Blowin' in the Wind 2012
                          
いっちゃん東海道を歩く・・
この地図上の寺社・旧跡、名所等の位置は目安です。
街道地図・現地案内板等で確認してください。
       この日の行程は「道の駅まで柏屋までバス移動、昼食・資料館見学後道の駅まで戻     り、旧東海道を歩いた。
  編集は街道を通しで歩いたように構成してある・ 
コースの昼食

江戸日本橋から岡部宿まで188Km、 丸子宿~岡部宿間 7.8Km

岡部宿 : 岡部宿は、他の多くの宿より1年遅れた1602年(慶長7年)に成立した。小規模な宿で、隣接する内谷村を加えて人馬継ぎ立ての負担を分担して、宿駅の業務を行なわざると得なかった。
旅籠屋も大きなものが少なく、大規模な大名行列があると宿泊にもさしつかえ、夜具も藤枝宿や丸子宿から借りて間に合わせるほどであったという。
本陣:2軒、脇本陣:2軒、旅籠:27軒

前回に続き、今回も雨に降られた。きょうのコースは宇津ノ谷の峠越えである。
東海道の難所・・1の箱根峠、2の鈴鹿峠、3の小夜の中山峠、4の薩埵峠、そして今回の宇津ノ谷峠である。

丁子屋前の横断歩道を渡り、丸子川にかかる丸子橋を渡る。橋を渡った右側に、丸子宿御高札場の文字とともに、3本の高札がありいろいろ文言が書かれている。傘は古く、埋没していたものが復元され、高札は木の色の新しいものであった。道は西へ直進し約400m行くと道なりに左に曲がり、丸子川を右に見て南西に向かい500mほど行って1号線と合流して進む。1号線を200mほど行き赤目ヶ谷信号から左の道に入ると、古い民家の(動かない水車がある)軒先に丸子茶屋「丸子紅茶発祥の地」の看板がある。

十辺舎一九の歌碑 丁子屋 丸子橋 高札場跡 日本紅茶発祥の地

日本の紅茶の発祥の地・・ここに来てはじめて知った事である。「赤目谷(赤梅谷)の集落に入る。ここに起樹天満宮(源頼朝上洛のためこの社前を通行の際、梅の大樹が道路の中央に倒れた。頼朝は供の人たちに通行の妨げだから伐採せよと命令した。ところが倒れた梅ノ木が夜の内に元のように起き上がり枝葉が繁茂したので、これを「起き木」と称した)があり、日本紅茶の原木と紅茶を作った「多田元吉翁」の碑と多田家代々の墓がある。紅茶を飲飲む習慣はないがこのような地に来ると身近なものに感じる。

起樹神社 多田元吉翁の碑 多田家代々の墓
日本紅茶の原木案内版
長源寺

再度1号線と合流して歩道橋を渡り、名残の松を眺めながら旧東街道を歩く、1Kmほど行くと1号線の上下線を横断する歩道橋が見え、宇津ノ谷トンネル(左:平成・右:昭和)手前に、道の駅「宇津ノ谷峠」がある。


名残の松
国道1号線 一里塚跡 道の駅 平成・昭和トンネル

道の駅から歩道橋に向かう途中に、左折する「蔦の細道東入口」に、蔦の細道標識がある。蔦の細道は宇津ノ谷越えの最も古い道で、1590年(天正18年)に秀吉が小田原征伐のため旧東海道を開くまでの重要な街道であった。入口まで歩いたが、人一人通れる文字通り細い道であった。
ほんの入り口までであったが、古道を感じさせる・・機会があれば歩いてみたい道である・・
宇津の山は「伊勢物語」で広く知られるようになり、「宇津の山越へ」として、平安時代から鎌倉・室町時代の歌や物語のよく登場する名前である。
歩道橋の先の人家の少ない道(1号線トンネル手前をを右側に入る)を道なりに300mほど行くと分岐し、三角地に宇津ノ谷の案内板がある。


蔦の細道(東入口)

