1月19日(土)

江戸日本橋から坂之下宿まで421.1Km  関宿~坂之下宿間6.5Km

東の箱根と並び称されるほど難所として有名な西の鈴鹿峠をいよいよ越えることになる。
鈴鹿峠は、片山神社から本格的な峠の山道というような感じであったが、国道に分断されたりしていて、ちょっと興がそがれてしまったところもある。

鈴鹿峠越え:古代の鈴鹿越えは、加太川に沿って多くの瀬を渡る、険しい「加太越え」であったが、都の移転で8886年(仁和2年)「阿須波道」と呼ばれた現在の鈴鹿越えが開通し、これによってこの峠一帯の名称が鈴鹿山と呼ばれるようになった。
人馬駄賃(運賃):1611年(慶長16年)、幕府によって街道筋の人馬駄賃の規則が定められたが、坂下宿は気象の変化が激しく、峻険な鈴鹿峠越えを要したため、他の宿場より割高な駄賃が認められた。

関宿の西の入口にあたる西追分の看板が立っている。西の追分は加太峠を越えて伊賀上野・奈良に至る大和街道(現国道25号)との分岐点である。

国道1号線と合流するとすぐ南へ分岐する大和街道あるが、旧東海道は1号線をまっすぐ歩く。
西の追分を出て道路標識には現在の気温2℃の表示・・
右側の駐車場の一角(中央部)に何度片づけても転がりだして元のところに戻ってしまうという伝説の「転び石」がある。フェンスで囲まれ、周りにも花も供えてあり。かなり大きな石で、見方によっては転がりそうな形ではないが・・


西の追分
転び石 鈴鹿川と市ノ瀬橋
路傍の常夜灯
筆捨山 鈴鹿川

約1Km行った地点で1号線と分かれて右の細い道に進み、鈴鹿川にかかる市ノ瀬橋をみて坂之下宿へと進む。右側に鈴鹿川の清流を眺めながら、歩道の雪に滑らないようにないように注意深く歩く。 

山里に入ったような雰囲気のただよう風景となり約1Km歩くと、右手に筆捨山標柱がありその向こうに筆捨山が見える。

この山の名の由来は画聖狩野元信がこの山の景観に惹かれて筆をとったが、激しく変化する天候に追いつけず、ついに筆を投げ捨てた(木の短い人だったのかなぁ~)という、言い伝えからきている。

歩道は・・  
市ノ瀬一里塚
倉掛集落 超泉寺 馬子唄会館
馬子唄

右手に筆捨山を見ながら1号線を200m行き鈴鹿川を渡るとすぐ道は分岐する。右手の道が旧東海道で、ここで1号線と別れる。ここから両側に杉の木が欝蒼と繁った如何にも山道という雰囲気で、鈴鹿峠方面へ緩い登り勾配が続く。しばらく行くと道路右側の電柱脇に市瀬一里塚の石柱が見える。
注意深く歩かないと見落としてしまうだろう。沓掛の集落に入ると田圃は雪に覆われ、先に拡がる鈴鹿の山並みは雪化粧である。
ここで根津講師の新着情報・・この地にある超泉寺は植木等の叔母が嫁いだところで彼もここで修行したと説明があった。緩い上り坂を歩いて行くと、天文台が見え、東海道の宿場を書いた木柱の立っている、右手入ったところに鈴鹿馬子唄会館がある。ここには鈴鹿峠を発祥の地とする鈴鹿馬子唄についての多数の資料が展示されている。

鈴鹿馬子唄がいつころから唄われたか不明であるが、1704年(宝永元年)に出版された「落葉集」には既に登場していると聞いた。鈴鹿馬子唄は馬子唄としては南限と言われている。

三つ子山
自然の家(廃校から)

松屋本陣跡

坂ノ下集落

大竹屋本陣跡

梅屋本陣跡

さらに淡々と1Kmほど歩いていくと、道の左側に松屋本陣跡、大竹屋本陣跡、梅屋本陣跡の碑がそれぞれ立っている。従ってこの辺が坂之下宿の中心地であったということになる。ここの宿は土石流の被害に遭いこの地に移転した。広い通りの町並みに宿場の面影は感じられなかった。

