Blowin' in the Wind 2013
                          
いっちゃん東海道を歩く・・



2月27日
(水)

江戸日本橋から石部宿455.1Km 水口宿~石部宿間13.7Km

石部宿:京都から36Kmのところにあり、京都を朝出発すると石部に夕方ころ到着することから「京立ち石部泊まり」と言われ、江戸へ下る旅人の多くが最初に宿泊した宿場であった。また伊勢路への街道としても賑わった。石部宿を出た灰山あたりは昔、石部金山と呼ばれ、聖武天皇時代には銅が、江戸時代には黄銅鉱が採掘されたといわれている。栗東には、石部宿と草津宿の間宿がおかれていて本陣が1つあった。
本陣:2軒、脇本陣:0軒、旅籠:32軒

心配していた天気は予報通りで明け方には小降りとなり、今日はJR草津駅から電車移動となる・・甲西駅で下車だが、はたと困った・・駅を出る際に改札出口に乗車券の投入口がない!駅員に手渡しである。ところ(JR西日本)変われば我々の住んでいるところとの違いも多々ある。

きょうのスタートは軒下に緑色の鮮やかな杉玉が下がり、いかにも歴史(1805年創業)を感じさせる建物の北島酒造見学・試飲である。
北島酒造では、朝から地酒(甘口・辛口大吟醸)を試飲の大盤振る舞い、土産物はホテルに配送・・のサービスである。

接待に満足し少し歩くと家棟川があり、その先、約1.6Kmのところに落合川が流れている。
甲西町と石部町の境界で石部宿へ入る。

JR草津駅 草津線車両 うつくしの松案内板 北島酒造 店内のディスプレイ
玄関脇の花

落合川を渡ると石部町となり、まっすぐ西へ進む。約500m歩くと左に吉姫神社の鳥居があり、参道を行くと境内に南北町時代の作といわれる大きな
木造狛犬がある。鳥居の先には石段があり境内は広く、品格のある神社である。この神社は西にある吉御子神社(男神様)と対の関係にある。

さらに600mほど歩いて行くと、信号のある交差点にでる。この左側角には高札場跡、昔の面影を再現した道の広場があり、街道歩き旅の一休み場所
ともなっている。
古いたたずまいとともに広重の絵を飾り、昔の雰囲気を味わらせてくれようとする町の心遣いが感じられる。横断して250m行くと左側
に大きな明治天皇聖蹟石碑の前に小島本陣跡碑がある。

吉姫神社 本殿
狛犬(木造)左

狛犬(木造)右

高札場跡
広場の広重画

小島本陣は1650年(慶安3年)に吉川代官屋敷跡に創建され、間口45間奥行31間、敷地2845坪、建坪775坪で、部屋は大広間など26もあり、
東海道の豪壮鮮麗な建てものとして有名であった。しかし老朽化により昭和43年に取り壊されて現在は、跡形も無くなっている。

すぐ隣の真明寺には芭蕉が石部の茶屋で詠んだ「つつじいけて その陰に干鱈 さく女」の句碑がある。「野ざらし紀行」の句で左書きの珍しい碑だか、
石碑に刻まれた文字はほとんど読めない。

問屋場跡案内板
(高札場跡の向かい)
石部本陣跡 真明寺
芭蕉句碑(石碑)
石部・田楽茶屋 おやき

さらに250m行くと丁字路正面には田楽茶屋の大きな朱色の暖簾が見える。旧東海道は右に行くことになるが、真っ直ぐ進むと、左側奥にに吉御子
神社がある。本殿(重要文化財)は1867年(慶応3年)に京都上賀茂神社の旧本殿を移築したもので、崇徳天皇の創建と伝えられている。
この神社は先ほど参拝した吉姫神社とは対の関係にある。

吉御子神社から旧東海道にもどる前に田楽茶屋で休憩、温かいお茶とおやきで一服・・旅に出てその地での名物を食べるのも一つの楽しみでもある。
一服後は街道を約300m行き、左に曲がる。その先の右側民家の前に木札が立っている。言われてみないと分からない、気付かない・・「一里塚」と
書いてあるがほとんど消えて読めない。その先あたりが京口見附があったと言われ、西縄手へと続く。宿場に入る時に隊列を整えた場所である。


吉御子神社
本殿
石部一里塚跡
西の見付跡 東海道絵図
西縄手案内板

そこで石部宿の町並みと別れる。宮川に沿って西北へ1.2Km行くとJR草津線に出会う、この草津線沿いの道は下道と呼ばれ、草津川の氾濫で一時
通行ができなかった。その当時は五軒茶屋橋を渡り五軒茶屋・灰山経由の上道が使われていた。さらに線路沿いに歩き、田園風景を楽しみながら1Kmほど歩いて行くと、名神高速道路のガード入口に来る。このガード入口が石部町と栗東市の境界になる。

