江戸日本橋から新居宿まで269.4Km 舞坂宿~新居宿間5.6    

浜名湖を渡って新居関所跡までは現在は道路であるが昔は湖であったところで、関所跡から旧東海道となる。

新居宿:宿は浜名湖の今切渡船の独占的運営権と新居関所で代表される。今切渡船の独占的運営権は浜松に居城を移した徳川家康が、1574年(天正2年)に新居宿の船守に対して与えたもので、これにより新居宿の財政が潤うことになった。ただその結果運営権が剥奪された舞坂宿との争いごとが絶えず、宿内でも渡船業務を支配する問屋と庄屋の勢力争いの紛争が起き、双方の宿場の交流はほとんどなかったと言われる。

本陣:3軒、脇本陣:0軒、旅籠:26軒

「いりき」で鰻の昼食。浜名湖での昼食は「鰻」がいちばんのご馳走である。昼食後は新居町駅でバスを降りる。国道1号線を進んで行くと、新居関所跡(クリック)の一角に、舞浜宿との渡船の船着場跡がある。「今切の関所」とも呼ばれ、全国で唯一現存する関所建物で、2度の大地震の津波で移転、安政の大地震で倒壊、4度目の建築された建物と説明があった。

1600年(慶長5年)に設置され、「特に入り鉄砲に出女」を厳重に取り締まった。また江戸へ向かう入り女の取締りも行われていた。新居関所での厳しい取締り避けるため浜名湖の北岸を超える「本坂越え」を通る旅人も多かった。なおこの本坂越えは、新居関所で頭からつま先まで調べられることを嫌った婦女子の通行が多かったので、別名「姫街道」と呼ばれていた。ただここにも気賀関所がおかれて取締りが行われていた。

関所と資料館には、当時の様子を伝えるものが多く残されていた。

新居関所 正面から 関所・船着場(復元) 関所門と検め場所 関所全景
手形(実物)
旅籠・紀伊国屋

関所跡の斜向かいには、旅籠紀伊国屋(現在は資料館)がある。道なり西へ約100m行くとT字路になり、手前の右に疋田弥五郎本陣跡がある。T字路を左折するとすぐ右に、飯田武兵衛本陣跡石碑がある。その左隣には疋田八郎兵衛本陣跡石碑があり、丁字路のコーナーに3つの本陣が揃っている。

そのまま南へ少し行くと、右に寄馬跡の石碑がある。宿場では公用荷物や公用旅行者のために人馬を提供する義務があり、東海道の宿場では常に100人の人足と100疋の馬を用意していた。ただ交通量が多い場合は助郷制度といって付近の村々から人馬を寄集めて不足を補っていた。こうして寄集められた人馬のたまり場が寄馬所と呼ばれていた。


本陣跡

本陣跡

寄馬場跡

棒鼻跡

風炉の井戸案内板
風炉の井戸

T字路から600mほどの左に、新居一里塚跡碑がある。その先のT字路を右折し100m行くと右に、棒鼻跡石碑がある。棒鼻とは宿場の外れをいい、道の両側より土塁が突き出ていて一度に大勢が通れないようにしてあった。棒鼻跡で道はまたT字路になるので左折して、約200m南下すると橋本交差点信号のある1号線合流する。合流してすぐ左には源頼朝が茶の湯に使用したと言われる「風炉の井」があり、150mほど行ったところに教恩寺がある。

1300年(正安2年)創建で、境内のイチョウの木は幹周り4.3m、樹高17.55mで樹齢450年といわれる大きな木である。道なりに1号線を左にして平行に進んでいくと、東海道は田園風景と松並木が続くのどかで快適であった。この松は近年植えられたものである。

右・旧東海道
紅葉寺跡
松並木 藤原為家・阿仏尼歌碑
立場跡

一里塚・高札場跡

約1Km続くこの松並木の途中に、藤原為家・阿仏尼の歌碑がある。「風わたる濱名の橋の夕しほにさされてのぼるあまの釣船」前大納言為家、「わがためや浪もたかしの浜ならん袖の湊の浪はやすまで」阿仏尼と刻まれている。
為家は、中世の歌人、藤原定家の次男で「続古今」の選者であり、阿仏尼は為家の側室で「十六夜日記」の作者である。松並木の終わりに、立場跡石碑がある。江戸時代は東海道の各所に設けられていた。この立場は新居宿と白須賀宿の中間にある。立場では旅人を見ると湯茶をすすめたので、ある殿様が