宿場の外れ位置する右側に法案寺がある。ここの玄関は松屋本陣の玄関が移されたものである。

500mほど真っ直ぐ西へ歩くと、ちょうど1号線との合流点の道の右側に岩家十一面観世音菩薩の石碑がある。柵の奥まった階段の上にあるお堂と、清滝という小さな滝(写真にでは判別つかず)が流れる高さ18mの岩窟に、旅人の道中安全を祈り、阿弥陀如来、十一面観音、延命地蔵の三体安置されていると説明があったが中を観ることはできなかった。

法案寺山門 法案寺
小竹家脇本陣跡
岩屋十一面
観世音菩薩

本堂
片山神社参道

国道1号線と合流するとすぐ右側の道に入り、500mほど1号線と並行して歩くと道は右に曲り、片山神社の石碑が立っていて参道となる。参道の先は雪がかなり残っていた。ここで滑り止めを装着・・この「滑り止めは昨日、中村TDが峠の雪の情報を聞き、スポーツ用品店まで案内していただき購入したものである。細かい対応に感謝感謝である。雪の参道を約500m歩いて行くと、片山神社へ辿り着く。

片山神社は坂下宿の氏神であり、峠を守る神様でもある。鈴鹿大明神、鈴鹿権現とも呼ばれ、その縁起は坂上田村麻呂を助けた鈴鹿御前を祀ったともいわれている。本殿は火事で今はない、鳥居の前で参拝し雪道を登る。

神社の前を右に折れて細い山道に入ると、峠の頂上まで約600mある。つづら折で、急勾配の石畳の道は雪で覆われ所々石畳の石が顔を出している。細く急な道が続く。箕の傘に草鞋・・当時の旅人の難儀さは、どれほどであったかを想う・・
黙々と(急な上り坂は静かな歩きとなる)登って行くと国道で遮られ、その下の狭い階段を登って行くと視界が開けて小さな広場に出る。ここに芭蕉の句碑と鈴鹿峠を行き来する馬の水飲み場跡がある。

石段の細い山道に入り300mほど行くと、薄暗い林の中に鈴鹿峠の立札・」案内板に出会う。ここが標高375mの鈴鹿峠の頂上となる。


参道

片山神社

鈴鹿峠へ

峠道
芭蕉句碑
街道の石段

ちなみに立札には、真中に縦書きで鈴鹿峠、右には高畑山、左上には片山神社、左下には土山町と矢印で示されている。
立札の左脇には、鏡岩まで150mの案内板がある。雪に埋もれ、残された足跡と案内板を頼りに鏡岩まで行く。岩を取り巻くようにロープの張られた道があるが積もった雪に岩の頂上からの眺めで引き返す。鏡岩の手前には、三重県指定天然記念物鈴鹿山の鏡岩の標識があり、その奥の切立った崖の頂上で、坂下方面を一望できる位置に鏡岩がある。鈴鹿峠は古代から山賊が多いことでも有名で、峠には山賊(鬼)を退治したという坂上田村麻呂を祀る田村神社跡碑が鏡岩に行く途中ある。鏡岩は珪石が断層によってこすられ、露出面に艶が出たもので、鏡の肌面の大きさは縦2.3m、横2mある。その昔、峠に住む盗賊が街道を通る旅人の姿をこの岩に写して危害を加えたという伝説から、俗称「鬼の姿見」とも言われていた。なお、明治元年の山火事で鏡面の輝きは失われてしまったという。

馬の水飲み場
田村神社跡

鏡岩案内板

鏡岩

峠の道標

万人講大岩常夜灯

海抜375mの鈴鹿峠を越えた先には三重県から滋賀県に入る国境の道標が立っている。案内板から旧東海道を少し歩くと、突然目の前が開けて雪防止を被っている一面お茶畑になる。ここからは滋賀県土山町に入りであり、土山宿へ入ることになる。

峠の林を出て一面お茶畑の平らな道を数分歩くと、右側に高さ5.44m、重さ38トンという巨大な万人講大岩常夜燈がある。

これは今から270年前に四国金毘羅神社の常夜燈として、坂下宿甲賀谷住人300人の奉仕で鈴鹿峠に建てられ、東海道を往来する行商人信者が常夜燈に火を燈し、鈴鹿峠より伊勢の海遥か彼方の四国金毘羅神社に航海と道中の安全を祈ったという。

常夜燈から舗装された山道を800mほど下ると国道1号線と合流する。ここで滑り止めを外す。歩道のある反対側に渡るには横断歩道がないので地下道で渡る。1号線を2Kmほど、ひたすら下って行くと、山中川沿いの方へ右に分岐する道が旧東海道である。

鈴鹿馬子唄碑 山中宿碑
山中一里塚公園

亥鼻村

旅籠・中屋跡

白川神社・椎の巨木

その分岐道のすぐの公園に「坂は照るてる 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」と刻まれた鈴鹿馬子唄碑がある。坂下宿で晴れていても鈴鹿峠では曇り、日本海気候の土山宿は雨というように、鈴鹿峠を境に気象ががらりと変るという意味である。ただ、あいの土山の「あい」の語源は「坂ノ下宿鈴鹿峠と相(あい)対した、間(あい)の宿であった、近年のLOVE(あい)から」の諸説があると根津講師の説明があった。現代の流れではLOVEかな?