ガードをくぐり、少し行った十字路の右側に、「生涯学習都市宣言のまち 伊勢落」と書かれた大きな立看板に出会う。少し行き展望の開ける所が「栗東
八景・伊勢落青嵐」と言われる場所である。さらに少し行くと右側薬師如来堂前には「上野夜雨」の石碑がある。
静かな町並みを少し歩くと新善光寺道標が右側に立っている。その300m程入った所の新善光寺の立派な山門がある。

国指定重要文化財であり、南北朝時代の秀作である。 本堂御本尊「一光三尊善光寺如来」のほか、慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)作の本造
阿弥陀如来を御内仏に安置している。境内参道脇には青銅製では最大と言われる「仏使の丑(牛)」を見る事ができる。
山門前には「栗東八景・彼岸の繁華」の案内板がある。


栗東八景碑
伊勢落青嵐

薬師如来堂
上野夜雨碑

新善光寺道標
新善光寺山門
栗東八景碑
彼岸の繁華
仏使の丑

新善光寺から200mほど行くと右側に「木造地蔵菩薩地蔵立像」のある福王寺(法界寺)がある。
その先、左側に国指定重要文化財となっている旧和中散本舗の豪商・大角弥右衛門家宅(現在も大角家が居住)がある。
「和中散」とは生薬を粉にした
胃腸薬で、当時の旅人の必需品であった。また徳川家康が腹痛を起こしたときこの薬を飲んだら治ったことから、家康が直々に「和中散」と名付けたとも
いわれている。

新善光寺・本堂 福正寺(法界寺) 旧和中散本舗建物 案内板 玄関 店舗と看板

現在も店舗、製薬場・製薬機などもそのまま保存されている。この建物は寛永年間(1624年~1644年)に建てられたもので、旧東海道にある民家と
しては最大級と言われている。また庭園は滋賀県指定名勝となっている。ご当主の説明を聞きながら建物の中、庭園を拝見する。

天秤秤
話中散本舗看板

石臼
衝立(「玄関) 屏風 襖(山水画)

一部の襖・屏風等は個人では管理ができないので美術館に預けてあるとの話もあり、それは写真で展示されていた。

襖(松に鶴) 襖(花鳥) 上座の間 玉座の間 国宝の襖(写真) 玉座からの庭園

建物のすぐ隣には白壁の塀が建物に沿って造られている。一里塚はここの盛り土あたりとも言われているが、この先の小公園の先に「六地蔵一里塚の
碑」が建っている。


庭園

借景の築山
庭園
屋号・ぜざい

白壁の塀
六地蔵一里塚
民家の軒展示の車輪
肩かえの松

行者堂
里内呉服店 商家・塩谷 稲荷神社案内板

さらに道なりに1.2Kmほど行くと右側に手原行者堂、手原1丁目の交差点を渡った先の右側には里内呉服店、「塩谷」の屋号の下がった旧家が並ん
でいる。JR手原駅前にある手原交差点の左側に面して、稲荷神社がある。講師よりこの手原の地名・神社の由来を聞いた。
東経136度の子午線の通っているJR草津線手原駅で小休止・・この先ももべんがら色に色どられた家並みの美しさに見とれながら歩いて行く。
500mほど歩いた
先の道は直角に左に曲がり、上鈎(まがり)池の堤防が現れる。堤防の中ほどまで歩くと左側に「9代将軍足利義尚公 鈎(まがり)
の陣所ゆかりの地」の石碑と、義尚に関する多数の歌碑がある。堤防の上まで登ると近江富士の姿を遠くに見る事ができる。

室町時代末、権威の落ちた幕府にたてつく近江守護佐々木高頼を攻めるために、1487年(文明19年)足利義尚将軍が出陣し、ここ鈎(まがり)の地
に陣を張った。しかし小競り合いを繰り返し、2年後の陣中で25才の若さで病没してしまうことになる。やはり悲劇の武将なのであろう。
道なりに交通量の激しい狭い道を南西に行くと、正面に高い金勝川の堤防にぶつかる。ここからも近江富士が見える。

稲荷神社・本殿 東経136度・手原駅
道標
鈎の陣所縁の地 上鈎池・近江富士 金勝川・近江富士

この季節としては温かい陽気の天候の中をしばらく歩いていると、シーボルト縁の善性寺で山門で草取りをしていたご住職の話を聞く事ができた。
「袖すりあうも多生の縁・・」寺、街の歴史、シーボルトに係わる話を聞く事ができた。やせ馬坂と呼ばれる緩い坂を登る(と言うほどの坂ではないが)と、
道は堤防に沿って右に直角に曲がった。左側の高い堤防に沿って道は一直線に延びている。この辺から川の名前も金勝川から草津川に変わり、すぐ
そこには栗東市と草津市の境界となり草津市へ入り。民家の庭先に「目川一里塚」の石柱が立っている。

