昨日のゴール地点から約1m歩くと左側の神鋼電機工場の建物を過ぎたところで道は分岐し、1号線左側には「二川宿右へ」の案内板が見える。
旧東海道は右へ行き東海道新幹線のガード下を潜る。ガード下から約150m歩いて梅田川にかかる筋違橋を渡り、続いてJR東海道本線の踏切を横断して左折して100mほど行った右に、江戸から72里の二「川一里塚跡標柱「と「二川宿観光案内所」がある。

1号線(二川宿へ) 新幹線ガード、右へ 梅田川(筋違)橋 二川宿案内板 二川宿街並 一里塚・観光案内所

一里塚辺りから二川宿に入り、現在の豊橋市二川町の町並みの人通りは少ないが、狭い道路を車が行き交っていた。町並みは東海道新幹線、東海道本線と平行にある。宿場に入ると右に日蓮宗の妙泉寺がある。山門を入った境内の左側には1798年(寛政10年)建立の芭蕉句碑があり、「芭蕉翁 阿ちさゐや 藪を小庭の 別座敷」と言う句と、世話人である二川宿の俳人9人の名が刻まれている。


一里塚
観光案内所 街道の旧家 妙泉寺 芭蕉歌碑 暖簾と竹花瓶

その先の右奥には二川八幡神社が見える。1295年(永仁3年)鎌倉鶴ヶ岡八幡宮から勧請したと伝えられる二川の氏神で、境内には1809年(文化6年)建立の秋葉山常夜燈がある。町には旅籠、商家の東駒屋・西駒屋など江戸時代の面影を残している建物も、所々に見ることができる。

二川八幡神社から200m行くと、右に東問屋跡標示がある。そのすぐ先の右の民家の庭に、松坂家脇本陣跡掲示があり、道を挟んで反対側には、豊橋市二川宿本陣資料館(クリック)がある。二川宿は小宿場で旅人の宿泊も少なく経営的にも苦しく、また、火災などもあり、本陣役は当初は後藤家であったが、紅林家そして馬場家と交代した。馬場家も質屋、紙細工内職、寺子屋などの多角経営でようやく本陣を支え1805年(文化4年)から60年間勤めた。


二川八幡神社鳥居
二川八幡神社
灯篭

稲荷神社

釣瓶井戸
東駒屋

その後、昭和60年に馬場家から豊橋市に建物が寄贈され、昭和63年に江戸時代の姿に整備復元されて資料館となっている。敷地内には1716~1818年に建築された表門、母屋、玄関、土蔵などが当時のまま残っている。本陣は、間口32m、敷地面積1,733㎡、建5988㎡と宿内一の建物であった。資料館の敷地には高札場が復元されている。さらに行くと右に西問屋跡標示がある。宿のはずれにくると右手奥に大岩神明社がある。文武天皇2年(698年)に岩屋山南に勧請したのが最初といわれ、その後、数回の遷宮ののちこの地に移ったもので、境内には1751(寛延4年)の燈籠、1807年(文化4年)の秋葉山常夜燈、1823年(文政6年)の手水鉢がある。

二川宿本陣資料館 二川本陣 高札場(復元) 西駒屋
高札場跡

西問屋場跡

宿場を出て少し行くと左手に瀟洒なJR二川駅が見える。しかし、地方の多くの駅と同じように現在は、駅前商店街の賑やかさも電車の本数も乗降客も見えない。駅構内のロータリーに、岩屋八丁道標がある。この辺から道は東海道新幹線と別れ、その先には立派な石柱に「伊良胡阿志両神社 右東海道」と刻まれた道標が建っている。左方向へ進み、岩屋観音を目指す。火打坂を上がって行く。


大岩町郷蔵跡

立場茶屋跡
JR二川駅
八丁岩屋道標

道標

岩屋観音

岩屋観音を目指す。岩山の上には、東海道を往来する旅人たちの信仰を集めたといわれている岩屋観音が間近に見えてくる。岩屋山頂の聖観音立像は明和2年(1765年)に建立されたが太平洋戦争中に供出されてしまい、現在のものは昭和25年(1950年)に再建されたものと説明があった。火打坂を登って行く、約800m上ると社務所と本堂があり、その先には岩屋があった。さほど深くはない岩屋だった。一服後、急峻な岩場を登る、羅漢であろうか?岩場にはたくさんの石仏が並んでいる。山の頂に立つという事は気持ちがいい・・根津講師に記念写真を撮ってもらう。今回の参加者の中にはかなりの高齢の方がいた。岩場を見て尻ごみをしたかもしれないが、講師と共に参加者に励まされ頂上まで登った。
きっと忘れられない街道歩きのステージとなった事と思う。


