島信号交差点文禄堤案内板・文禄堤



クラブツーリズム 「街道を歩く 東海道57次 後編 御殿山~守口宿」 街道案内人 根津信年 歴史講師 


                           5月16日 守口宿・大阪城・高麗橋