この地図上の寺社・旧跡、名所等の位置は目安です。
街道地図・現地案内板等で確認してください。
Blowin' in the Wind 2013
                          
いっちゃん東海道を歩く・・
江戸日本橋から大津宿まで481.1Km 草津宿~大津宿間 14.3Km

大津宿:大津は奈良時代から「古津」と呼ばれて、交通の重要な拠点であった。天智天皇による近江大津宮の遷都があり、また近江商人の町として栄えたところでもある。
宿場として成立したのは江戸寺時代の1602年(慶長7年)に、大津陣屋が置かれたことによる。

宿場町と琵琶湖の物資が集散する港町を併せ持った大津宿は大いに賑わい、人口も旅籠も東海道53次の宿場で最大の規模であった。

本陣:2軒、脇本陣:1軒、旅籠:71軒

2013. 3.19 大津宿~札の辻    歌川広重が描いた東海道53次はこちらでどうぞ
           
 大津走井茶屋

3月19日(火)

瀬田の唐橋から南へ500mほどのところにある石山寺参拝が今日のスタートである。

紫式部が参拝し『源氏物語』を書いたという石山寺は、各時代にわたり『源氏物語』の跡を訪ねて、その心寄せを歌や文章にとどめた松尾芭蕉、島崎藤村等の文人や人々が絶えることはありませんでした。石山寺のご本尊は如意輪観世音菩薩である。
平安時代には皇族や藤原氏を始めとする貴族らの「石山詣」が盛んとなり、祈ったのは、国家安泰や子孫繁栄につながる縁結びや安産と言われる。
「石山寺縁起絵巻」によると、如意輪観音さまの胎内には聖徳太子の念持仏が納められており、石山寺に特に帰依した藤原兼家や藤原道長は家が栄え、それぞれの娘に後に天皇となる珠のような子どもを授かったことから、それにあやかって石山寺で祈願する貴族もあったとある。


東大門


蓮如堂
毘沙門堂・観音堂 本堂
本堂

本堂

皇族・貴族だけでなく、庶民も石山寺に参拝した。昔も今も、安産・福徳・縁結び・厄除けに霊験あらたかな如意輪観音のご利益は広く知られ、多くの人々の信仰を集めていると言う。

重要文化財の東大門は建久元年(1190年)に源頼朝の寄進により建てられたとされ、その後、慶長年間に大修理が行われており、古寺にふさわしい堂々とした造りである。東大門からまっすぐに伸びる参道の両側には霧島つつじが植えられ、見頃は4月下旬頃、また、早春の梅、春の桜、秋は紅葉で美しく彩られると言う。ちょうど梅の見頃で、3か所の梅林は紅白の梅が満開であった。早咲きの桜(名は夢桜)も咲き始めていた。

参道の先にはある硅灰石は、石灰岩が地中から突出した花崗岩とぶつかり、その熱作用のために変質したものと言う。石山寺のように雄大な硅灰石となっているのは大変珍しく、国の天然記念物に指定されており、「石山」という名称はこの硅灰石に由来している。


多宝塔
梅林 経堂 式部像
ご神木(杉)

水車

本堂は滋賀県最古の木造建築物とされており、内陣は平安時代中期の建築、外陣(礼堂)は慶長7 (1602年) 淀殿の寄進により増築されたといわれている。 本堂内陣に安置されるのは、安産・福徳・縁結びの観音さまとして信仰を集める「如意輪観世音菩薩」で、ご開扉は33年毎です。
相の間には、紫式部が『源氏物語』を起筆したことにちなんだ「源氏の間」がある。


街道歩きのスタートは瀬田の唐橋西詰めを背にして京阪の踏切を渡り、その先の鳥居川の交差点を右へ曲がり商店街を歩く。1号線を横断し、京阪の踏切を渡り、JRの高架を過ぎて琵琶湖に注ぐ、細い川の左手に入る。このあたりが粟津一里塚跡であるがそれらしき「跡」はない。道なりに300mほど行くと


唐橋西詰・親柱

粟津一里塚あたり
今井兼平の墓

勢田口総門跡碑

若宮神社・山門
若宮神社・本殿

JR東海道本線(琵琶湖線)の石山駅前に出る。右手にはルネサス関西セミコンダクタの工場がある。体育館の先に木曽義仲の乳兄弟であった今井兼平
(かねひら:巴御前の兄)の墓がある。戦で敗れ粟津の松原に逃げ込んだ義仲を逃がすために壮絶な最期を遂げたと案内にあった。

旧東海道に戻り、工場沿いの道を行くと松の木がところどころに立っている。町名は「晴嵐(せいらん)」と書かれて、江戸時代のこの道は、粟津の晴嵐と呼ばれる松並木のとても美しいことで有名であったというが、今では見る影もない。
このあたりの道は琵琶湖の西側に沿って北上し、800mほど行くと右の民家の玄関前に、膳所(ぜぜ)城勢多口総門跡碑がある。その先には2番目に古いといわれる犬走門のある若宮神社、そこから左へ曲がり、300m行って右に曲がって少し行き、京阪電鉄石山坂本線瓦ヶ浜駅の踏切を渡ると右手に、膳所焼美術館の看板が見える。