旧東海道を500mほど行くと、再度、1号線と合流する。合流点に小さな山中一里塚公園があり、鈴鹿馬子唄之碑と馬子像がある。


蟹が坂古戦場跡

高札場(復元)
海道橋(田村橋)
田村神社・鳥居

田村神社
拝殿

冷たい風の中を1号線をひたすら歩く。右に入る「蟹が坂」の入口にはしいの巨木が聳える白川神社がある。大きな工場脇の坂を下った所に「蟹が坂古戦場跡」の案内板がある。群雄割拠の戦国時代の戦いの場であった。
道の先には大きな森が見える。田村側に架かる真新しい海道橋(田村橋)を渡り、200mほど行くと右側に坂上田村麻呂を祀る田村神社の鳥居がある。
雪に埋もれた砂利の長い参道を歩いて行くと、社務所の奥に鈴鹿峠上から移された真新しい拝殿・殿がある。拝殿の前には故事に由来するものであろうか、巨大な矢が門松に見立てられ立っていた。

坂上田村麻呂は797年(延暦16年)に征夷大将軍に任ぜられ、奥州方面への大和朝廷の勢力拡大に尽力があった人で、811年(弘仁2年)に亡くなった。鈴鹿峠の鬼(山賊)退治の伝説などの他、東北地方にいろいろ伝説を残し、また田村神社として祀っているところも多いと言われている。

田村神社鳥居前から1号線を横断すると、道の駅「あいの土山」である。ここが今日のゴールである。

バスで白子まで移動・・「僕の想いでここまで・・」と謙虚な根津講師とサプライズと中村TDの連携で、鎖国の江戸時代にあって、ロシアに漂流し、単身でエカテリーナ女帝に謁見した男、大黒屋光太夫の強靱な生き様を紹介した「大黒屋光太夫記念館」に立ち寄る・・立ち寄ると言う言葉が「不適切」になるほどの壮絶な男の生き様・道のりを観た。

大黒屋光太夫記念館
光太夫銅像
光太夫遭難から
帰国までの道程
夕方の白子海岸
出航記念碑
夕焼け

彼が出航した海岸にも立ち寄る・・夕焼けを美しく感じたのも「男の浪漫」を感じたからかな・・



今日のコース 西の追分→転び石→筆捨山標柱→市瀬一里塚→沓掛集落・超泉寺→鈴鹿馬子唄会館→坂之下宿・松屋本陣跡・大竹屋本陣跡・梅屋本陣跡法案寺
 
岩家十一面観世音菩薩片山神社→芭蕉句碑・馬の水飲み場跡鈴鹿峠鈴鹿峠鏡岩鬼の姿見)→万人講大岩常夜灯→鈴鹿馬子唄碑→山中一里塚跡→
 白川神社
→蟹が坂古戦場跡→高札場跡→海道橋・田村橋(田村川)→田村神社道の駅「あいの土山」


 クラブツーリズム 「街道を歩く 東海道53次 第31回 亀山宿~水口」 街道案内人 根津信年 歴史講師

                           1月20日 土山宿 

 

Blowin' in the Wind 2013
                          
いっちゃん東海道を歩く・・
坂之下宿
坂之下宿は東海道48番目の宿場で、難所の鈴鹿峠
の東麓にあり旅人で賑わったが明治以降近代交通の発達で徐々に衰退して、現在では数十件の民家があるだけとなった。
なお、坂之下宿は江戸の延20年間亀山藩領であったが、それ以外は幕府領となっていた。
本陣:3軒・脇本陣:1軒、旅籠:48軒
2013. 1.19 西の追分~田村神社    歌川広重が描いた東海道53次はこちらでどうぞ
           
この地図上の寺社・旧跡、名所等の位置は目安です。
街道地図・現地案内板等で確認してください。
坂之下筆捨嶺