善性寺 やせ馬坂 堤防と道標 目川一里塚
田楽発祥の地碑

目川田楽
古志まや跡碑

街道筋には、こここそ発祥の地であると・・「田楽茶屋跡」の石碑がいくつも立っていた。堤防沿い直角に右に曲がり数分歩いて、さらに直角に左へ曲がり交通量の少ない狭い道を歩いていると、右に「史跡 老牛馬養生所跡」看板と石碑を
見つけた。看板には「この施設は、和迩村榎の庄屋岸岡長右衛門が湖西和迩村の牛場で老廃牛馬の「打はぎ」をしている様子を見て、その残酷さに
驚き、これから老牛馬であっても、息のある間は「打ちはぎ」することはやめようと呼びかけ、天保12年4月に当地が、東海道、中山両道を集約する
草津宿の近くであることから、ここに老牛馬が余生を静かに過させる養生所を設立し、県下の老牛馬を広く収容された」とある。

※打ちはぎとは、殴り殺して皮を剥ぐこと。


京いせや跡碑

史跡
老牛馬養生所跡

高札場跡

草津宿道標
草津川(天井川)
横道常夜灯
(宿場側から)

宿入口となる横道常夜灯の脇を通りそのまま道なりにゆるい坂を下り、500mほど行くとT字路にぶつかる。T字路右角に常夜灯の追分道標があり、
ここが東海道と中山道の分岐点であることを示している。
道はゆるい下り坂で、歩道橋に下に国道1号線が見える。東海道は高い位置にあり天井川の
高さも感じられた。さらに道は分岐し、左手の旧東海道を歩いてしばらく行くと、左に曲がって草津川を渡ると、土手は立派なサイクリングロードになって
いる。


追分道標(常夜灯

高札場
草津歴史街道案内板 草津宿本陣案内板 草津宿本陣 石造り道標案内板

宿入口となる常夜灯の脇を通りそのまま道なりにゆるい坂を下り、500mほど行くとT字路にぶつかる。T字路右角に常夜灯の追分道標があり、ここが
東海道と中山道の分岐点であることを示している。

草津宿は古くから東海道と中山道を結ぶ要衝として重要な役割を果たしていて、この常夜灯も、旅人が道に迷わないようにと安全を祈って、1816年
(文化1年)に江戸、大阪をはじめ全国の飛脚問屋筋の人々の寄進によって建立されたもので、高さは4.45mある。

T字路を右に行くと、隧道をくぐって中山道となる。この隧道上を草津川が流れている。草津川は川底が周囲の地盤より高い天井川で、昔は川を越えて
中山道へ行っていたが、1886年(明治19年)に、トンネル(当時はレンガ造のアーチ型)ができて通行が容易になった。

旧東海道は左に曲がり、公民館前には草津歴史街道の石碑と案内板があってわかりやすく説明している。
道路の反対側には、草津宿本陣があり、表門からは玄関と右側に番所が見える。
建物は参勤交代制が確立した1635年(寛永12年)に設置(田中
七左衛門が材木屋と兼業で経営)され、平成8年に改修されたが、当時とほとんど変わることなく、江戸時代の本陣の実態をよく伝えていて国指定史跡
となっている。

敷地は4,700㎡、建物は建坪468坪、部屋数は39室、268畳で瓦葺の平屋であり、内部は有料で開放されていて貴重な資料も多数残されている。
この本陣には多数の有名人が宿泊していて忠臣蔵の浅野内匠頭長矩と吉良上野介、新撰組の土方歳三、藤堂平助など、シーボルト、皇女和宮、明治
天皇など宿帳で見ることもできる。御簾のある上座、控の間から風呂場、厠と、土間の台所と当時の様子が手に取るようにわかる。
また、当時の関札、明治天皇の使用したもの等が残され展示されている。残念ながら資料館内はほとんど撮影禁止でした。

ここは宿場跡がそのまま商店街通りになっている。左側に市立草津宿街道交流館がある。中には街道の資料や体験コーナー、宿場模型などいろいろ
楽しませてくれるものが多い。またここでは情報通信「街道文化」を発行していて、街道に関するいろいろな専門的な資料、情報を特集で紹介している。
紙はA4版の4ページで、毎年4月、月、12月の回発行しているようである。ここで「中山道」の資料(webアドレス)を貰う。
余談であるが、草津宿の「旅籠屋掟書」には「客引きは1軒から1人・・宿場端までに限る」などと記されているとのこと・・やはり、相当激しい客引合戦が
展開されていたことが伺える。



今日のコースは 北島酒造→家棟川→落合川→吉姫神社→高札場跡→小島本陣跡碑→真明寺→吉御子神社→田楽茶屋→石部一里塚→
 栗東八景→新善光寺→和中散本舗・大角弥右衛門家宅→六地蔵一里塚→稲荷神社→上鈎池→老牛馬養生所跡→善性寺→草津川堤防
 →横道道標→追分道標→草津宿→草津本陣


クラブツーリズム 「街道を歩く 東海道53次 第32回 水口宿~大津」 街道案内人 根津信年 歴史講師


                           2月28日 草津宿
 

 

この地図上の寺社・旧跡、名所等の位置は目安です。
街道地図・現地案内板等で確認してください。
2013. 2.27 甲西~草津宿    歌川広重が描いた東海道53次はこちらでどうぞ
           
 石部目川の里