岩屋観音(頂上)

頂上から
松並木跡(切株)
飯村一里塚

岩屋観音駐車場からバス移動。そばどころ信州庵で「そば定食」の昼食。

約800m上り(岩屋観音駐車場からバス移動)、そばどころ信州庵の先から左折するのが旧東海道であるが、ガーデンガーデン花屋の敷地(駐車場)を通り抜ける。その先、道は北西へ下り坂になり快晴のもと順調に歩いて行くと、姿かたちの良い松の木が高師原口バス停の所にあった。ゆるい下り坂を延々と歩く。左折してから約2.4K歩くと柳生川にかかる殿田橋を渡る。渡るとすぐ左に江戸日本橋から73里の飯村一里塚跡標柱がある。一里塚跡を過ぎると道は1号線と合流し、吉田宿へと向かう。

江戸日本橋から吉田宿まで287.8Km 二川宿~吉田宿間6.1Km
吉田宿:吉田周辺は鎌倉時代から東海道の交通の要所として栄え、豊川河口に今橋が架けれられて、町の名前も今橋となった。その後「今橋」は「忌まわしい」させて縁起が悪いということで、1600年(慶長5年)城主池田照政の時に縁起のよい「吉」の一字をつけて吉田と改名した。
明治2年に豊川に架かる橋も名前をとって豊橋と3度目の改名をした町である。吉田宿はもともと城下町であったが、城地整備の途中で池田照政が姫路へ移封されたため、その後の大名たちは少録でその力もなく、明治まで城地は未整備のままになったしまった。
本陣2軒  脇本陣:1軒 旅籠:65軒


殿田橋を渡るとすぐ1号線と合流し、ほぼ一直線に北西に歩いて行くと伝馬町、瓦町など当時の名残の町名があらわれ約2.5Kmのところで、5差路の東八丁交差点に出る。この辺からが吉田宿となるようである。

交差点の歩道橋に上がると交差点に大きな秋葉山常夜燈が見える。歩道橋からは1号線と別れて一番手前の道に降り、もちや店の前に復元(縮小されたレプリカ)された東総門を通ってすぐ右に入り、保険事務所のところで左折し城下町特有の曲がり角の多い道の住宅地を進む。再度、右折して500mほど直進すると、楠が植えられた中央分離帯に史跡「曲尺手(かねんて)門」の石碑がある。曲尺手門は吉田城内への入口の一つでここから右折して300mほど北に進むと豊川に面して吉田城址のある豊橋公園に出る。公園の前にはハリストス正協会大聖堂、スパニッシュ・コロニアム・リバイバルと言う建築様式の豊橋市公会堂と歴史的建造物がある。


秋葉灯篭
市電が走る 東総門(レプリカ)
曲尺門跡

ハリトリス教会
豊橋市公会堂

根津講師の案内で豊橋市役所13階展望室から吉田宿を展望する。サプライズである。北西に豊橋、北方向に吉田大橋、直下の豊川は豊橋公園の北側で大きく曲がっている。東側は豊橋公園直下に吉田城・・高い所からの展望で、この城下町の成立ちがよく分かった。ボランティアガイドさんによる石垣の説明、城の歴史、復元された鉄(くろがね)櫓の説明を聞いた。


豊橋公園三の丸入口
先:豊橋
手前:吉田大橋
石垣
隅櫓(鉄櫓)
石垣

吉田城:1506年(永正2年)牧野古白により築城された。以来、東三河の要衝として今川、武田、徳川らの武将の攻防を経て、1590年(天正18年)に池田照政(のちに輝政)が入封した。照政は禄高に見合う城地の整備拡張を行ったが、在城10年で姫路に移封されたのちは入封した大名は少禄であったため、城地は未完成のまま明治に至った。

市役所前の道路を挟んだ反対側には「手筒花火」発祥の地と言われる吉田神社がある。境内には立派な石碑があり、参道は花火の火薬の影響で赤く染まっている。約500m北西には湊神明社があり、境内の池の中央には弁天社があり、芭蕉句の刻まれた旅寝塚がある。国道1号線に出る。西八丁交差点のひとつ先の交差点が旧東海道でNTT西日本の建物あたりが問屋場跡である。交差点右折して右にある鰻屋(丸よ)の店の前に吉田宿本陣跡石碑がある。また道路の反対側の斜向かいには脇本陣跡石碑がある。さらに西へ約300m直進し、北へ進み23号殿の交差点右斜向かいには西総門(復元縮小されたレプリカ)が建っている。150mほど行って豊川手前で左折すると、豊橋に出る。

