このツアーのスタートは8時である。今日の行程は57次プラス伏見稲荷・御香宮参拝、月桂冠大倉記念館の見学と盛りだくさんである。
伏見稲荷・・
私たちにとって、身近な神社といえる「お稲荷さん」は全国に30,000社あるといわれ、全国各地で老若男女を問わず親しまれています。その総本宮が伏見稲荷大社であり、その稲荷信仰の原点が、稲荷山と書かれてある。


伏見神社・参道

伏見神社・大鳥居井

鳥居と山門
手水場 拝殿
灯篭

伏見稲荷の祭神である稲荷大神が、ここに鎮座したのが奈良時代の711年(和銅4年)2月初午の日のこと。その日から数えて、2011年(平成23年)に鎮座1300年を迎えたと言う。鎮座以来、この長い歳月を時代時代の人々の篤い信仰心によって「衣食住ノ太祖ニシテ萬民豊楽ノ神霊ナリ」と崇められ、五穀豊穣、商売繁昌、家内安全、諸願成就の神として、全国津々浦々に至るまで広く信仰されている。

神輿・祭の準備
鳥居

おもかる石

狐の絵馬

千本鳥居

奉納踊り

見上げる大鳥居・朱に塗られた楼門・本殿・千本鳥居、おもかる石、等々お稲荷さんの一部ではあったが見所(参拝)はたくさんあった。祭りの準備で白装束の氏子たちが忙しそうに神輿の準備や奉納踊りをしていた。参道の食事処には頭付の「うずら」の丸焼きが・・聞けばこの辺りはウズラの産地とか・・
御香宮・

平安期、境内から病気に効く香水がわき出たので清和天皇から、この名を賜ったという。桃山期の特色ある建築物のうち表門や極彩色彫刻の本殿は重要文化財。ご利益は「安産守護・子育て」神功皇后(じんぐうこうごう)ほかを祀り、豊臣秀吉は伏見城の守り神とした。
書院の庭は、小堀遠州ゆかりの石庭であり、鳥羽伏見の戦いでは薩軍の屯所になった。10月上旬の9日間におこなわれる神幸祭は「伏見祭」といわれ伏見随一の祭である。獅子一対・神輿3基、武者行列のほか、多数の氏子が出仕しての行列があり、1日目、8日目夕方から趣向をこらした大小の花傘が氏子各町から「アラウンヨイヨイ
」のかけ声で参加し、夜遅くまでにぎわうと言う。(以上、案内による)

御幸宮・表門 伏見城址石 美しかったので・・ 御幸宮・本殿
御幸宮・拝殿

伏見の戦跡碑

現在の本殿の建立は1605年(慶長10年)で本殿脇には環境省名水百選認定 「伏見の御香水」が湧き出ている。山門は伏見城の大手門が移築されたものであり、境内には伏見城の石垣の一部が(無造作に)置かれている。
月桂冠大倉記念館・・

伏見城の外堀・濠川(ほりかわ)沿いの柳並木、白壁土蔵の酒蔵。酒造りの最盛期、蔵の近くを通ると、米を蒸したり、もろみが発酵する香りが漂い、酒の街ならではの趣をたたえている。街角には湧水が出ていてそれぞれ名前が付けられている。良い水の出る所に良い酒・・(観光パンフより)


月桂冠大倉記念館
記念館入口 杉玉
工場・酒蔵
酒蔵・工場 派川沿いから

京都の酒造りの街・伏見にある月桂冠大蔵記念館物は1909年(明治42年)建造の実際に使われた酒蔵を改装したもの。貴重な酒造用具類(京都市指定・有形民俗文化財)や実際に発売された商品、写真などの資料の数々を保存・展示し、伏見の酒造りと日本酒の歴史を分かりやすく紹介している。
見学の後には利き酒体験(特選月桂冠・月桂冠・ワイン:猪口に一杯ずつです)ができる。(未成年者・車を運転される方はご遠慮下さい)と大きな張り紙がある。また、予約すれば実際の酒造りの様子を見学することもできる。