「立場、立場で水飲め飲めと鮒は金魚じゃあるまいに」と戯れ歌を詠んだという話が残っている。
この先からは道も細くなり、民家が立ち並ぶ中を600mほど行くと、新居町と湖西市の境界となり白須賀宿へ向かう。
 

遠州灘沿いに走っている国道1号線と平行に
旧東海道を西へ歩き、新居町と湖西市の境界に
なる。境界の町は新町で、そこから道なりに約1.1Km
行くと元町の民家の前に右に「元白須賀一里塚跡」左に
「高札場跡」の標示板が並んでいる。旧道石碑をに500mほど
行くと右手奥に蔵法院の山門が見える。蔵法院は宗眠によって
1598年(慶長8年)に開山され以来、現在まで法灯は絶えることなく
続いている。
寺の本尊は約58cmの木造観世音像で、1654年(承応3年)に漁師の
網にかかって引き上げられたものであるという。その先200m行くと道は分岐
した角には、東海道標識と右旧道の石碑がある。
標識には白須賀宿塩見坂下 
新居宿まで4.5Kkm 二川宿まで7.7Kmとある。まっすぐ行くと国道1号線に出る
が、旧東海道は右折して坂を登る。この長い(約600mの表示)急な坂道はほとんど人影
もなく、自分達だけが黙々と登る。坂の途中で振り返ってみると長い坂道の遥か向うに、
遠州灘が見え美しい景色であった。

この地図上の寺社・旧跡、名所等の位置は目安です。
街道地図・現地案内板等で確認してください。
Blowin' in the Wind 2012
                          
いっちゃん東海道を歩く・・

浜松から舞阪に入ると旧東海道は浜名湖岸壁までの約1.8Kmの直線の道で、道に迷うということはない。昔はその突き当たりの岸壁から今切の渡しと呼ばれる渡船で対岸の新居宿へ渡っていたが、現在、渡船はなく、少し北側に東海道新幹線と平行して走っている国道1号線で新居町へ歩くことになる。

見付石垣のすぐ先の左の民家に挟まれた小さな空地の手前に「秋葉常夜灯」と奥に江戸日本橋より67里の「舞阪一里塚跡碑」がある。江戸時代に舞阪宿はよく火災に見舞われ、1809年(文化6年)には宿の大半を焼く大火災で、復興も困難をきわめた。1815年(文化12年)人々の火防の願いをこめて建立されたのが、この常夜灯であると言い伝えられている。

常夜灯の正面には「秋葉大権現」、西面に「津嶋牛頭天王」、南面が「両皇大神宮」が彫られている。

舞坂の町並みは一直線で短く700mほどで、浜名湖に通じている。さらに進んで行くと、浜名湖護岸近くで道が丁字路になる手前の右手に「舞坂宿本陣跡石碑」がある。その斜め前方の左側に「舞阪宿脇本陣」がある。


見付石垣

一里塚跡

舞阪一里塚跡

常夜灯
舞坂の街並 道案内

舞坂の脇本陣(クリック)は1838年(天保9年)に建築で屋号は「茗荷屋」であった。平成3年に舞坂町所有となり、建築時の姿をとどめる書院等を解体修理するとともに、主屋、繋ぎ棟なども復元して平成9年に完成し、公開している。

岐佐神社
岐佐神社・赤石

本陣跡
脇本陣
脇本陣・表門
常夜灯

旧東海道宿場の中で唯一の脇本陣の遺構として貴重な建物となっている。その建物内を見ることが出来、当時の様子をうかがい知ることが出来た。

道は丁字路になっていて突き当たりの右端に「中雁木(がんぎ)跡」、そこから浜名湖を見ると遠くに湖中の鳥居が見える。丁字路を左へ約200mの地点に「南雁木(荷役場)跡」がある。右へ約200m行くと道の左の空き地に「北雁木跡」がある。