吉田神社
手筒花火の碑

手筒花火

本陣跡碑
本陣跡(うなぎ屋)
脇本陣跡

昔はここから70m下流に吉田大橋がかかっていて幕府直結轄の五大橋の一つであった。


西総門(レプリカ)

秋(銀杏)
湊(神明社) 弁天堂

芭蕉句碑
豊橋から吉田大橋

橋を渡ると大きな通りと別れ、すぐ左折して豊川沿いの道が旧東海道になる。橋から300mほど歩いた右手に幼稚園と隣接して聖眼寺がある。境内には松葉塚があり、古碑松葉塚、1769年(明和6年)再建松葉塚および古碑松葉塚の所在を占示す1754年(宝暦4年)の標石がある。古碑松葉塚に刻まれた「ごを焼きて 手拭あぶる 寒さかな」句は、1687年松尾芭蕉が愛弟子の杜国の身を案じて渥美郡保美の里を訪れる途中、この寺に立ち寄り詠んだものである。なお「ご」(松の枯葉という意味)から、松葉塚と呼ばれている。

聖眼寺 芭蕉句碑
下地一里塚
旧商家    
瓜郷遺跡

すぐその先に「下地一里塚」の跡碑が建っている。下地の家並みの旧家は連格子、低い二階屋根と塀のある旧家で江戸時代は燈油を造って商いをしていたという。この辺は戦災を免れたため、その先も旧家の家並みが続いていている。町並を出て500mほど歩くと、右側道の足元に「史蹟境界」と書かれた小さな標示石があり、そこから右折して細い道に入り100mほど行くと左側の公園の中に瓜郷遺跡がある。低湿地に囲まれた自然の堤防の上に立地する1700~2000年前の弥生時代の集落で、昭和22~27年の発掘調査が行われ土器、石器、木製農具などが出土した。三角形の建物は弥生時代の竪穴住居を復元したのもで、大きさは東西5.8m、南北3.5mの楕円形になっている。この瓜郷遺跡は唐古遺跡(奈良県)、登呂遺跡(静岡県)とともに低湿地遺跡として全国的に有名とのこと。瓜郷遺跡から戻り淡々と歩いていると、我々のバスが駐車している。広場と奥に建物がある魚市場であった。

莵足神社 拝殿の大兎 賽銭箱にも
スに乗車、足神社に向かう。豊橋市と小坂井町にある、豊川放水路にかかる高橋に来る。ここから小坂井市に入る。この橋には歩道がなく、また交通量も多いので橋を渡ってゆるい下り坂を200mほど行くと、右に数本の木に囲まれて「子だが橋碑」を車窓から確認する。1000年前、足神社には人身御供があり大祭初日にこの街道を最初に通る若い女性を生贄にする風習があった。ある時生贄を捕らえに来ていた役目の人の前に現れたのは、なんと出稼ぎに行った自分の娘であり、故郷の祭礼と父母に会うことを楽しみに胸に秘めてようやく朝早く橋の上までたどりついたのであった。その男は悩んだが神の威光の前に「我が子だが、やむを得ん」と生贄にして神に奉った。それから「子だが橋」と呼ぶようになった。現在は足神社では12羽の雀を生贄にしているという。現在は雀12羽を供えている。何故12羽なのだろうか?



今日のコースは 一里山一里塚地先(コンビニ)→新幹線ガード→筋違橋二川一里塚跡二川宿妙泉寺・芭蕉句碑二川八幡神社・秋葉山常夜燈
 →旧家・旅籠・
東駒屋東問屋跡松坂家脇本陣跡二川宿本陣資料館高札場西問屋跡→立場茶屋跡→岩屋八丁道標火打坂→岩屋緑地
 →岩屋観音→(バス移動旧街道・火打坂上へ)そば処→松並木跡
殿田橋飯村一里塚跡殿田橋
→秋葉常夜灯→東総門→曲尺手門跡→ハリトリス教会
 →豊橋公会堂→豊橋公園三の丸→豊橋市役所→吉田城址・石垣・鉄櫓→吉田神社→湊神明社→吉田宿本陣跡・脇本陣跡→西総門跡→豊橋→聖眼寺→
 瓜郷遺跡→(豊橋魚市場バス移動→子だが橋碑(車窓から)→莵足神社

クラブツーリズム 「街道を歩く 東海道53次 第27回 舞阪~御油宿」 街道案内人 根津信年 歴史講師

                                 9月22日 御油宿へ

Blowin' in the Wind 2012
                          
いっちゃん東海道を歩く・・
この地図上の寺社・旧跡、名所等の位置は目安です。
街道地図・現地案内板等で確認してください。
 吉田豊川橋
2012. 9.22 二川宿~吉田宿    歌川広重が描いた東海道53次はこちらでどうぞ
           
 二川猿ヶ馬場