伏見市内散策(今日の行程は伏見稲荷・御香宮参拝、月桂冠大倉記念館見学→京街道→伏見市内→京街道の順で歩きました)
月桂冠大倉記念館から川沿いに歩く、宇治川派流に架かる橋を渡ると十石舟が眺められる。川の両側は桜と柳の並木、酒蔵の茶と黒のグラデーションされた板塀、これぞ伏見と言う景観を楽しむ。川沿いにある長建寺は島の弁天様として地元の人たちに親しまれている。境内は狭いが樹木が生い茂る古刹の雰囲気を感じる。川沿いを歩いてゆくと京橋の下は三十国舟の観光船乗り場になっている。観光客も集まり始めている。青い空の遠くに目線を向けている「龍馬・お龍の旅立ちの像」がある。京橋からは十石舟、三十国舟が行き交う水運の街の姿を見られた。

市内観光マップ 三十国舟
龍馬・お龍像

京橋・親柱

伏見激戦の跡碑

カッパカントリー

京橋からに向かって二つ目の通りを右に入ると、その先に黄桜の見学施設黄桜カッパカントリーの建物がある。隣には麦酒工房の看板も・・
伏見土佐藩邸跡の石碑、幕末の京都を守った会津駐屯地跡(山門が残っている)は幼稚園となっていた。この辺りを「四辻の四つあたり」といい曲手を組みわせて敵の侵入を容易にさせない役目をしたと言う。アーケードのある商店街の東側労働金庫前に「此付近伏見銀座跡」の石柱がある。
アーケードの中央付近を南北に通るのが龍馬通りである。商店と露店が軒を並べ、時間があれば一日いても飽きそうもない通りである。


黄桜麦酒

伏見長州藩邸跡

伏見土佐藩邸跡

会津駐屯地跡

伏見銀座跡

龍馬通り

京橋の北側の道を右に入ったところに寺田屋がある。「寺田屋」の軒提灯を吊し、当時の面影を残し、現在も宿として営業をしている。当時は船宿であった。
1862年(文久2年)4月23日討幕急進派が寺田屋に集まって、決起を企てた「寺田屋騒動」は有名である。

寺田屋
寺田屋玄関

軒提灯

薩摩九烈士の碑

三十国舟(観光船)
伏見公園

また、ここは坂本龍馬の定宿で、お龍さんとの恋の宿としても知られている。屋内には龍馬の部屋も生々しい弾痕の跡、刀傷の跡等が残っている。

京橋の下の流れは宇治川に注ぎ淀川に通じている。淀川の水運は、古くから京・大阪を結び、琵琶湖経由で遠く東海道・北陸ともつながる交通の大動脈であった。慶長年間(1596~1615年)に京都市中と伏見との間に高瀬川が開通してからは、この付近は旅人や貨物を輸送する船着場として大いに栄えた。
淀川を上り下りする貨客の三十石船、高瀬川を往来する高瀬舟、宇治川を下ってくる柴船などが昼夜とも賑わったと言う。
この京橋から眺めた川の景観は魅力的であった。ここは伏見宿の中心で、京橋北詰には伏見鳥羽の戦い、激戦地の後の石碑が立っている。
京橋を南に向かう、先の右側には伏見長州藩邸の石柱が立っている。

京橋を渡り進んで行くと前方で道は分かれ、左は京阪本線中書島駅へ行く道となる。右の道を進み、右折して狭い道を西へ進む。400m程進んだ左奥に毎年10月に開催されるタイマツを燃やしながら練り歩く炬火祭(たいまつまつり)で有名な三栖神社がある。この先は宇治川に注ぐ濠川に架かる肥後橋を渡る。多分この辺りまでが伏見宿ではないだろうか(見付等のあんない・標識はない)。
次は淀宿で、伏見宿から淀宿までは5.4Km(1里14町)である。