雁木(がんぎ):名湖に面した舞坂宿と新井宿を連絡する、「今切の渡し」の船の渡船場を「雁木」と呼ばれ、水際に面して石垣が階段状に積まれていた。舞浜宿には1657年(明暦3年)から1661年(寛文元年)にかけて、北雁木、本雁木、南雁木の3箇所が建造されたが、現在は北雁木に石垣跡が残るのみとなっている。北雁木は身分の高い武士、公家用、本雁木は武家用、南雁木は庶民、荷役用という使い道であった。

江戸時代は舞浜宿から次の新居宿へは今切の渡し船で浜名湖を渡ったが、今は渡船がないので旧東海道はここで途切れることになる。


南雁木跡
本雁木跡
北雁木跡
弁天橋・鳥居・弁天島 浜名湖 いりき・うな丼

舞阪宿を後にして、バスで(この間の道路・交通交通事情でのため)居町に向かう。車窓からは「弁天橋」「鳥居」「弁天島」と重ねて見ることができ、浜名湖とそこに架かる国道1号線の橋を見ながら、舞阪町から新居町に入り、昼食後、新居町駅から新居関所跡に向かう。 

舞阪宿:舞坂は古くから宿が置かれ、戦国期には
今川氏の支配下ですでに伝馬が行われていた。
その後、遠州を支配した徳川家康は新居宿を重用し、浜名湖の今切渡船の運営権を舞阪宿には認めず、新居宿の独占とした。そういうことが尾を引い
て境界争いなどで両宿の争いがよくあっという。
 

舞阪の象徴ともいえる浜名湖に浮かぶ弁天島は、1498年(明応7年)の大地震で津波で太平洋の
遠州灘の接する箇所決壊して海と湖水が通じ、
さらに1511年(永正7年)の大津波でその間が
広まり「今切」という地名の名前が生まれた。
弁天島は島となったところで、1709年(宝永6年)に「今切り渡船」の安全を祈願して「弁天神社」が
建てられてから「弁天島」と呼ばれるようになった。
江戸時代の舞阪宿の産業は海苔の養殖であった。

この地図上の寺社・旧跡、名所等の位置は目安です。
街道地図・現地案内板等で確認してください。
新居関所あらため女
復元

この坂は潮見坂と言って街道一の景勝地として知られ、西国から江戸への道中で初めて太平洋の大海原や富士山を見ることができる場所としても、古くから旅人を楽しませてくれた場所である。そして浮世絵、和歌、道中記などに多数紹介されていると言う。

だんだん内陸へ入り坂下から500mを約10分かけて坂の頂上にくると目の前が開け、左手に新しい建物がある。これは東海道宿駅開設400年記念として建設された「おんやど白須賀」(クリック)で、白須賀宿歴史と文化に関する資料の保存と活用を図っている。休館日は毎月曜日で、内部には休憩室、展示室があり利用料は無料となっている。急坂をあがってきて、冷たい麦茶を頂きゆっくり館内を見学したが、少なくとも東からの坂を登って来る人にはとてもありがたい館であることは確かである。われわれが着いたのは16時過ぎであったが、根津講師と館の方の計らいで一服、疲れを癒すことができた。

平坦な高台の道を北西へ歩いて行くと中学校、小学校の校庭を右に見ながら尾根道を歩くと左手に潮見坂公園跡碑があり、公園跡の展望台から見下ろす遠州灘も素晴らしいものである。


蔵法寺
三十三観音
道標

汐見坂
おんやど白須賀 明治天皇行幸碑

坂を下ってゆくと、白須賀の町並みが現れどこかしこに昔の宿の名残を見ることができる。町並みをしばらく歩いて行くと、道は直角に曲げられている。ここは曲尺手(かねんて)と言い軍事的な役割を持つ以外に、大名行列同士がかち合わないようにする役割もあった。大名がすれ違うとき位の低い大名が駕籠から降りて挨拶をするしきたりであった。しかし主君を駕籠から降ろすことは行列の指揮者にとって大失態であり、これを防ぐため斥候を行列が見えない曲尺手に出してかち合いそうな時は、休憩を装って最寄のお寺に緊急避難をしていた。

曲尺手を過ぎると道は下り坂になり、家々には屋号の入った札がかかげられていて、ひとつひとつ見ていくとなんとなく宿場の雰囲気を感じるような気がするのも不思議である。

遠州灘を眺望 街並
曲尺手(かねんて)