蔦の細道

細道(坂道になる)
宇津ノ集落入口
村中橋

旧東海道は左手、石積の道で宇津ノ谷集落の中を通る。石積道には「旧東海道 お羽織屋 明治のトンネル」の案内標識が立っている。丸子川にかかる橋を渡り石積の道を歩いて行くと、ゆるい登りの坂道と両側に古いのどかな宇津ノ谷の家並みが前面に開ける。宇津ノ谷集落は、丸子宿と岡部宿の間に位置し、往来する旅人が休息した間の宿で、軒先には昔の屋号をかかげ(今でも屋号で呼び合っているそうだ・・)歴史的な町並みが保存されている。

宇津ノ谷集落 慶龍寺 十団子の歌碑
十団子(許八)

集落と茶畑

お羽織屋の手前を右折して道を少し下り丸子川の橋を渡ったところに、宇津ノ谷峠から移された延命地蔵のある慶龍寺がある。この境内には、「十団子も 小粒になりぬ 秋の風」の許六の句碑がある。室町時代から伝わる数珠型の魔除けの十団子(とうだんご:お羽織屋の正面軒下に下げられている)で、現在でも毎年8月23、24日に慶龍寺の縁日に配られている。街並の中頃の左に石川家の「お羽織屋」があり建物は江戸時代ものである。1590年(天正18年)豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻めたとき、宇津ノ谷で休息をした。そのとき当家の祖先石川忠左衛門が馬の草鞋三足を献上して持成し、その褒美に秀吉は喜び着用の陣羽織を与えた。この羽織が今でも当家に保存され有料で公開している。保存までのいきさつ、苦労話も聞くことが出来た。また徳川家康や徳川慶喜から贈られた茶碗も展示されている・・90歳をこえるというおばあちゃんの話を聞いた。この地方の訛りを交えた話には味わいがあった。ここ、お羽織屋さんの軒先には数珠のような「十団子(とうだんご)」が下がっていた。昔、宇津ノ谷峠に鬼が現れて困ると聞いた在平業平が、下野の素麺谷に祈願したところ、宇津ノ谷に僧となって地蔵の化身が現れ、小さな団子の化けた鬼を杖で打ち10個の粒にして呑み込んでしまった。以降、峠は安全になり、峠に延命地蔵が祀られたという。

お羽織屋(石川屋)
看板
秀吉からの羽織 軒下の十団子
集落の階段

元の道に戻り町並みを歩いて行くと200mほどの短い街並は終わり、突き当たりの階段を登りきると左右に走る細い道に出る。右折するとすぐ左に階段があり、旧東海道入口の標識がある。
根津講師の案内により街道を左に入ると煉瓦積みの明治のトンネル・旧東海道案内標識の先、左折先に大正(昭和初期?)のトンネルを見ることが出来た。明治は遠くになりにけり・・」でも「明治のトンネル」一番の趣であったことは皆同じであろう。

旧東街道登り口の小さなたて看板を入る。結構険しい山道を右、左と曲がりながら登り、下を見ると通って来た宇津ノ谷集落と道がはっきり見えた。多分、昔と変わらないそのままの景観かもしれない。

明治のトンネル 大正のトンネル 旧東海道登り口 馬頭観音 馬頭観音頭部のアップ

旧東海道入口の標識のある階段を登ると馬頭観音がある。観音d様の頭にハ馬の首が綺麗に残っていた。、切通しきりのような道を約10分かけて歩く。頂上手前には延命地蔵堂の跡があり、現在は礎石のみが残っている。峠の頂上を越すと下り坂になるが、とても狭く急な険しい坂道が続く。宇津ノ谷峠を越えて、急で巾狭い坂道を下る。江戸時代の東海道の公道として大名行列の馬や人がこの険しい坂道を通行したとはとても信じられない。やはり昔の旅は何ごとも命がけであったのかもしれない。さらに坂道を下って行くと、静岡市から志太郡岡部町に入り岡部宿へ向かうことになる。

