Blowin' in the Wind 2012
                          
いっちゃん東海道を歩く・・
足神社の境内から左に抜けて旧東海道の戻り北西に歩くと、すぐJR飯田線の踏切を横断する。その直後の右側に秋葉神社と常夜燈の祠がある。
住宅街を通り約1.2Km歩くと道路の右に江戸より75里の伊那一里塚跡標示があり、ここから600mほど行くと佐奈川がある。佐奈川にかかる佐奈橋を渡るとそこは小坂井町と豊川市の境で、ここから御油宿へ向かうことになる


江戸日本橋から御油宿まで298m、 吉田宿~御油宿間10.2

御油宿:御油という珍しい地名の語源は、持統天皇が近くの宮路山に行幸されたとき、油を献上したという伝説に由来するという。江戸から35番目の宿場で見付宿(磐田市)を結ぶ姫街道の起点の追分宿としても栄えた。隣の赤坂宿とはわずか1.7Kkmの近い距離であったため、ここに泊まらせようと大勢の客引き女が必死に客の袖を引いた。1843年(天保14年)の宿の住人は男が560人に対して、女が730人と多く、これは飯盛り女(旅籠で旅人の寝食を世話をする女性)が多かったことを示し、最盛期は300人もいたという。東林寺には旅籠の主人たちが建てた、世をはかなんで死んでいった飯盛り女の菩提を弔った墓がある。
本陣:2軒、脇本陣:0軒、旅籠:64軒

 

佐奈川にかかる佐奈橋を渡り豊川市に入ると右手に国道1号線、左手に名鉄名古屋本線に挟まれた形で北西へ約2km進むと、左に曲がってきた1号線に出る。旧東海道はこの1号線を横断して進むのであるが、現在通行できないので合流して300mほど歩いたところで、名鉄名古屋本線を跨線橋で渡ることになるが、現場はとてもわかりにくい、跨線橋を渡り1号線を約600m行くと道は分岐して、旧東海道は1号線と別れて左手に入る。


鞘堂


立場茶屋跡

伊那一里塚
伊那一里塚 街道分断される
旧東海道

分岐した直後の左側に洒落た感じのKOBANがある。交番を過ぎると国府の商店街となり、歩いて行くと右側に半僧坊大権現の社、1800年(完成2年)に建立された205cm高さの立派な「秋葉山常夜燈」「薬師瑠璃光如来薬師堂」ある。

商店街を800mほど進むと、右に大社神社があり、その先の右に江戸日本橋から76里の一里塚標示がある。さらに進むと十字路があり横断した右角に、旧東海道と姫街道(本坂越)の追分道標と秋葉常夜燈がある。常夜燈には「左ほうらいじ道」、石標には「秋葉山三尺坊大権現道」と記されている。いわゆる姫街道とは見付宿からここまでの61.4Kmに渡る、いわば旧東海道のバイパス道路で、新居関所の念入りな身体検査を避けたい女性たちが歩いた街道である。


大社神社

大社神社・石塀

御油一里塚

御油一里塚
追分
常夜灯・道標

商店街を出ると、音羽川にかかる御油橋を渡る。橋を渡るとそこは御油宿の町並みであり、連格子をつけた低い二階建ての旧家が軒を連ね、昔の面影を残している町並みをみせてくれる。空き地と公園(高札場跡)が斜向かいに向き合った変形の十字路を右折するが、その角にベルツ花夫人ゆかりの地の看板があり、ここはベルツ博士に「花のように美しいと愛された」妻、花(本名:荒井はつ)の実家跡である。

花は日本人として国際社会で活躍した先駆者の一人である。明治9年にドイツから招かれたベルツ博士は日本の近代医学の祖と言われた人で、花はベルツ博士と結婚して博士の帰国とともに花もドイツに渡った、博士が亡くなったあとの大正11年に日本の父の実家である、この地に戻り、博士と娘の菩提を弔った。昨日、登った岩屋観音の鎖場の鎖は、この花婦人が寄贈したものと根津講師からの説明(昨日の岩屋観音での明日話しますとの約束)があった。花夫人の看板から右折してすぐに「問屋場跡」がある・・?がない。十字路先の公民館を入った松並木資料館で聞くと、数日前に壊れ撤去されていたとの事である。その先には問屋場跡があるが、当日は壊れて跡の案内板はなかった。

松並木資料館は小規模だが当時の並木の様子・歴史、生活用品が展示され、館長さんの話を聞き、松並木を歩くと、また、感慨深いものもある。これも根津講師のサプライズである。

姫街道 御油の街並木
ベルツ夫人ゆかりの地
高札場跡
問屋場跡
本陣跡

街道に戻り「みそ・しょうゆの看板」の店があり建物は現代風であるが何か由緒がありそうである。

道の反対側には本陣跡標示がある。その先を左に入ると飯盛り女の墓のある東林寺がある。「飯盛り女=遊女」の話を、この先、赤坂宿にある大橋屋さんのご主人から聞いた。

500mほど進んで行くと松並木の入口になり、ここは御油松並木(クリック)天然記念物の標識がある。1604年(慶長9年)から徳川家康が約650本の三河黒松を植樹させたもので、箱根の杉並とともに東海道随一の景観を誇っている。松並木を歩くとやはり他の東海道の松並木とは違う感触を受けた。

