今回のスタートは清水区役所支所からである。ここから先は、左手にJR東海道本線、右手に東名高速道路に挟まれた平坦な道を、真っ直ぐ西へ進む。約2Km歩くと東名高速のガード下をくぐ、一つ目の信号で道は分岐し、左手の道が旧東海道である。少し歩くと江戸から39番目の由比一里塚があり、そこから約4分のところで目の前に由比宿の入口である枡型道が現れる。昔宿場の出入り口は枡型に曲げ、木戸が作られ、万が一の攻撃を防ぐなどの治安維持とともに宿の出入り口の道標にもなっていた。現在も昔のままの面影が残っているのは嬉しい(が・・地元の人にとっては不便だろう)。

桜えびの暖簾 格子戸の古民家 左へ・・東海道
新酒ができました

由比一里塚跡石碑

ここを通り過ぎると町並みが始まり、入口のすぐ左側にある家は志田宅(商家)で、家歴も古く昔のたたずまいの面影を残していた。

さらに少しほど歩くと、右にお七里役所跡、由比本陣公園・東海道広重美術館があり、門から入るとときれいな芝生庭園と美術館がある。庭園には本陣跡の表門、物見櫓、木塀などが復元されている。また美術館には、歌川(安藤)広重の「東海道五拾三次之内」「木曾海道六拾九次之内」など大変貴重な版画などが納められていて、一見の価値がある。昼食時間を含めてここではゆっくりと2代目・3代目広重の絵を見ることができた。


一里塚の案内と
日本一の桜えび

由比宿東枡型跡
志田家 お七里役所跡案内板 由比本陣公園

由比本陣公園の門を出た右側の塀に沿って幅広い水路ある。これは馬の水呑み場といい、大名行列の馬に水を呑ましたり身体を洗ったりしたところで、巾1m、深さ60cm、長さ20mあり、寒い最中であったが亀が甲羅干しをしていた。屋敷の前の道路にこのような施設のある本陣は、あまり他に例をみない珍しいものと、説明にあった。

本陣公園前には正雪紺屋の店がある。この紺屋(染物屋)は江戸時代から400年続いているといわれ、屋内には土間に埋められた藍瓶等の染物道具や、天井に吊れれた用心籠は火災等の時に貴重に品を運び出すもので、昔の紺屋の様子を偲ぶことができる。慶安事件で有名な由比正雪はこの紺屋の生まれということで、正雪紺屋の屋号がつけれられたという。本陣跡の通りの両側には、本陣・脇本陣・問屋場、旅籠、茶屋などが置かれていた・・跡の案内板が並んでいる。

広重美術館 正雪紺屋案内板 正雪紺屋 脇本陣羽根ノ屋 加賀問屋場跡

ここで昼食場所で聞いた、由比名産の桜えびを簡単に紹介する「桜えびは駿河湾でしかとれない体長3〜5cmの小さいえびで、漁期は春と秋である。明治時代に漁師が偶然(春と秋の新月の波の無い夜に深海より上がってくる)桜えびを採ったのが最初であった」と聞いた。

 さらにちょっと歩いた左側に弥次・喜多さん(望嶽亭のご主人が書いた色紙の中の弥次・喜多さんに似ている・・)に出会ったような錯覚を覚える人形が光景が飛び込んでくる。さらに数分行くと、由比川にかかる由比川橋を左手にJR東海道線とその向こうに駿河湾を、右手の遠く県道を見ながら渡る。川べりには当時水難事故で無くなった人々を祀る祠に地蔵さま、その脇には案内板がある。川底までは深いが広くない川である。仮橋と水位が高くなると船で渡ると講師の説明があった。

脇本陣饂飩屋 平野氏邸
明治の郵便局跡
弥次喜多人形 渡し場案内板
由比川常夜灯

ここから約20分、道なりに西へ歩くと、JR由比駅手前で県道396号線と合流する。JR由比駅あたりから道は登り勾配になり、100mも歩かないうちに県道と別れて歩道橋を渡り右の細い舗装された道を進む。この道は緩やかな登り勾配でまたここから望嶽亭までの約1.6Km区間に細く深い小川が何箇所もあり、順に寺尾橋、寺尾沢橋、中の沢二号橋、大沢橋、寺沢橋、倉沢橋・・権現橋、名の無い橋がかかっている。いずれも数歩で渡れる小さな橋であるが立派な欄干が造られていた。

せがい造りの民家
懸魚
稲葉家
豊積神社
大イチョウ
由比駅前・桜えび
小池家・庭灯篭

歩道橋から寺尾地区の町並へ入るが、この道巾は昔と変らないと観光ガイドにあった。ところどころに格子戸や蔀戸の古い家を見ることが出来て、街道情緒を感じさせる街道である。さらに道々左側には駿河湾や富士山、愛鷹山などの山並みが見えてとても美しい景色が堪能できる。