橋を渡り左折して濠川沿いの道を進み、京阪本線を横断しさらに堤防上を進んで高架道路のガード潜って行く、標識も案内板もない道を淡々と進む、案内がなければたちまち迷うであろう。案内をする講師がいるツアーの強みである。宇治川を左にみながら草むらの道を歩いて行くと、宇治川に注ぐ高瀬川に遮られる堤防へ上る草むらの中の細い道を進む、仮橋のような橋を渡って堤防上を左に進む。
高瀬川は1611年(慶長16年)に門倉了以が資材運搬用の水路として開削した川で、森鴎外の「高瀬舟」の舞台にもなった。高瀬舟(底が平らな箱型運搬船)を通したので、高瀬川と名づけられたという。
突き当たると宇治川の堤防上である。宇治川の堤防は舗装道路となり、30分程淡々と歩く、時折車が通る。第二京阪道の京都南大橋の下を潜り、右側には京阪本線の電車が走っている。進んで行くと号線の宇治川大橋の北詰に出るが横断歩道がなく、この時は交通量が激しく横断は命がけである。
団体・個人でも渡るのは至難の業であろう・・下の道に降りてバス移動で伏見市内へ(伏見市内散策参照)市内散策、昼食後先ほどの1号線高架下先にバス移動、1号線の歩道を歩き、再度、宇治川大橋北詰堤防上に戻る。

高瀬川 宇治川 京都競馬場
戊辰役激戦の址

淀古橋旧趾

唐人雁木旧趾

左に宇治川、右に京阪本線を見ながら堤防上を進み、撮りテツ君が構えるカメラを眺め京阪本線の踏切を横断し、左折して京阪本線沿いに進む。旧道は宇治川から離れる。左手前方に天皇賞の開催される京都競馬場と正面に競馬場への横断橋が見える。しばしの競馬談義である。

横断橋を過ぎると右側に、「史蹟戊辰役激戦之址」の白柱と戦死者慰霊石碑があり花が供えられていた。戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦は、数の上では勝っていた幕府軍が「錦の御旗」の前に多数の死傷者を出して淀まで敗退し、この辺一帯で最後の激戦が行われ新撰組も先頭にたって戦い多くの戦死者を出した。
ここでも敗退した幕府軍は、至近の幕府側の淀藩に入城をしようとしたが、淀藩主は寝返り幕府軍に門を閉ざして開けなかった。幕府軍は仕方なく橋本まで後退し、以降幕府軍の弱体化と敗北へと傾いていった。左手の京都競馬場を見ながら歩いていると淀小橋旧址碑の石柱が見える。
淀小橋は淀城内と城外をつなぐ橋であった。幕府軍が撤退する時に「薩長連合軍が追撃できないように淀小橋を焼き落としてしまったとある。
競馬場を左に見て124号線は京阪本線から離れ西の方へ進み、納所(のうそ)交差点に出る。この交差点は、変則6差路で複雑である。納所(のうそ)の地名は、淀川を行き来する船の港として物産を納める倉庫が連なっていた(現在の倉庫群のようであった)ことからきている。
旧京阪国道を渡り、北方向の細い道(街道からは離れる)を進む交差点を渡り切った左側電柱脇に「唐人雁木旧趾」(雁木:船着場の階段状の構造物で唐人:朝鮮通信使がここに着いた)の石碑
が立っている。350m程行った右側奥に妙教寺がある。妙教寺は、鳥羽の戦い激戦地(幕府軍1万5千対官軍6千)の鳥羽街道脇にあった。門を入った境内には、史跡淀古城跡・戊辰の役砲弾貫通跡の説明石柱、榎本 武揚書の東軍供養塔等があり、本堂脇に残る鳥羽伏見の戦いの時の砲弾(流れ弾)が抜けた痕などを見る事ができた。法事のため本堂内には入れなかった。