地蔵堂跡
宇津ノ谷峠
髭題目 街道案内板 旧街道案内板

下り始めると、左手の林の中にひげ題目碑がある。ひげ文字で刻まれた文字から付けられている名前であろう。そばで写真を撮りたかったが・・雨の急坂に断念・・さらに坂道を下り、「羅径記碑跡」の案内板を下ると、舗装道路に出る右旧東海道、左蔦の道の道案内がある。ここは蔦の道の西入口行く入口(案内板あり)になる。
※参考
この道は、駿河国安倍郡と志太郡のさかいにある宇津の山の一番低くなった鞍部にある峠道で、二つの峠越しがあった。一つは源頼朝以降の開発された旧東海道本筋を通っている宇津ノ谷峠で、もう一つはそれ以前の蔦の細道である。鎌倉幕府は部隊の行進ができない旧道を廃止し、新道を開いたのが宇津ノ谷峠道である。上り下り約870m(八丁)の険路であった。1601年(慶長6年)徳川家康が五街道を設置して交通の便を図ってからは、この街道は人や物資の往来が頻繁になり、参勤交代の大名行列は、20万石以上の大名は武将が20騎、足軽が120~300人もあり。1万石の大名でも50~60人の供揃えでその行列はこの峠を埋め尽くしたという。

坂の下神社 羅径碑 茶畑 1号線と右・岡崎宿 岡崎宿案内板

坂道を下ると、右側に坂ノ下地蔵堂がある。1700年(元禄13年)に、岡部宿の伊東七郎右衛門、平井喜平衛、中野陣右衛門の3人の発願して再建された霊験あらたかと村人や近隣の人たちに信仰されている。伝説として「鼻取地蔵」「稲刈地蔵」が残されている。堂内には地蔵菩薩像が安置されていて、宇津ノ谷峠を越える旅人の安全を守り、堂前の木陰は旅人の疲れを癒した。
峠を下る途中にあたった「羅径記碑」はここにあった。
地蔵堂から南へ歩いて700mほど行き1号線を歩道橋で渡り、道の駅で一服・・岡部川沿いに西へ1.3Km進むと川原町の十石坂観音堂が右に見える。江戸時代末期の造りといわれ、入母屋造瓦ぶき観音堂で内陣、外陣の境の格子は非常に細かい技巧がほどこされている。この観音堂には2基の厨子が安置されている。厨子の一つは宮殿造りで彩色がほどこされていて、江戸後期の作。もう一つの厨子は宝形で、黒漆塗りの品格の高い江戸中期の作。
(拝観はせず説明のみ)


常夜灯
笠懸松案内板 柏屋(かしばや) 看板 内藤本陣跡

さらに400mほど進むと丁字路があり、旧東海道は直進して細い道に入るとすぐ先の道端に、ここから北にある三星寺横の笠懸松・西住墓への道案内板がある。(ここから三星寺への道程はかなりあるらしい・・)弟子の西住とともに東へ放浪の旅をしていた西行が、天竜川をわたる際、乱暴を受けた。その者を西住が懲らしめたところ、西行は雲水にあるまじき行為として西住を破門し、形見として笠と筆跡を渡した。
失意の西住は密かに西行を追うが、岡部で病に倒れ「西へ行く雨夜の月やあみだ笠、影を岡部の松に残して」との辞世を西行から渡された笠に書き残し1137年(保延3年)9月23日に死んでしまう。帰途岡部の外れの小さなお堂で休んでいた西行が、堂の戸に掛けられていた西住の笠を見てその死を知り、「笠はありその身はいかになりならん あはれはかなき天の下かな」という歌を残して岡部を去ったという。その笠懸の松も昭和49年頃に枯れてしまい、今は2代目の松の根元に西行の小さな墓がある。
その先の岡部川にかかる岡部橋から左折し岡部宿に入り、進んでいくと先ほどの道に戻る。