歩道橋から約1Km程登ってくると、右側には鞍佐里神社に上る急階段がある。日本武尊東征の途中、薩堙峠で賊の焼き打ちの野火に遭い、馬の鞍の下に隠れた。日本武尊は神明(天照大神)に祈り、難を逃れた。鞍は賊の火矢で焼け燃え落ちてしまったため、この地を「鞍去り」といい、それが訛って現在の地名の「倉沢」になったという。この神社にはその様子を彫った彫り物があった。寺尾区民会館付近が頂上になる。今度は下り坂になりちょっと歩くと右側に寺尾の旧家の小池邸がある。小池家は江戸時代々小池文右衛門を名のり寺尾村の名主を務めた。現在の建物は明治期に建てられ、大戸、くぐり戸、ナマコ壁、石垣等に江戸時代の名主宅の面影を残しているとのこと。なおこの建物は東海道を行き交う人の休息の場として由比町が購入し、提供しているものと奥様の話があった。

名主・小池家 小池家・座敷
大沢橋と街並
格子戸の民家 鞍佐里神社・彫刻

道は再び登りになり、約300m行った街道のはずれに望嶽亭藤屋がある。本来は藤屋という茶屋であったが、ここからの富士山の眺望の眺望が素晴らしいので「望嶽亭」と称されるようになった。根津講師のサプライズにより見学ができた。この屋の奥様(住居は別な所らしい)に室内を案内してもらった。玄関から真っ直ぐ、広間で説明を聞き、そのまま通り抜けて突き当たりの海側の廊下に出る。ガラス窓越しに見る駿河湾と富士山は、屋号通り(字は藤屋だが)素晴らしいものであった。次に廊下を右に行くと突き当たりに頑丈な扉がある。山岡鉄舟を匿ったという土蔵の間に案内された。部屋は10畳程度の畳で正面には書など、左側には鉄舟が置いて行ったというフランス製の10連発ピストルや書、その他、記念のものが沢山飾られていた。
「明治元年3月7日、幕末三舟の一人、山岡鉄舟は危険極まりない大命を持った道中に、官軍に追われる事態が起きた。その逃げ込み先であった、望嶽亭主人の機転で危機を脱することが出来た。当時最新式フランス製十連発のピストルを残し、望嶽亭の蔵屋敷で漁師に変装、隠し階段より脱出し、清水次郎長手配の舟で、徳川幕府終焉の意思伝達を西郷隆盛に伝えたことにより、勝海舟と西郷隆盛の会談が見事、成立して江戸城無血開城が成立、明治新政府誕生後には、明治天皇の侍従を見事に勤めた」と説明があった。思わぬところで時空を超えた体験ができた。
のちに聞いたことだが、山岡鉄舟の懐にあった書簡は、時の大奥の篤姫(私は宮崎あおいのファンです)に託されたものであったそうだ。

望嶽亭 江戸時代より
動いている時計
蔵座敷 隠し階段 隠し階段開けると

奥様の話では今から4代前のおかみさんの時、官軍から追われていた鉄舟をこの土蔵にかくまり、その後清水次郎長に紹介状を書いて漁師に変装させて裏の岩浜から舟で逃がしたとのこと。逃げる時使用した隠し階段は土蔵の入口から入って左の隅にあり、とても急な廻り階段であった。なお土蔵の階は道路からは1階に見えるが、浜側からは2階となる。望嶽亭を出るとすぐ道が分岐していて、右の登り坂道が旧東海道で薩堙峠へ行く道である。登り口の右側に江戸日本橋から40番目の西倉沢一里塚跡碑がある。

ここから峠まで1.2Kkmの標識を見て登り始めるて行くと道の両側に枇杷の木が多数あり、小さな実を付けていた。さらに行くと今度はみかんの木に変った。このように枇杷とみかんが交互に植えられていた。登りながら前方を見ると、清水港が遠くに見えた。

見送ってくれました
西倉沢一里塚跡
薩堙峠
振り返ると・・

さったぢざう

山之神の碑

薩堙峠を登りながら、峠にたどりついた時にも絶景を堪能・・峠には薩堙地蔵道標大小2本あり、左の大きい方は「さったぢざう」、小さい右の方は「さったぢぞうミち」「延享元甲子年六月吉日」と刻印がある。

正面の駿河湾の左手を見ると、19日から20日に降った雪できれいに雪化粧した富士山と講師に尋ね聞いた愛鷹山の姿が見えた。眼下には海岸との狭いスペースにJR東海道線、国道一号線、東名高速の美しい曲線が見えた。頂上付近には北風に流された雲が吹き流しのように流れていた。一期一会の風景であった。また、ここには薩堙山合戦の説明板がある。それによるとここで2度合戦があり、「一度目は1351年(観応2年)で室町幕府を開いた足利尊氏と、弟の直義の兄弟による戦いで、ここで山岳戦をして直義軍が敗退した。2度目は1568年(永禄11年)駿河に侵攻した武田信玄を、今川氏真が討つべく薩堙峠で戦ったが敗退した。」とある。