是非この松並木をゆっくりと歩かれることをお勧めしたい。雨ではあったが雨の松並木の情緒もいいものだった。
約600mの長さの松並木を過ぎると豊川市から音羽町になり、赤坂宿になる。

東林寺 飯盛女の墓
御油松並木

赤坂見付跡


江戸日本橋から赤坂宿まで299.7Km 御油宿~赤坂宿間1.7Km

赤坂宿:御油宿とは宿中心でわずか1.7Km、宿のはずれでは600m程度しか離れていない東海道でもっとも宿駅間が短かった。宿の長さは約900mで歓楽街としても有名であった。御油宿との客の奪い合いが壮烈で昼間から派手な化粧と着物を着た女性が客引きをし、旅籠からは管弦の音色が耐えることがなかったという。1733年(享保18年)には家数400軒のうち83軒が旅籠であったが、旅籠の実態は宿というより娼家に近いと言われている。この歓楽街には旅人だけでなく近郷近在から遊びに来る人も多かった。大橋屋のご主人の「女性が多いなか、話をするのもと・・「御油や赤坂、吉田がなけりゃ、親に勘当うけやせぬ」が当時の流行唄を紹介してくれた。1709年(宝永6年)の大火災で宿場の大半が焼けた後、この歓楽街は復旧されることはなかった。
本陣:3軒、脇本陣:1軒、旅籠:62軒

御油の松並木を出ると左手の高いところに音羽町の看板があり、ここが豊川市と音羽町の境となり赤坂宿へ入ることになる。100mほど行くと右角に見付宿跡の案内板がある。見附跡から歩いて行くと町並みが前方に見え、ところどころには旧家の建物がある。

しばら行くと、左側に関川神社がある。1001年(長保3年)赤坂の長者宮道弥太次郎長富が楠の陰に建立した神社で、その楠は今でも境内にそびえている。樹齢約800年、幹周り7.29m、高さ25.7mで天然記念物に指定されている。境内には芭蕉の句碑「夏の月 御油より出でて 赤坂や」があるが、この碑は明治26年に再建されたもの。


赤坂宿街並

関川神社・芭蕉句碑
尾崎屋
問屋場跡案内板
本陣跡 高札場

さらに進んでいくと右側に問屋場跡のハンガーサインがある。道の反対側には本陣跡の標示がある。その先の右側に、軒下に「曲物製造卸問屋」の看板をかかげた尾崎屋の昔の面影を残す建物がある。現在でも、檜や杉の薄い板を曲げて作る盆や桶などの曲物が売られている。道の反対側には、赤坂薬師と石像百観音の霊場として有名な浄泉寺があり、1776年(安永5年)に再建された本堂には阿弥陀如来が安置されている。また境内には道路拡張で往時の旅籠、大橋屋の庭から移植された蘇鉄がある。この蘇鉄は広重の東海道53次・赤坂宿にも画かれたもので、樹齢約260年、樹高3m、幹周り4.6mの見事なものである。

淨泉寺 大橋屋からの蘇鉄 境内 大橋屋 大橋屋正面 案内板

さらに先の左には、江戸時代の赤坂宿のたたずまいに殆ど近い形で今に残している旅籠大橋屋(クリック)がある。1649年(慶安2年)創業で19代続く老舗で、現存の建物は1716年(正徳6年)頃に建てられたもので、間口9間、奥行23間ある。現在も現役で、一軒残る「大橋屋」さんは、夕暮れにもなると、正面にさえている「御宿所」と書かれた古い提灯に光が灯るという。

昼食前にご主人の話を聞く・・ご当地の訛りが入り、年季の入った話しには趣があり、宿場・宿の様子、当時の客引きの様子など手に取るようにできた。2階の客間の案内、説明には当時にタイムスリップした様な臨場感があり歴史の面白さを、また、知る事が出来た。大橋屋さんの2階は時代劇のセット見間違うほど良く保存されている。ぜひとも見ておくべきである。
廊下脇の坪庭の南北朝時代の灯篭も必見であり、この庭の先にあった蘇鉄が浄泉寺で見たものである。ここ、大橋屋さんでいただいた、昼食は贅を尽くした「とろろ汁定食」とろろは自然薯、煮物、おひたし、香の物と汁碗でした。


今日のコースは 莵足神社→鞘堂→伊那立場跡→迦具土神社→佐奈橋半僧坊大権現の社大社神社御油一里塚姫街道追分道標・秋葉常夜燈
 
御油橋ベルツ花夫人旧宅跡・高札場跡→問屋場跡→松並木資料館→本陣跡→東林寺→御油松並木
→赤坂見付跡→問屋場跡→淨泉寺→大橋屋

クラブツーリズム 「街道を歩く 東海道53次 第27回 舞阪~御油宿」 街道案内人 根津信年 歴史講師

この地図上の寺社・旧跡、名所等の位置は目安です。
街道地図・現地案内板等で確認してください。
2012. 9.23 吉田宿~御油宿    歌川広重が描いた東海道53次はこちらでどうぞ
           
 御油旅人留女