本陣跡 街道の酒屋 姿見の橋 街道の旧家 光泰寺

南に歩いて行くとすぐ左に昔風の旅籠屋の柏屋(かしばや)がある。奥には、なにやら二人(弥次さん・喜多さん)の旅人が桶で足を洗いながら話をしている最中。その表には真新しい「平成13年度県都市景観賞最優秀賞」の立札がある。旅人は人形(かなりリアルである)であった。
今日のコースの昼食場所はここであり、峠越えの前に「文明の利器(バス)」で昼食(山菜御膳)・資料館見学をすることができた。幸運にも展示期間を延長した、等身大の「雛飾り」を見ることができ、建物内の案内、民具等の展示物、庭園も見応えあった。
その先の左側の公園の一角に岡部本陣跡碑(交通事故か石の碑は折られていた)がある。碑の後にある内野邸は元禄年間から本陣を勤め、現在の建物は明治になって建替えられたもの、14代将軍家茂上洛の折に社号を与えられ将軍稲荷、井戸が往時の姿を残しているという。

案内板
准胝観音像

准胝観音

聖徳太子立像
称徳太子像

現在の岡部宿の町並みを先に進むとすぐ左に旧東海道標識が立っていて、そこから本道から別れて平行して走る左のわき道が旧東海道である。街道両側の家々は現代風であるが、なんとなく宿場の風情を感じる街並みである。
本陣跡から400mほどのところを左に入り、内谷町の信号を左に道なりに300mほど進むと広い敷地に大きな本堂の光泰寺に出る。根津講師のサプライズで、本堂の西の間には、木喰五行上人が寛政12年(1800年)6月28日に製作した高さ216cmの准胝観音像と、同年7月5日に彫り上げた高さ113cmの聖徳太子像が安置されている。これを拝観することができ、なんと実物に触れる(さわる)こともできた。講師は見学の後にぬれた足跡の付いた上り口を拭いていた。ありがとうございました
※うんちく
木喰五行上人は甲斐国(山梨県)西八代郡の農家、伊藤六兵衛の次男。22歳で出家し、45歳の時に、火で調理したものや五穀を避け、木の実だけを食べる木喰戒を受けた。さらに、56歳頃から廻国巡礼を始め、60歳代で仏像の製作を開始。文化7年(1810年)に93歳で亡くなるまでに、千体以上の仏像を残したという。

五智如来像案内板 五智如来像(左側) 五智如来像(右側) 安置されている
五智如来像
雨の岡崎宿

光泰寺からの道から合流して200mほど行くと右の誓願寺跡に五知如来像がある。地元産の三輪石で作られて5体揃ったものが2組(奥の像が古いものであると聞いた)ある石像仏で、一組は陸奥棚倉から駿河田中城に移封された内藤弌信の家老の脇田次郎左衛門正明が1705年(宝永2年)に寄進したもの。向かって右から釈迦如来、阿門如来、大日如来、宝生如来、阿弥陀如来と並んでいる。当時の田中城主だった内藤紀伊守が、岡部宿外れの誓願寺にある五知如来像にひたすら願をかけたところ、口の不自由な姫が治癒したといういわれがある。
今日のゴールはここである。雨脚も強くなって周りを囲む山々は白く煙っていた・・



今日のコースは 丁子屋→丸子橋→高札場跡→日本紅茶の発祥の地→起樹神社(紅茶の原木)→宇津ノ谷一里塚→宇津ノ谷・道の駅→蔦の細道(東側)
  →宇津ノ谷集落(石積道)→慶龍寺→お羽織屋(石川屋)→宇津ノ谷トンネル(明治・大正)→延命地蔵堂跡→宇津ノ谷峠→ひげ題目碑→蔦の細道(西入口)
  →坂の下地蔵→(岡部一里塚)→十石坂観音堂→(三星寺・笠懸松・西住墓)案内板→柏屋(資料館)→内野本陣跡→光泰寺→五智如来像


 クラブツーリズム 「街道を歩く 東海道53次 第22回 丸子~岡部宿」 街道案内人 根津信年 歴史講師

2012. 3.23 丸子~岡部宿    歌川広重が描いた東海道53次はこちらでどうぞ
           
 岡部宇津の山