薩堙(さった)峠:鎌倉時代に由比倉沢の海中から網にかかって引きあがられた薩堙地蔵をこの山に祀ったので、それ以降薩堙山と呼ばれている。上代には岩城山と称し万葉集にも詠まれている。この山に道が開けたのは1655年(明暦元年)年朝鮮使節を迎えるためで、それ以前の東海道は崖下の海岸を波の寄せて引く間合を見て岩伝いに駆け抜ける「親知らず子知らず」の難所であった。

峠の道は大名行列も通ったので、道幅は現存よりも広く4m以上あったとガイドにある。現在のように海岸の道を通れるようになったのは、安政の大地震(1854年)で、地盤が隆起した結果と説明にあり、望嶽亭の奥様の話にもあった。

薩堙峠より 薩堙峠展望台より 河津桜 海岸寺
擬宝珠?

峠を後にして少し歩くと、道は3つに別れる。旧東海道はこの駐車場を横断して行くと話があったが、講師の案内で峠の石碑の右側の駐車場のはずれから下る。駐車場内の右奥隅のコーナーは展望台になっていて、薩堙峠山之神遺跡碑が建っている。これは薩堙峠付近の山畑開墾の際に祀られた山神を昭和7年に他へ遷座したので、遺跡地に記念碑として建てたもとの事。展望台の脇の階段を下りて、2m巾程度の砂利の山道を道なりに下って行くとパンフレットに出てくる薩堙峠の展望台に出る。峠を下ると国道1号線の側道(旧の国道1号?)に出る。突き当りを右に曲がり200m程行くと「海岸寺」に登る階段の参道がある、百羅漢が本堂内にあると言われたが留守で見ることはできなかった。
興津川に架かる橋を渡り左に入ると旧街道になる突き当りを右に見ると渡し場の跡となる、興津側も仮橋と舟との併用であった。興津の街に入り、興津中町の信号を100m程行くと平安中期に創建され、海上渡航の守護神である「女体の森・宗像神社」の石碑と鳥居がある。江戸時代に弁天信仰と結びつき、境内の池は「弁天池」、森は女体の森と呼ばれている。


宗像神社
宗像神社・本殿
千木の形が左右違う
山門と松
身延参道と髭題目

興津一里塚跡

右手に郵便局を見て進んで行くと、右側に身延山道道標とともに大きな題目碑がある。明治時代に廃寺となった石塔寺の門前にあったもので、題目碑の高さは3m程もあるように見え、また南無妙法蓮華経の文字を日蓮宗独特のヒゲのように跳ねて書いてあることから、髭題目と呼ばれている。 さらにその先の右の民家脇には、江戸から41里の興津一里塚跡碑がある。 コンビニを左手に眺め、碑も西に傾いた西に傾いた16時30分に予定通り興津駅にゴールした。



今日のコースは 清水区役所支所→由比一里塚→由比宿入口・木戸跡→志田宅→由比本陣公園→東海道広重美術館・馬の水飲み場→正雪紺屋→由比川・
  脇本陣・問屋場・(明治の郵便局跡)旅籠・茶屋跡→由比橋→  寺尾橋・寺尾沢橋・中ノ沢2号橋・大澤橋・寺沢橋・権現橋→古民家→名主・小池邸→
  鞍佐里  神社→脇本陣柏屋跡→望嶽亭藤屋・西の倉沢一里塚跡→薩堙  地蔵道道標→薩堙峠・山之神遺構碑→薩堙合戦の碑(案内板)→展望台
  →海岸寺→興津川(興津橋)→宗像神社→身延道入口石碑→興津一里塚

 クラブツーリズム 「街道を歩く 東海道53次 第18回 蒲原〜由比宿」 街道案内人 根津信年 歴史講師

Blowin' in the Wind 2012
                          
いっちゃん東海道を歩く・・
2012. 1.27 蒲原〜由比宿    歌川広重が描いた東海道53次はこちらでどうぞ
            今回は大失敗をした・・カメラの設定が25日の設定のまま撮影したので風景写真の色が飛んでしまった。
            
秋野講師の格言「撮影前には必ずカメラの設定チェックをする」
由比宿:由比宿は鎌倉時代から湯居の名で知られた古い宿である。由比宿は海と山に狭められた海岸沿いのコンパクトにまとまった、小さなのどかな宿で、現在でもひなびた風情を味わうことができた。
由比名物・桜えび天丼
 由比港の桜えびの水揚げ高は日本一で、町最大の産物となっている。桜エビ漁は年2回・・
毎年5月には桜えび祭りが開かれ、昔は製塩なども行われていた。
本陣:1軒、脇本陣:1軒、旅籠:32軒
桜えび