本陣跡
夏目甕麿邸宅跡

潮見坂公園跡から約1.1Km歩いてくると十字路があり、その手前の右側に脇本陣跡石碑がある。

十字路横断するとその右コーナーに、白須賀出身の偉人、夏目甕麿(みかまろ)邸宅跡と加納諸平生誕地の石碑がある。夏目甕麿(1774~1822年)は国学者で、本居宣長の門下入り国学の普及に努めた。著書には「吉野の若菜」などがある。加納諸平(1806~1857年)は夏目甕麿の長男で「鰒玉(ふくぎょく)集」などを出版し、晩年は紀州国学者の総裁となった。左側の民家の庭には「火防の槇」がある。延焼防止用の木であった。

十字路から300mほど北西に行くと右に立派な鬼瓦の庚申堂の建物がある。この建物は1841年(天保12年)に再建されたもので、この地方でもっとも大きい庚申堂である。境内には「見ざる、言わざる、聞からず」の三猿(さんえん)が置かれている。


庚申堂
三猿
境川
愛知県に入る
一里山一里塚

一里塚の森
を後に

東海道標識と白須賀宿も案内看板がある。  東海道標識から行くとすぐ左側の国道1号線と合流し、歩くことになる。1号線を400mほど歩くと、用水路のような境川にかかる境橋を渡ると豊橋市に入る。ここが静岡県と愛知県の県境になり、二川宿へ向かうことになる。 

静岡県と愛知県の県境の境川を渡って国道1号線を約300m行くと、左からくる潮見バイパスと合流する。

さらに300mほど行くと右手にこんもりとした林が見える、これは一里山一里塚跡で、東西11m、南北14m、高さ3mの旧東海道の面影を残す遺構として保存されている。

一里塚から交通量の激しい国道1号線を道なりに北西へゆるい下り坂を、ただただ歩く。周囲は正に田園風景で何も改めて見るところはないが、あたりが薄暗くなり、遠くには黒くシルエットなった山並が続いてみえた。

一里山一里塚から約3Km入ったところにあるコンビ二が今日のゴールである。ゴーの頃はすっかり陽も落ちていた。コンビニで買ったビールで今日の行程に乾杯!!

このコースは  見付跡石垣秋葉常夜灯舞阪一里塚跡碑舞坂宿本陣跡石碑舞阪宿脇本陣(茗荷屋)→常夜灯→中雁木跡南雁木(荷役場)跡
 
北雁木跡(バス移動)弁天橋弁天島・弁天神社→(バス移動)JR新居町駅新居関所跡(今切の関所)船着場跡疋田弥五郎本陣跡
 
飯田武兵衛本陣跡疋田八郎兵衛本陣跡石碑寄馬跡の石碑新居一里塚跡碑棒鼻跡石碑教恩寺藤原為家・阿仏尼→松並木→立場跡石碑 
 →立場跡石碑→
蔵法院
東海道標識と右旧道の石碑潮見坂おんやど白須賀潮見坂公園跡碑曲尺手脇本陣跡石碑夏目甕麿邸 宅跡・
 加納諸平生誕地
庚申堂→火防の槇→境川・境橋→一里山一里塚

クラブツーリズム 「街道を歩く 東海道53次 第27回 舞阪~御油」 街道案内人 根津信年 歴史講師

                                    9月22日 二川宿へ 

この地図上の寺社・旧跡、名所等の位置は目安です。
街道地図・現地案内板等で確認してください。
 荒井渡舟の図
白須賀へ
白須賀から
二川宿へ
2012. 9.21 見付石垣~白須賀宿    歌川広重が描いた東海道53次はこちらでどうぞ
           

江戸日本橋から新居宿まで275.9Km
 新居宿~白須賀宿間6.5Km
白須賀宿は高台にある。白須賀宿は
坂見下の現在の元町にあったが、
1707年(宝永4年)の地震と津波により
大半の家が流されたため、翌年、坂上に
移転した。多くの大名はここを素通りして
東の浜松、舞坂、西であれば御油、赤坂
に宿泊としたという。 

本陣:1軒、脇本陣:1軒、旅籠:27軒

 舞阪今切真景
白須賀汐見坂図