妙経寺・山門 妙経寺
淀古城址

砲弾の抜けた痕

淀城石垣

掘割と石垣

納所交差点に戻り、競馬場・京阪淀駅を前に見て淀本町の一方通行の道を入る。200mほど行くと古淀城跡や淀の地名の由来となった與抒(よど)神社がある。淀城址南東側の石垣は綺麗に残っていた。西側の堀跡のは水車を見る事も出来、天主跡脇には井戸跡(小さな穴)も残っていた。淀城古址・淀古橋旧趾・唐人雁木旧趾等(あと一本は読めない)の石碑が立っている。城址には式内与抒(よど)神社、稲葉神社があり参拝する人たちも見られた。
與抒(よど)神社淀城内にあり、古く淀姫社・水垂社と呼ばれた。応和年間(961年~64年)に僧千観内供が肥前の淀大明神を勧請。旧水垂町にあり、桂川の水上運輸の守護神として祀った。明治33年現地へ遷される。この地に古くから住んでいた大与等氏の祖神を祀ったものと言われている。


天主跡
石碑 宇治川を望む
御幸橋
宇治川 木津川

淀宿としての史蹟は古淀城跡や淀の地名の由来となった與抒神社など訪ねて見るべきでものが多々あった。

城址を出て淀駅の高架を潜ると目の前は京都競馬場である。都競馬場敷地の西側に出て、右折して住宅街の狭い舗装道路を道なりに南に歩くと、道が2つ分かれるのでコンビニが見える右側の道を進む。その先には「競走馬輸送会社」の看板が目に付く。中山競馬場の近くにもあったななどと思い出す。

街中のゆるい下り勾配の道を進み信号のある交差点を直進し、住宅街の中を右折・直進と歩く、長い直線道路となり、昔の街道筋を漂わせる雰囲気を感じさせる。道の両側には古い家もところどころにあり、お寺も点在している。ここのあたりも街道の案内がなく講師なしでは歩けない所である。やがて住宅地から前方が急に開け一面畑となり、宇治川にかかる京滋バイパス石清水大橋に向かって、農道を行くと石清水大橋の袂に着く、左手の宇治川の堤防に上がる階段を登りトンネルを潜る。堤防上を直進し、13号線(旧京阪国道)の宇治川・木津川に架かる御幸橋を渡って川を横断する。

御幸橋の前方に見える山は石清水八幡宮が鎮座する男山で、石清水八幡への参道を御幸(ごこう)道と呼んでいたので1930年(昭和5年)に橋を架けた際、御幸(ごこう)橋と名づけたという。二つの橋とも同じ名前になっている。宇治川・木津川はこの下流で桂川(京都市内で鴨川と合流)と合流し淀川の流れとなる。橋を渡り切ると左側は京阪八幡駅、石清水八幡・男山方面となる。右折した所が今日のゴールである。


今日のコース 京橋北詰(宇治川派流)伏見鳥羽激戦地石碑三栖神社肥後橋高瀬川宇治川京都南大橋宇治川大橋北詰伏見市内散策
 
宇治川大橋北詰
宇治川堤防京都競馬場史蹟戊辰役激戦之址戦死者慰霊石碑淀小橋旧址碑淀宿納所交差点唐人雁木旧趾妙教寺古淀城跡
 
與抒神社京阪淀駅・京都競馬場石清水大橋御幸橋宇治川・木津川) 


 クラブツーリズム 「街道を歩く 東海道57次 前篇 大津追分~淀宿」 街道案内人 根津信年 歴史講師

Blowin' in the Wind 2013
                          
いっちゃん東海道を歩く・・

4月21日(日) 伏見宿~淀宿(御幸橋)


淀宿

江戸日本橋から55番目の淀宿は、伏見宿からわずか5.4Km
(1里14町)の近いところにある。
淀宿は淀城の城下町で、豊臣秀吉が築城した淀城(淀古城)は
伏見城造営にあたり取り壊され、その後、徳川幕府による伏見
廃城とともに、桂川、宇治川、木津川の3川の合流三角州に再び
新淀城が築かれた。

淀宿は城内の3町と淀小橋でつながった城外の3町とで形成され、
本陣、脇本陣はなく旅籠が16軒の宿場であったが、水陸交通の
要衝として、問屋場、伝馬所が設けられ、500隻もの淀船の母港
であった。

2013. 4.20~21     東海道57次を歩く・・(前篇)
               伏見宿(京橋)~淀宿(御幸橋)