粟津神社・山門
粟津・本殿
和田神社

篠津神社・欅の巨木
篠津神社・本殿 膳所神社・山門

さらに300m行って左に曲がり中の庄駅から右に曲がって400m行くと十字路になる。粟津神社、鎌倉時代創建、重要文化財の和田神社、篠津神社、瓦屋根の縁心寺と寺社、仏閣が並ぶ。東海道は真っ直ぐであるが、左手には豊受比売命を祀り、奈良時代の創祀で、中世には、諸武将の信仰が厚く、社殿には、豊臣秀吉や徳川家康が神器を奉納したという記録が残っている膳所(ぜぜ)神社がある。

膳所神社・本殿 膳所城址公園・石垣 近江大橋 和田神社・山門
和田神社・大銀杏
和田神社・本殿

正面の山門は、膳所城の本丸大手門で重要文化財に指定されている。さらに右手に行くと琵琶湖に面して膳所城址公園入口がある。膳所城は徳川家康が関が原の戦の後、最初に築いた城であるが、現在は石垣の一部があるのみで、城の遺構などは何も残っていない。
2006年10月中山道ユキちゃん隊で小休止したところでもある。公園の中に入り護岸に行くと、北東の方角に琵琶湖にかかる流線型できれいな近江大橋がすぐ目の前に見える。
懐かしい風景である。

岩坐神社
岩坐神社・大エノキ
岩坐神社・本殿
法傳寺門柱
べんがら格子の旧家
膳所城北口総門跡

また、もとの十字路へ戻り直進して旧東海道を行くと鎌倉時代建立の重要文化財である和田神社、その先は丁字路になるので、左に曲がると瓦屋根の縁心寺、つきあたりの響忍寺の前の丁字路を右に曲がり、半円を描くような道路を歩いて鎌倉時代に建立された石坐(いわい)神社前を西へ進み、琵琶湖から離れて行く。この辺は旧街道の面影を残す道で少し複雑になっている。

石坐神社から300mほどの右に、膳所城北総門跡碑がある。これは来る道中の膳所城勢多口総門と対をなすもので、大津口総門ともいう。

さらに500m行くと左側に国指定史跡の義仲寺(ぎちゆうじ)がある。寺の名は、粟津の地で討たれた木曾義仲の葬られた塚があるところからきている。現在の寺は1553年(天文22年)に佐々木高頼により再建されたもの。

義仲寺
無名庵

木曾殿と・・

古池や・・

巴塚

義仲の墓

門を入ると左には(義仲の妻の)小さな巴塚、その隣には義仲の供養塔がる。さらにその隣には松尾芭蕉の墓がある。松尾芭蕉はたびたびこの寺を訪れていて、1694年(元禄7年)大阪で死去すると「遺骸は木曾塚に送るべし」との遺言に従ってここに墓が作られている。境内には「木曾殿と背中合わせの寒さかな」(芭蕉の門人、又玄作)、芭蕉自筆の文字を刻んだ「行春を近江の人とおしみける」など十数基の句碑がある。


芭蕉の墓

旅に病んで・・

翁堂

行春を・・
石場一里塚あたり
平野神社・石柱

京阪の踏切を渡り坂を登りきり左側の奥には平野神社、元の戻り、あたりが石場一里塚跡である。広い通りを渡り300mほど行くと左側の洋品店の角に「大津事件碑」が立っている。


平野神社・本殿
街道沿いの旧家
京町の町並

大津事件の碑
札の辻
京阪電鉄(路面)

大津事件は1891年(明治24年)5月11日に日本を訪問中のロシア帝国 皇太子・ニコライ(後のニコライ2世)が滋賀県滋賀郡大津町(現大津市)で警備 にあたっていた警察官・津田三蔵に突然斬りつけられ負傷した暗殺未遂事件である。明治憲法の三権分立の中で裁かれ「謀殺未遂罪」で終身刑となった津田はその後、獄死した。

西へほぼまっすぐ市街地の中を通って行くと、左に滋賀県庁が見える。そして義仲寺から約1.8kmほどで大津宿の中心地(京町と表示されている)の札の辻に出る。左に曲がり南下した所が今日のゴールである。 


今日のコースは 瀬田の唐橋(西詰)石山商店街(粟津一里塚)今井兼平の墓→粟津の晴嵐(松並木)→膳所城勢多口総門跡碑若宮神社
 
膳所(ぜぜ)神社膳所城址公園(近江大橋)→和田神社→縁心寺石坐神社膳所城北総門跡碑(大津口総門)→義仲寺・松尾芭蕉の墓平野神社
 (石場一里塚)大津事件碑札の辻


                           3月20日 三条大橋